陸
新たなステルス妖魔の情報を麻琴から貰った翌日の放課後、裂は西八王子駅に来ていた。
今までの目撃情報と2年前に鬼が消息を絶った地点から妖魔が生息していそうな場所は西八王子駅から徒歩で30分程度の廃工場だ。まずは現在でもその廃工場に妖魔が居ないかを確認する必要が有る。
本音では今回の件には関わりたくなかった裂だが見返りの『妖魔に成った業炎鬼』の情報は魅力的だ。
「……はぁ」
不景気に息を吐き出しスマホを取り出した。
6月2日、16:32の表示が麻琴からのコール画面に切り替わる。
『こちら伏魔殿。西八王子に到着した頃かしら?』
「……今度は俺がストーカー被害に遭ってるな」
『貴方、自分がストーカー被害に遭う程魅力が有ると思っているの?』
「本気で傷付くから、その言い方」
『茶番は此処までよ。廃工場の場所は分かるわね』
「ああ。ナビもちゃんと動いてる」
『なら良いわ。現着したらまた連絡しなさい』
「了解」
通話を切ってナビを起動させ廃工場の住所を入力する。事前調べと同じように所要時間が30分と表示された。
駅前からまずは正面へ歩を進め住宅街を進んでいく。
普通に見ればスマホを弄りながら歩く現代の少年にしか見えないだろうが、裂はこの西八王子に奇妙な違和感を覚えていた。
ハッキリと何が可笑しいのかは分からないが、常に無遠慮な視線に晒されているような奇妙な感覚が続いている。
前のステルス妖魔に感じた飢えた獣のような気配ではなく、尾行の下手な素人に遊び感覚で覗き見されている感覚だ。
……ステルス妖魔だとしたら完全に別種だな。
気配の主を探すよりも今は眼の前の仕事だと割り切って廃工場への道を進み続けると程無くして目的の廃工場に到着する。
裂は麻琴からの指示に従って現着報告の電話を掛ける。数回のコール音の後に麻琴が出た。
『着いたわね』
「ああ」
『妖気は全く検知出来ない。妖魔の有無は前回同様に目視しかないわ』
「面倒だな」
『レーダーが無かった時代の鬼たちを心から尊敬するわ。それじゃ、始めましょうか』
裂は通話は切らずに鞄から取り出したイヤホンマイクを耳に付けジャックをスマホに刺しカメラが外を向くように胸ポケットに入れる。
廃工場の敷地に入る為に施錠された2メートル程の高さがある格子状の門を乗り越え敷地内に着地する。直ぐにグローブを嵌めて戦闘態勢を取ると周囲を警戒しながら封鎖された建物に向けて歩き出す。
『調査範囲は工場内全域。調査項目はステルス妖魔の有無。さて、どうなるかしらね』
「成るようにしか成らない」
『言うわね。工場内は古くてデータが無いわ。サポートは期待しないで』
「……役に立たない」
『後で締めてやるわ』
雑談を交えながらも麻琴はレーダーから目を離さず、裂は周囲への警戒を怠らない。
既に何度も経験した事で慣れてしまったこの作業、それが自分たちにとって幸せな事なのか彼らは答えを持たない。
「そう言えば麻琴は何で妖魔を追っているんだ?」
『あら、組んだ時に話さなかったかしら?』
「聞いた覚えがないな。無理に聞く気も無いが」
『なら話さない。そう言う裂の理由は?』
「言ってなかったか?」
『聞かなかったわね。詳しく聞く気も無いけど』
「なら言わない」
『そう』
実は過去に5回も同じ話しをしているが本人たちは全く覚えていない。
互いに相手が対して自分に興味が無いと理解しての会話だが、そのせいで周囲からは深く理解し合っているという誤解を受けている事を彼らは理解していない。
雑談を程々に工場内へ続く勝手口に目を付けた裂は人為的罠を警戒してゴム布でドアノブを掴み静かに開ける。目で内部を観察出来る程度に少しだけ開いて工場内を見るが特に異常は見つけられない。
一息吐いて工場内へ身体を滑り込ませた裂は溜息を吐く。
工場内は加工機が全て撤去され、代わりに不良が溜まり場にしていたのか荒れたソファなどが置かれていた。他にも酒瓶や菓子の袋が散乱しており生臭い異臭もする。
「酷い臭いだ」
『不良が溜まり場にしていたなら仕方ないわね。ステルス妖魔が居る感じは有る?』
「これだけ生臭いと集中出来ない。くっそ、居ないって事にして帰りたい」
『居ない事の証明って難しいのよね。キリが無い部分も有るし工場内を一通り見回ったら引き上げましょう』
「そうさせてもらう」
1度だけ荒く鼻を鳴らした裂は周囲を警戒しながら工場の中心部へ足を運ぶ。
2階の天井まで吹き抜けになっているが四方の角の内、1ヵ所だけ事務所らしき足場が出っ張っている。その出っ張りへ行く階段などは見えないが入口の扉から少し横に逸れた場所にも扉が有る。
他に何も注目するべき点が見つけられず裂はその扉へ向かう。念の為に最初の扉と同じようにゴム布によって手を守りながらドアノブに手を掛けるが特に何も仕掛けはない。
人が居ない為か全く人の侵入に対して妨害が無い。
廃墟では有りがちな事だが、それ故に裂の徒労感は酷い。
人が完全に居ない場所には妖魔も出ない。
妖魔は人の暗い感情を好み、暗い感情を持つ者は人気が少ない場所を好む。
その為、妖魔が最も多いのは人気が少ない場所であり、人気が無い場所では無い。
この廃工場のように完全に人の出入りが無くなってしまった場所では妖魔も出ない。
「無駄足か」
『何か有るよりは良いじゃない。事務所に妖魔が居なければこのまま調査終了よ』
「はいよ」
通話越しの麻琴の励ましに少しだけ心を軽くし扉の先を見る。
扉の先にはスチール製の靴箱と遠回りに工場へ繋がる道と階段が有る。1度首を巡らせれば扉の直ぐ横にタイムカード用の装置がそのまま残っていた。電源は入っていないのでカードリーダーの電源ランプは灯ってはいないがこの廃工場が元は1企業の持ち物出会った事を示している。
特に感慨も覚えず裂は2階への階段を登り、1度踊り場で折り返し2階へ到達する。
『ここまで順調だと却って不気味ね』
「止めてくれ」
溜息を吐いて階段を登り切った裂は再度現れた扉に手を掛ける。
工場内から見えた出っ張りに繋がる廊下が伸び、梱包用と思われる段ボールが隅で埃を被っていた。
最後の調査範囲に気を引き締め歩を進める。
5メートル程度の廊下を歩き切ればガラス張りの扉が有り内部が見えている。
いつかの廃ビルのように机は撤去されていたが床下にはいくつか電源コードのような配線が置き去りにされている。
室内に入った瞬間、裂は眉を歪めた。
「何だ、この異臭」
『異臭がするような部屋には見えないけどね。奥に何か有ったりしない?』
「この部屋には見える範囲以外にスペースは無さそうだ」
『そうなると異臭の原因が分からないわね。もう少し見てみましょう』
室内に足を踏み入れた裂が適当に部屋を見てみるとコード以外はやはり見えない。
床だけを見ているから何も気付けないのだろうと上を見てみれば天井に段が付いていた。部屋の中央まで行き振り返ってみれば木製の社が飾られており小皿に供え物らしき腐った何かが置かれている。
「何か固有名詞が有ったはずだけど、何だったか?」
『あ~、ダメね。忘れたわ』
「ちょっと古い家とか、あとは企業には習慣的に置かれてる事が多いんだったか?」
『最近は見ないし名前を知る機会も無いでしょうね。そして異臭の正体は恐らくあの腐ったお供え物ね』
「撤去作業の時に置きっ放しになったのかもしれない。これで調査は終了だな?」
『ええ。居ない事の証明が出来なければ、居る事の証明も出来ない。これ以上の調査は時間の無駄よ。明確な目撃情報や事件が無い限り、ここの調査は無意味だわ』
元々、影鬼所属の鬼が行方不明になったのはこの地域だ。明確にこの廃工場で行方不明になったとは確認されていない。今回の調査はこの廃工場で鬼や黒子が行方不明になったかの確認も含まれているが、妖魔と戦闘が有った痕跡は発見できなかった。
「無駄足だったが報酬は出るはずだな?」
『ええ。明日にも入金されるはずよ』
「それだけで充分だ。もう帰る」
『そうね。今日はこれで解散、帰り道で何か有れば連絡しなさい』
「了解だ」
それだけ言って通話を切った裂はイヤホンを鞄に戻し工場を後にする為、扉を開き廊下を歩き階段を降り工場へ降りる。
敷地へ続く扉を開け、陽光の眩しさに目を細めた瞬間に嫌な気配に足を止めた。
西八王子駅で感じた不躾な視線だ。
その視線の主の気配を直ぐ傍で感じる。
「冗談だろ」
ズボンのポケットに落としていたスマホに素早く手を伸ばしショートカット設定にしている麻琴への通話を行う。
その操作が完了した瞬間に裂は視線の主を見つけてしまった。
異常に長い爪を持った仮面の妖魔だ。体長約5メートル、般若の仮面を掛け艶の有る長い黒髪を乱しに乱し裂へ強烈な敵意を向けている。
先日のステルス妖魔と同様に、最初は存在を感じられず、今も半透明で居るか居ないか確信が持てない。
しかし1度経験した事だ、裂はその不確かな妖魔がそこに居ると確信を持って挑む。
「見つけた以上は、逃げられないか」
「なっ、また急にセンサーが働いた!?」
「……本当に、何で見つけてしまったんだろうな」
錆びた門を乗り越えて巨乳黒子こと、青山霞が妖魔を裂と挟み撃ちにする位置に立ったところだった。
裂が霞の姿を視界に捉えた瞬間、般若の妖魔は完全に実体化し2人の前に立っていた。
背は酷く曲がっているがそれでも2.5メートル程度の高さは有る。身体は黒髪と黒い着物のような物に覆われて見えないが、般若の面と黒髪から無念の怒りに苛まれた女の妖魔だという事は分かる。
裂は妖魔の出現直前に操作した通話の結果を見ようとスマホに視線を落としたが、妖気が強い為か電波のマークが圏外に変わっていた。
妖魔の種類によっては時折起きる事態なので裂は慌てないが、舌打ちは止められない。
その苛立ちに反応したのか実体化した般若の妖魔は裂へ狙いを定めている。
妖魔の背後では霞が急いで札を構えたが妖魔との一瞬を争う戦闘において札では対応が遅すぎる。
再度舌打ちをした裂は妖魔へ向けて拳を向け、
「なっ、灰山君!?」
霞が叫んだ瞬間、実体化した妖魔の姿が鳥居を模した門に代わり、開いた扉が2人を引き込んだ。
「はぁ、またか」
「もう、何が起きてるのよ!?」
溜息も叫びも飲み込んで、異界への鳥居は人を飲み込んでいった。