第十八回 竹葉楼の怪人 四
肩を掴まれた私は、玄刃の手を振り払おうと必死です。しかし力が強くてビクともしません。
「無駄な抵抗はお止めください。私は天帝に命ぜられて生き物を間引く役目に就いております。それが今回はお嬢さまだったというだけ。気の毒ですが運命は避けられませぬ」
「い、いやよ! 金五! 助けてちょうだい!」
私は外にいる使用人に大声で助けを求めました。金五からはすぐに返答がありました。
「は、はい! お嬢さま! 少々お待ちを!」
金五が扉を開こうと揺らしているのが分かります、ですが扉は開かれません。
「無駄ですよ、お嬢さま。扉には術をかけております」
ハッとして玄刃に目を遣りますと、顔は冷静で微笑みを絶えず浮かべておりましたが、細い目がカッと見開き、口が耳まで裂けて行きます。その開かれた口には大きな四本の尖った牙が覗いておりました。
「痛い!!」
そして玄刃の肩に触れられた手が、私の身体に食い込んでいったのです。
◇
その頃、益徳さんは許の市中を右往左往。どこへ行くのか目標もなく、かといって立ち止まるわけにもいきません。
そんな道を失った益徳さんに町の人が声をかけて来ました。
「張郎中! ちょいと、張郎中!」
「なんでィ、後にしな。今急いでるんでィ」
「ですが、先ほどもここを通られました。それに夏侯のお嬢さまが張郎中を探しておりましたよ?」
益徳さんはピタリと足を止めます。そしてその町人に聞きました。
「お、お嬢ちゃんが?」
「さようでございます。車夫に車を引かせておりましたが、なにやらあちらの薄暗い路地へと入って行きました」
「そうかい。ありがとよ!」
益徳さんは必死で駆けながら路地を曲がり、私を探しましたがそう簡単に見つかりません。
益徳さんはもはやためらってはおれませんでした。
「お嬢ちゃん! 夏侯のお嬢ちゃん!」
その声が少し遠くから私の耳に届きました。絶対に益徳さんの私を呼ぶ声です。
私は益徳さんを呼ぼうとしましたが、玄刃の片手に口を押さえられて言葉を発することを禁じられてしまいました。
「余計なことは言わなくてよいのですお嬢さま。お嬢さまが声を出さなければ張郎中は気付かずに行ってしまいます。もはや運命は変えられません」
私は口を押さえられながら涙を流しました。このままでは本当に益徳さんはこのさびれた楼閣に気付かずに通り過ぎてしまうと思ったのです。
「張郎中! こちらです!」
そう表から声が聞こえました。使用人の金五です。彼は私の代わりに益徳さんを呼んでくれたのです。
外には、益徳さんの駆ける足音が近付いて来るのが分かりました。
「しまった! 表の使用人か! くそう! あんなもの、あらかじめ殺しておくんだった!」
玄刃は悔しがって私を引き寄せ、壁を蹴って二階の廊下に飛び上がりました。すごい身体能力ですわ。そして廊下の欄干から階下の扉を覗き込みました。
「しかし、扉には禁がかけられておる。いくら剛力無双でも絶対に開けられまい」
と、その声は少し怯えているよう。外からは益徳さんと金五の声が聞こえます。
「おい! オイラを呼んだのは御手前か!?」
「さようです! お嬢さまが黒衣の男に連れられて中に! しかしどういうわけか扉が開きません!」
「鍵でもかけやがったか!? どいてくれ!」
「へい!」
ドカーーン!!
と扉の蹴破られる音。そこにはおっかない顔をした益徳さんが立っております。
「この野郎! 玄刃! どこにいやがる!」
「な、なに!? 一撃でか!? 一撃で私の術を!?」
玄刃が声を発したために、益徳さんは二階を見上げます。玄刃は驚いて身を隠そうとしますが間に合いません。
「そこにいやがったか! 待ちやがれ!」
「ええい! 待てと言われて待つ馬鹿がどこにいるか!」
益徳さんは猛スピードで階段を駆け上がり、玄刃はさらに上を目指して飛び上がります。
「くそう! お嬢さまを食らって仕事を完遂したいが、こう追い込まれては時間がない!」
「食らわせるものか! 夏侯のお嬢ちゃんを放しやがれ!」
玄刃は私を脇に抱えて移動するものの、逃げるものは弱いもので、益徳さんに追い付かれ帯を掴まれました。
「ええい放せ! 私は天帝の命を受けたものぞ! お嬢さまがここで命を失うのは運命なのだ!」
「なにを言う! オイラが来たからにはお嬢ちゃんを殺させはしない! さっさとこっちに渡しやがれ!」
「天命だぞ!? 天の命に逆らうのか? ましてやお前は私から賄賂を受け取った! 私が大虎なら、貴様は大老虎だ!」
大老虎とは、汚職をする役人のことです。益徳さんは玄刃になじられましたが、怯みませんでした。
「馬鹿を言うな! 不意討ちな贈り物が賄賂になるか! それになぜお前が天命を決める!」
「我が一族は生けとし生けるものの間引きを命ぜられて生まれてきた。このお嬢さまは丁度よく私のところに来たのだ。だからこのように名簿にも記載したのだ! ここに書かれたものは天命を受けねばならない!」
玄刃はそう言って、例の竹簡を広げて私の名前を益徳さんにさらしました。ですが益徳さんは真っ赤になって叫びます。
「なにを言いやがる! お嬢ちゃんにはちゃんとした未来があるんでィ! 十一歳で終わってたまるか!」
「関係のない赤の他人のお前が何を言う! 天罰を恐れて消え失せろ!」
「そうもいかねぇ! お嬢ちゃんは赤の他人じゃねぇからな!」
「ハッ! ではお前の娘とでも言うのか? このお嬢さまは、父は夏侯英、母は李春。お前など入る隙などない!」
「それがあるのだ!」
「なんだ、言ってみろ!」
「お嬢ちゃんはなァ、お嬢ちゃんは──。オイラの嫁になるんでィ!!」
ド、ドーン!!
言いました。益徳さんは仁王立ちになって言いはなったのです。真っ赤な顔して。言われた私も真っ赤になってましたが。玄刃だけは目が点になってました。ですが、その後吹き出したのです。
「はーっはっは! 面白い冗談だ。親と子ほどの歳の開きがあるのに、なにが嫁だ!」
「ウソじゃねぇやな。許子将とかいう人相見が二人の未来は一致してると言ったんでィ! 嫁だからオイラが守る義務があるんでィ!」
「なに? 許子将だと? ま、まさか!」
「だからお嬢ちゃんは今日は死なねェ! 少なくともオイラの子を産むまではな!」
そう言って益徳さんは玄刃だけを突き飛ばし、私を腕の中に抱いたのです。
「大丈夫かい? お嬢ちゃん?」
「はい。でも、あの、その、さっきの話は……」
「ああ、そのぅ。まぁ、だから、その、なんだ。男、燕人張飛、将来、お前さんの夫になりてェが、やっぱり嫌だよなァ……」
「いえ、そんな、まさか、あの、私も──」
「本当かい? 本当にこんな歳の離れたオイラの嫁になってくれるのかい?」
「は、はい! もちろん、そのつもりで」
「は、はは。じゃあ、良かった」
「え、ええ……」
私たちは互いに恥じらって顔も見れずにおります。この時の益徳さんの純情さったら、可愛くてしょうがないですわ!
ですが、その時です。突然の咆哮と共に、私たちは押し倒され、益徳さんは廊下を滑って少し離れた場所へ。私たちはまた離ればなれに。
見ると、玄刃だったものは九尺の大虎に変化し、私の服の裾に噛みつきました。
「ええい、もはや手段など選んでおれん! どうあってもお嬢さまを喰い殺してやる!」
そう言うやいなや、窓を突き破り二階の屋根に降り立ったと思ったら、さらに飛び上がって頂上の屋根に着地しました。
「いくら張郎中が人並外れた力を持っていようとも、すぐにはここに上がってこれまい。味わってなどいられない。すぐに呑み込んでくれよう。お嬢さま、お覚悟!」
玄刃は私にのし掛かり、首筋を狙って大きな牙を突き立てようとしました。
「待てィ!!」
私と玄刃は、驚いて声のほうを見ますと、屋根に益徳さんの両手がかけられております。そこから腕の力で屋根に登って来ることが想像できました。
「ええい! 邪魔をしおってからに!」
しかし、玄刃はそれを阻止しようと飛び上がって手に爪を突き立てようとします。
ですが、益徳さんは野生のカンが働いたのか、襲いかかってくる玄刃の片方の前足を掴んで引き込んだのです。
そうなるとバランスを崩した玄刃は大変です。楼閣の頂上から落下し始めます。
驚いたことに、益徳さんは玄刃の身体を押さえたまま一緒に落ちて行ったのです。
もしも益徳さんに身体を押さえつけられなかったら、玄刃は持ち前の身体能力で怪我なく着地出来たでしょう。しかし身動き出来ないまま頭から地面に衝突!
益徳さんは、その衝撃の跳ねかえりを利用して、ピョイと飛び上がって空中で一回転し、見事に着地しました。
大虎となった玄刃を見ると、ピクリともしませんでしたが、最後の力を振り絞ってか、首を少し上げて益徳さんのほうを見ました。
「おのれ張郎中め……。決して許さんぞ……。私の一族がきっと仇をとってくれる……。虎はしつこいぞ……。一生を怯えて暮らすがいい……」
「はん! 挑むところだ! いつでも来やがれ!」
言い終わった玄刃は、ゴボリと血を吐くと生き絶えました。
益徳さんはというと……、玄刃を哀れむような目で見ておりました。
「バカ野郎……。諦めてくれりゃ良かったのに。いい飲み友達が出来たと思ったのによ……」
そう寂しそうにいいながら、懐から瓢を出しますと、中のお酒を全て玄刃の顔に注ぎました。
「そうら、酒は返すぜ。都の酒は旨かろう……」
益徳さんは、そう言いながら玄刃を手向けました。それを私は屋根の上で見ていたのです。
その後、益徳さんは駆け出し、私のいる屋根まで迎えに来てくれました。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「ええ。張飛さまが助けてくださったんですもの」
「おい、怪我をしてるじゃねぇか!」
「あは……でも大丈夫で……」
玄刃に掴まれていた肩からはじんわりと血が滲んでいたのです。
益徳さんは慎重に私を抱えて楼閣から降りると、金五を引き連れて夏侯のお屋敷まで連れて行ってくれたのです。
互いに結婚の意思を伝えあった後のお姫さまだっこで、市中を駆けたあの時。忘れられませんわ!




