水底に沈みゆくレオノーレ
落ちていくわたしに向かって、あなたは必死の形相で手を伸ばしていました。
刃のように鋭く――それでいて時折、子どものように無邪気に笑ってみせるその端整な顔をゆがませて。
届かないと、わかっているはずなのに。
やがてわたしの体は何か大きなものにぶつかって、バラバラに千切れてしまいそうになりました。
本当に千切れてしまったかどうかはわかりません。色んな感覚が絶え間なく押し寄せてきて、とてもせわしなかったから。
それからは沈んで、流されて、また沈んで、沈んで――。
緑の濁った水の中に、冷たい世界に、ただ静かに落ちていく。
何も言わぬ魚たちに、揺らめく藻に見守られながら。
生臭い水が、鼻から、口から、流れ込んでくる。
かろうじて残った意識。薄く開いたまぶた。その瞳に映るのは、淡い光。
こんな濁った川の水底にも光は届くのですね。
それはとても綺麗で。ああ。綺麗で。
あなたは騎士でした。とある大貴族に仕える騎士。
わたしはただのお針子。
わたしの家は代々農民で、両親は疫病に罹って亡くなって、それからは孤児院で育った。
十五でそこを出て、生きていくために辛い仕事につかねばならなかった。
辛い仕事なのです。お針子は。
長時間座って針を操らねばならないため、肩は凝るし、手首も痛める。暗くなってからは乏しい蝋燭の火の元で仕事を続けるので、少しずつ目が悪くなっていく。
朝から晩までくたくたになるまで働かされて、手に入るお給料は雀の涙。
一人では家賃も払えないので、狭い部屋を他のお針子と三人で借りて暮らしていました。
一緒に暮らした二人は――一人は娼婦に身を落とし、もう一人は裕福な商人の愛人になったものの、子どもをみごもって追い出されたと聞きます。その後の行方はわかりません。
娼婦予備軍。
そう呼ばれる職業なのです。多くの同僚がお金持ちの愛人でも見つけて囲い者になり、辛い針仕事などやめてしまいたいと言っていました。
わたしは――。
確かに辛かったけれど、愛人にも娼婦にもなりたくなかった。赤毛で器量よしからは程遠かったし、そもそも男の人に身を任せる勇気がなかった。
針仕事そのものは性に合っていたので、懸命に働いてお金を貯めて、将来は自分の店を持つ――そんな夢を抱いていたのです。
生活は、苦しかった。
それでもわたしには希望があったのです。いつか自分の店を持つという、ささやかな希望が。
あなたとはじめて出会ったのは、仕上がった服を届けに行く途中でしたね。
こんな見た目のわたしでも、若いというだけでそれなりに価値があるらしく、男の人たちにからまれるのはそう珍しいことではありませんでした。
そこにあなたが通りがかり、助けてくれた。
癖のない黒髪に、濃い紫の宝石をその両目に宿したあなた。鋭利な刃物を思わせる端整な横顔。
洗いざらしのシャツにグレーのベスト、黒のズボンにこげ茶のブーツというありふれた服装でしたが、一目で鍛えられた体の持ち主だとわかりました。
あなたはただのひとにらみで男の人たちを蹴散らしてしまった。
わたしはその光景に、白馬の王子様とは本当に存在したのかと感動を覚えていましたが、続くあなたの態度はひどくぶっきらぼうなものでした。
あなたは視線すら合わせようとせず、
「いつも助けてもらえるとは限らないぞ。この先も都で生きていくつもりなら、あれくらい自分で追い払えるようになれ」
ごもっともだと思いました。
同時に、わたしはこの人に迷惑をかけてしまったんだな、と反省し、とにかく平謝りするしかありませんでした。
「も、申し訳ありません。あの、お礼を……」
「いい。それより、使いは済んだのか?」
「あ、いえ。これからです」
「だったら早く済ませろ。遅れたら面倒になるだろう」
「いえ、でも、あの」
「どこなんだ、目的の場所は。暇だからついて行ってやる。別の男どもに絡まれて時間に遅れたんでは、目も当てられないからな」
わたしは辞退しようと様々な言葉で説得を試みましたが、結局、あなたは仕立てた服を届けた後もそばを離れず、お店まで送ってくださったのです。
あまりにもお礼を、お礼を、と壊れた人形のように繰り返したからでしょうか。
あなたは面倒そうに、
「それなら、今度食事に付き合ってくれ」
そんな言葉を残して立ち去っていかれました。
同僚たちが彼の容貌に色めき立つ中、わたしはひたすらぼんやりしていたのを覚えています。
だって、奇跡のような出来事が、若い女性なら誰もが夢見るような出来事が、自分の身に起きてしまったから。
素敵な男の人に助けられるという出来事が。
食事の約束は、実現するとは思っていなかったけれど。
その日は針を何本もだめにしてしまって、店の主人に叱られてしまいました。
間もなくして、あなたは前よりもちゃんとした服装でわたしの店を訪ねてきました。
時刻は夕方。同僚たちが黄色い声を上げて騒ぐのをうるさそうにしながら、あなたはこうおっしゃった。
「今夜の予定は? 空いているなら、前に約束した食事に誘いたい」
予定はありませんでしたが、お金がありませんでした。
月末だったので、爪に火を点すような生活をし、一緒に暮らしている二人とは一つのパンと缶詰を分け合って糊口をしのいでいたくらいなのです。
わたしは顔を真っ赤にしてこう言うしかありませんでした。
「ごめんなさい。今日はちょっと、その……」
「都合が悪いか?」
「ええ。あの、その……できれば二十日過ぎまで待っていただきたいのです。そうすればお給料が入るので」
あなたの驚いた表情。今でも忘れることができません。
だってあなたは、女性に食事をおごらせるつもりなんてさらさらなかったんですものね。
でも、お礼に食事を、と言われたわたしは、自分がおごるものだと思い込んでいました。
あなたはしばらく何を言っていいかわからない、という顔をされていて、やがて怒ったように眉間に皺を寄せました。
「女におごらせる趣味はない」
「え? でも、それじゃあ……」
「食事に付き合ってほしい、という意味だったんだ」
「ええ!?」
「どうなんだ。都合の方は」
わたしが答える前に同僚が答えていました。
「ええ! もちろん行きます! 行きますとも! ――ね、レオノーレ?」
わたしはほかの同僚たちに引っ張られ、店の奥に連れていかれ、彼女たちの手によって精一杯のおしゃれをさせられました。
それからのことは、よく覚えていません。
緊張していて、なんだか現実感がなくて――でも、幸せだった。なんだか妙に足が軽くて、ふわふわしていて、隣を歩くあなたの顔は一度も見ることができなかった。
食事の席ではじめてわたしたちはお互いの名前を知りました。
あなたの名前は、ヘルムート。ヘルムート・ハネス。
わたしの名前は、レオノーレ。ただのレオノーレ。
あなたは名前以外のことも教えてくれました。
歳は十七の私より三つ上。出身は国の北の方。貧しい地主階級の三男で、現在はとある侯爵家に騎士として仕えている。
あの日は非番で、なんとなく街中をふらついていたら、ガラの悪い男に囲まれて困り果てている赤毛の娘を見つけた。放っておくのも忍びなく、声をかけた。
「ああいうことはよくあるのか」
「いえ、たまに、です。この器量ですが、見た目は若いですし、お針子ですし、声をかけやすいのかと」
「君に隙が多いだけだと思うがな」
「そ、そうでしょうか……」
「だが、器量に関しては……自分で言うほど悪くないと思うぞ。少なくとも、今、俺の目の目にいる君はとても美しい」
宝石のような瞳をじっと当ててそんなふうにおっしゃるから。
わたしの心臓はきゅううと音を立てて。
一瞬で、恋に落ちてしまって。
その恋が、身分違いの方に対するあこがれだけで済んでいたらよかったのです。
心の宝物箱から時折取り出して、眺めては少しの切なさと共に、懐かしく思えていた。
けれども、あなたは。
高貴な方に仕える騎士であるはずのあなたは、何度もわたしに会いに来て、食事に誘って、そのたびに家まで送り届けてくださって。
とある休日など、今夜食べるものを買いに家を出たわたしの前にばったりと現れ、当たり前のように買い物かごを取り上げてしまう、なんてこともあって。
わかりませんでした。
たまたま助けただけの小娘に、なぜこうもかまうのか。
わたしに特別なところなどありません。美しいわけでもないし、明るいわけでもないし、話が面白いわけでもない。本当に凡庸な娘なのです。どこにでもいるような。
あなたのような人なら、ただ遊ぶ相手、からかうだけの相手であっても、美しく魅力的な女性が選び放題なはずなのに。
だから、思い切って聞いてみました。
「ヘルムート様はなぜわたしにおかまいになるのですか? わたしのようなつまらない娘に」
隣を歩いていたあなたはわざわざ足を止め、わたしを見下ろして、こうおっしゃった。
「君といると居心地がいいんだ。気を遣わなくていいし、その分、飾らない自分でいられる。そういう相手はなかなかいない。貴重だ」
突然の口づけは、仕事の後に連れて行ってもらった食事の後のことでしたね。
いつもより口数の少ないあなたを横目に、わたしは心配しながら歩いていました。
何かあったのか、訊ねるべきなのか。
それとも、踏み込まない方がいいのか。
わたしにはわからなかったのです。あなたの中の、自分の立ち位置というものが。
友人と言えるほど打ち解けていない。こうして食事をする仲ではあるけれど、恋人ではない。ただ居心地がいいから連れ出してもらえるだけ。
そんなわたしが、あなたの心に踏み込んでいいものなのか。
その時でした。
あなたは急に歩みを止め、わたしの方を向いたかと思うと――。
わたしの腕をつかんで強い力で引き寄せ、息が詰まるほどきつくこの体を抱きしめたのです。
「君が好きだ、レオノーレ」
信じられませんでした。
というより、あまりにも突然の出来事に、頭が追いついていませんでした。
ヘルムート様が何をおっしゃっているのかも。
「でもわたし、居心地のいい存在だって……」
「今はもう、それだけじゃない。君のその声が、時折見せてくれる笑顔が、目を伏せる仕草が、たまらなく愛おしいんだ」
そう言ってあなたはわたしを少しだけ解放し、整った顔を苦しげに歪ませておっしゃったのです。
「愛している、レオノーレ。どうか俺と結婚してほしい」
頭の中が真っ白になって。
息を吸った状態のまま、しばらく動けなくて。
「でもわたし、お針子です。おまけに孤児です」
「知っている。それがなんだ」
「あなたとは身分が――」
最後まで言えなかったのは、唇をふさがれてしまったからでした。あなたの唇で。
「はい、と言え。それ以外は受け付けない」
「……はい」
その日、わたしはあなたと身も心も結ばれました。
幸せだった。気が、遠くなるくらい。
真紅のドレスを身にまとったご令嬢が大勢のお供を連れてご来店されたのは、あなたに「ぜひ」と返事をした翌日の、午後のことでした。
「レオノーレという名のお針子は?」
まばゆい金髪の、息を飲むほど美しいお顔立ちのそのご令嬢は、怒りのにじむ声でそうお訊ねになりました。
それから、別のお客様に生地を見せていたわたしの前にすべるようにやってくると、何か汚らしげなものでも見たような顔をされ、持っていた扇子を開いて顔の半分を覆い隠してしまったのです。
「あなたがレオノーレ?」
「さようでございます」
「そう。あなたが」
次の瞬間、眉間のあたりに強い衝撃を感じました。
美しいご令嬢が開いていた扇子を素早く閉じ、わたしの頭に振り下ろしたのです。
店内には他にもお客様がいらしたのですが、あまりの成り行きに、同僚たちさえも息をのんで凍りついていました。
「返事をしたそうね。ヘルムートの求婚に」
「…………はい」
「身の程知らずにもほどがあるわ。おまえのような卑しいお針子に、あの美しいヘルムートはふさわしくない。おまえから別れを告げなさい。できるだけ早く。今日中に」
「お嬢様、わたくしは……」
あの人のことが好きなのです、愛しているのです。
そう訴えようとしました。このまま引き下がるわけにはいかなかった。愛する人と夫婦になるという、もうすぐ叶う夢を、むざむざ捨ててしまうなんて。
「おまえの話など聞きたくもない。いいこと? すぐに別れなければこの店を潰すから。おまえも、どこにも雇ってもらえないようにしてやるから」
「お嬢様は一体……」
「トレンメル侯爵令嬢、エルヴィーラ・ラウラ・ハルデンベルグ。ヘルムートを雇っている家の者よ。わたくしの腹心の侍女がね、彼を愛しているの。あなたのような卑しい者ではなく、彼女とヘルムートを結婚させたいのよ。身分もつり合いが取れるから」
店を潰されると脅されてしまっては、あなたと別れるという選択肢以外、一体何が選べたでしょう。
あなたもまた――騎士といえども雇われ人。
わたしを選べばご令嬢の不興を買い、最悪、勤め先を追い出されてしまうかもしれない。
わたしのせいで。
わたしなんかのせいで。
だから、お別れするしかなかったのです。理由は告げずに。
結婚はできない、お付き合いも続けられないと言うと、あなたはとても怒りましたね。
なぜなのかと訊ねられ、わたしは身分が違うから、と口にしました。
「不安になったのです。あまりにも身分が違うから、やっていける気がしないと」
あなたは怒って、怒って、それでもあきらめず説得を続けて、何度も店までやって来て、家にまで押しかけてきて――。
でもわたしは、そんなあなたを拒絶し続けた。
身分違いを理由にするだけでは難しいとわかると、同僚に事情を話して男性の友人を紹介してもらって、その人に店の前で待ってもらうことにした。恋人のふりをしてもらうために。
そうして、現れたあなたに言いました。
「ごめんなさい。本当のことを言うと、好きな方ができたんです。――この方です。今ではお付き合いしています。だから……ごめんなさい」
あなたは納得しなかった。
けれども、同じことを二度、三度繰り返し、四度目でようやく――。
「わかった。君がそこまで言うなら引き下がる。これ以上しつこくして嫌われたくない」
固く目を閉じておっしゃった。
さらに、こうとも。
「君も同じくらい俺を愛してくれているのだと思っていた。けれど、違ったんだな。何もかも俺の思い違いだったんだ。思い違い……だった……」
震える声で。嗤いながら。拳を握り締めて。
――本当に、愛していたのに。
ささやくような声で。
ねえ、ヘルムート様。
他にどうすればよかったのでしょう。
無力なお針子でしかないわたしに何ができたというのでしょう。
はじめから身分違いの恋でしかなかったのに。
侯爵家を解雇されることになってもわたしと一緒になってほしい――そうお願いするだけの勇気と自信は、日々を生きるだけで精一杯のわたしには、なかった。
それから一年後、わたしは体を悪くし、店を解雇されてしまいました。
家賃も払えなくなり、一緒に住んでいた仲間たちは散り散りになってしまい、わたしは一人になってしまった。
しばらく廃屋で寝泊まりしていたけれど、食べるものがなくて、ひもじくて、これ以上は限界で――。
天罰、なのでしょう。
あんなやり方であなたと別れた、その罰。自業自得。
娼婦になればよかったのですけれど、こうなってもまだその勇気が出せなくて、まずできることとして、長く伸びた髪を売ろうと思いました。
赤毛は安く買いたたかれると知っていたけれど、背に腹は代えられなかった。
そんなとき、あなたに再会したのです。
最後にお会いしたときより少しだけ髪が伸びたあなたに。
あなたは隣に、亜麻色の髪の可憐な女性を連れていた。口元のほくろが印象的な、優しげな風貌の女性。
やせ細ってしまったわたしとは違い、女性らしい肉感的な体を持った人。
その女性は流行の服に身を包み、あなたと親しげに腕を組んで何かを話しかけていた。
あなたもどこかけだるげな顔をしつつ、口元に薄く笑みを浮かべて応えていた。
すぐにわかりました。隣の女性が例の侍女だと。
うらやましかった。あなたたちはどこからどう見ても恋人か若い夫婦でしたから。
そこは大勢の人が行き交う橋の上だった。
遥か下には、都の真ん中を流れる広くて深い川。
先にわたしが気づいて立ち止まって。
少し経ってからあなたがわたしに――というより、わたしの視線に気づいて足を止めて。
一瞬、わからなかったのでしょう。わたしの姿があまりにも様変わりしていたから。
あなたは怪訝な顔をしたかと思うと両目をこれ以上ないくらい見開き、その場に凍りついてしまった。
わたしは何もなかったかのようにその場を去ろうとしました。
こんなふうになってしまった自分を見られたくなくて。
何があったのか、打ち明けたくなくて。訊ねられるのも嫌で。
でも、運命はいつだってわたしの味方をしてはくれないのです。
あなたはいつの間にか目の前に立っていた。
そして、わたしの両腕をつかんで言った。
「どうしてこんなことに……」
それからあなたは続けました。
あれからもあきらめきれず何度も店の前を通っていたこと。ところが、一月経った頃から姿が見えなくなっていたこと。家に行ってみたが、すでに引き払われていて、別の住人が住んでいたこと。
「あの男は……!? 君と結婚するはずでは!?」
わたしは答えませんでした。一つでも答えてしまったら、堰を切ってあふれてしまうだろうから。
侯爵家のご令嬢に脅されて別れるしかなかったことすらも。
「どうなっているんだ、レオノーレ! 君の幸せを願ったから身を引いたのに!」
やがて亜麻色の髪の女性がやってきて、わたしのことをとても心配してくれました。
「あなた、すぐにお医者様にかかった方がいいわ。いえ、それよりもまず食事ね。近くの食堂に入って栄養のあるスープを作ってもらいましょう。それから宿を借りて、体を洗って、服も新調して……」
その女性は近くで見るともっと綺麗で、バラの香りがしました。
わたしは困惑しました。なぜそこまで、と疑問をぶつけました。
すると、女性は笑みを深くしてこう答えたのです。
「あなたがヘルムートの想い人だから。この人にとって大切な人は、私にとっても大切な人なの」
なんて深く愛されているのだろう、と思いました。
同時に、なんて素晴らしい女性なのだろう、と。
わたしの選択は間違いではなかったのです。あのとき、言われるがまま身を引いて正解だった。
「……お二人はいつ結婚を?」
もうしたのだろうか。それとも、これからするのだろうか。
「していない」
「していないわ」
お二人とも、ほぼ同時にそうおっしゃいました。
言葉を失うわたしに対し、女性の方は苦笑いを浮かべてみせました。
「だってこの人ったら、今でもあなたのことを愛しているのよ。何度私が告白してもはねのけて。もう、失礼しちゃう。お嬢様方のお墨付きだって言うのにね」
――ああ、神様。
胸が苦しくなりました。胸の真ん中あたりを、ぎゅっとつかまれたみたいに。
涙がにじんで前が見えなくなって、息もうまく吸えなくなって。
行きましょう、と女性がそっと手を取ってくれました。しっとりとした温かい手でした。
足が勝手に動き出して、わたしは彼女の隣をよろめきながら歩き始めました。
「レオノーレ、平気か? 辛いなら俺に寄りかかって……」
あなたはそう言って肩を抱いてくれようとしたけれど、わたしはその腕にすがらなかった。
わたしにはこの人を幸せにできないから。
わたしにはこの人を幸せにできないから。
だって、わたしはただのレオノーレだから。
お針子ですらない、孤児の、何も持たないレオノーレだから。
わたしの体は病魔に蝕まれていて、栄養も足りていなくてひどい有様で、たぶんもう、限界が迫っていて。
けれどこの女性なら――あなたの隣で穏やかに微笑んでいるこの人なら、きっとあなたに深い愛を与えてくれて。
あなたはいつまでも侯爵家の騎士でいられるから。
わたしは最後に残った体力を振り絞って走り出しました。
久しぶりに走ったから、心臓が燃えそうになったけれど、歯を食いしばって人の間を駆け抜けた。
「レオノーレ!」
「待って! どこに行くの!」
二人の声が遠ざかったところで、橋の欄干に寄りかかるようにして――。
悲鳴。悲鳴。悲鳴。
わたしは川に向かって落ちて行きながら、こちらに向かって手を伸ばすあなたを見つめていました。
あなたは必死の形相だった。
刃のように鋭く整った――それでいて時折、子どものように無邪気に笑ってみせるその顔をゆがませて。
届かないと、わかっているはずなのに。
やがてわたしの体は何か大きなものにぶつかって、バラバラに千切れてしまいそうになりました。
本当に千切れてしまったかどうかはわかりません。色んな感覚が絶え間なく押し寄せてきて、とてもせわしなかったから。
それからは沈んで、流されて、また沈んで、沈んで――。
緑の濁った水の中に、冷たい世界に、ただ静かに落ちていく。
何も言わぬ魚たちに、揺らめく藻に見守られながら。
生臭い水が、鼻から、口から流れ込んでくる。
かろうじて残った意識。薄く開いたまぶた。その瞳に映るのは、淡くやわらかい陽の光。
こんな濁った川の水底にも陽光は届くのですね。
それはとても綺麗で。ああ。あなたの瞳と同じくらい綺麗で。
――どうか、幸せに。
最後の瞬間に、ただそれだけを願いました。
あなたを、愛していたから。
〈了〉
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