肆
門の引力に逆らわずに引き込まれた裂は引力に合わせて進めていた歩が急に重くなった感覚に驚いて足を止めた。引力が急に無くなったせいでバランスが崩れた事を理解している裂は少しつんのめったが倒れる事は無い。
しかし、彼の背後に居た者はそうもいかなかったようだ。
「わっ」
「ぐっ」
「ああっ、ごめんなさい」
裂を庇おうと追ってきた黒子も同様に門に吸い込まれたようで勢い良く裂の背中に衝突してくる。
黒子の勢いで転びそうになった裂だが左足の踵で回転しながらバランスを取り戻し、黒子を支える事無く逸らしてから体勢を整え周囲を見渡した。
星が見えない事から屋内と思われるが天井らしき壁は見えない。不気味な岩の壁が裂たちを囲み正面のみ通路になっている。壁には顔にも見える三角形に近い配置でランプが規則的に並び光源は確保されていた。
背後を見れば吸い込まれる直前に見た豪奢な装飾の西洋両開き扉が立っているのだが、壁に設置されているのではなく、地面から直接生えている。両扉に設置されたドアノブには幾重にも鎖が絡み付き巨大な南京錠で施錠されていた。
軽く触れてみただけで人力での破壊は不可能だと分かる程に硬い事が分かる。
「前に進むしかないか」
溜息を吐きながら裂は通路の先を目指して歩を進め始め、いきなり肩を掴まれた。
「ちょっと、こんな所を1人で行こうなんて無謀ですよ!」
起き上がった黒子が裂の歩を止める為に肩を掴んでから、札を構えて先を歩き出した。
……少しでも大きい妖魔が出てきたら役立たずだな。
黒子の扱いについて見捨てる方向で決定した裂は何も言わずに彼女の後を歩き始めた。
「貴方、名前は?」
「は?」
「ああ、先に自己紹介しとかないといけませんね。私は青山霞、今は私服だけど普段は警察で四鬼の黒子をやってます」
通路を歩き始めた霞は一定間隔で懐から手に持っている札とは別の札を出して壁に貼っていく。
目印となる札なのだろうが何の為か正確には図れない。
「……灰山」
「へ~。鬼業界では時々噂を聞く苗字ですね」
「そうなのか?」
「ええ、一般的には偶に聞く苗字だと思うけど鬼業界ではね、1つ噂があるんです」
「そうか」
「灰山はね、四鬼の1柱、業炎鬼との派閥争いで衰退した一族の苗字なんだそうです」
裂もそれは知っている。
人の業を炎に変えて全てを焼き尽くす業炎鬼、人の意志を灰として積み上げ刃とする灰塵鬼。着かず離れず歴史の中で協力する事も有れば対立する事もあり灰山家としは最も因縁の有る間柄だ。
しかし裂個人としては業炎鬼には何の感情も無い。灰塵鬼が業炎鬼に潰されたのは裂の祖父の話で彼自身は特に被害を受けていない。好きにも嫌いにも成る理由が無かった。
「青山という事は、青山さんは激流鬼の関係者か?」
「実家は激流鬼の分家ですよ。分かれたのは5代以上も前の話で今は本家の血はかなり薄いけどね」
自虐的な霞に返答する言葉を持たない裂は通路の奥、曲がり角を見て歩を止めた。
「何か居る」
「え、あっ!」
通路の奥の曲がり角から姿を現したのは人の腰程度の高さの異形だった。悪魔を思わせる羽や角を生やし顔には唇が無く歯茎が見え、目蓋は大きくギョロりとした目で獣のように2人を見た。
「何アレ!?」
「妖魔じゃないのか?」
「あんなの四鬼のデータベースでも見た事無いですよ!」
「なら新種なんだろう?」
裂の考えとしてはそれだけだ。
見た事が無い物は自分が無知か新種かどちらかだ。
人は世界の全てを知る事など出来ないのだから、見た事も聞いた事も無い物があって当然だ。
「気楽に言いますね」
「下手に知識が有る奴の方が不足の事態には弱い」
言い切った裂に霞は溜息を吐き札を構えた。
「先に言っておきますが私は黒子、戦闘力はかなり低いですよ」
「一般人を不安にさせないでくれ」
軽く振り返った霞は冷や汗を流しながら笑い、距離の有る内に札を起動させた。札に書かれた文字から水が生まれ弧を描いて小悪魔へ向けて飛翔する。
着弾を確認する前から霞は両袖を振って仕込んでいた札を左右2枚ずつ、合計4枚起動させ小悪魔へ向けて一直線に投げつけた。先行で発動させた札よりも鋭く尖った槍を思わせる小型の矢のような札は弧を描いたり重力に影響される事も無く小悪魔へ向けて直進する。
初弾は追尾能力もあって肩へ当たり怯ませ、追撃の4本が小悪魔の胴体へ3本、頭部に1本が的確に刺さる。
「倒した」
「雑魚で助かりましたが、油断は出来ませんね」
札の数は有限だ。
霞は袖と懐に仕舞った札を確認しながら静かに歩き始めた。
……私も鬼に成れればこんな苦労はしないのに。
単純に力量不足だ。
彼女の力量では四鬼の基準とするメンタリティを満たせていない。
その基準を満たさない限り霞は黒子のままだ。
通路はまだ続いている。周囲に気を張りながら一般人である裂を守れる位置を確保し続ける緊張感に霞の精神は限界を迎えていた。
数回の小悪魔との戦闘では距離を取って確実に1体ずつを排除し進んでいく。
通路はずっと1本道で迷うような要素は無く、やがて霞は門よりも更に大きく扉の無い門の枠を発見した。
「何、これ?」
「今日は超常現象が多すぎて疲れた」
溜息を吐いた裂は霞が茫然としている間に止める間も無く無防備に前に出て先の見えない枠を潜る。
枠は向こう側が見えている。
なのに霞には裂がカーテンの向こうにでも行ったように姿が見えなくなった。
「……仰る通りよ、全く!」
一般人であるはずの裂がパニックも起こさず背後を素直に付いてきてくれた事は非常に助かった。戦闘でも常に霞から少し距離を取った背後に居てくれて気にせず立ち回れた事は確かだ。
しかし、余りにも一般人らしくない。
今の無警戒な行動だって普通ならば考えられない。
出口だと思って急ぎ通ろうとするなら分かるが、彼はむしろこの先に希望が無い事を確認に行くような無表情だった。
……まるで、現場に入る鬼たちみたいですね。
そんな訳は無い、感情を抑える事を前提にする鬼に反して、軟派に対して彼は余りにも感情的な行動を取ったじゃないか、と自分に言い聞かせ霞は裂を追う為に枠を潜った。
▽▽▽
枠を抜けた先は代り映えしない通路ではあったが上階へ続く緩い角度の階段になっており丁度先が見えない程度の高さで段が途切れている。
先に枠を抜けていた裂は身体を解すように手足を回し激しい運動に備えていた。
「何をしているんです?」
「何か居る」
「……一般人の貴方が張り切る事ではありません」
既に裂が一般人では無いと疑念を持っている霞だが今は尋問している場合ではない。
先に進む以外に選択肢が無い今、霞は義務感から裂よりも先に階段へ踏み出し札を用意した。
段に足を掛ける度に階段の先が露わになる。登り切った先の左右の様子は壁に阻まれ伺えないが、正面は行き止まりになっているようだ。
何事も無く出口の門が有って欲しいが、それは現実を見ない我儘だと自覚し霞は緊張で重くなる脚に鞭打って脚を上げる。
「最悪だな」
階段を登り切った先、2人は完全な行き止まりになっている事を確認した。四方を壁に覆われた入口の空間に似た行き止まりだが、門のような物が無い事だけが唯一の違いだ。
それは同時に、出口が無い事を意味している。
「そんな、ここまで一本道だったじゃないですか」
道中の疲労感で膝から崩れ落ちた霞を追い抜く形で裂が前に出た。
……あの巨体が居ない?
裂が遭遇した巨大妖魔は道中に居なかった。この迷宮の中で待ち構えているのかとも思ったがその様子は無い。
しかし、裂はあのステルス性から今も眼の前に居ながら見る事が出来ないだけではないのかと疑念を捨てきれないでいた。
四方を囲まれた空間の四隅を確認しようと壁沿いに部屋を一周しようと考えて、脚を止めた。
「拙い」
裂はふと門に引き込まれる直前の、巨体から見下ろされる感覚を思い出し霞へ向けて走り出した。
茫然と座り込んだままの霞を突き飛ばして行き止まりから距離を取らせると、行き止まりを封鎖するように壁場の青白い円形の紋章が現れ裂と霞を分断した。
「あ、悪い」
異常事態の連続に思考停止していた霞は裂に突き飛ばされた事で階段を転げ落ちて行き、それでも途中で体勢を立て直し裂を見上げた。
「何をするの!?」
「助けたのにその言草か」
溜息を吐いた裂に詰め寄った霞は結界に阻まれながらも裂の背後で輪郭のハッキリとしない巨体を見た。半透明でイヌ科を思わせるキバを生やした2.5メートル程の巨体、単眼でゴリラを思わせる太い上半身と鋭い爪に細い下半身。
黒子ではどう足掻いても討伐出来ない濃密な妖気を纏った妖魔がそこに居た。
「何で、今まで、妖気なんて、殆ど感じなかったのに」
「ステルス性能を持った妖魔か。これは危険手当を貰わないとな」
いつの間にか両手にグローブを嵌めた裂が右腕を肩から回し妖魔へ向き直る。
半透明だった妖魔は少しずつ実体を取り、やがては完全に実体化し裂へ威嚇するように喉を鳴らし始めた。
「逃げなさい!」
「どこにだよ?」
反射的に叫んだ霞に首だけで振り返った裂が皮肉気に笑みを返す。
身体を充分に解した裂は色々な物を諦め、両拳を身体の正面で打ち付け合った。
「装甲」
灰を積み上げたようなザラザラとした質感の灰色の鎧、縁には細身の草紋が緑金で彫金され所々に黒曜石があしらわれている。肘から通常の鎧では有り得ない刃が伸びており関節部にはジェット機のスラスターを思わせるギミックが見て取れる。
「嘘、本当に異端鬼なんて」
「討滅する」
巨体を相手に全く引く様子無く、灰塵の鎧は妖魔へ大きく踏み込んだ。
吠える妖魔の威圧感を物ともせず顔面に左ジャブを叩き込んで怯ませ更に踏み込み、右拳を空振りながら肘の刃で妖魔の顔面を削る。
巨大な単眼に刃が当たらないように首を逸らした妖魔の下顎を浅く裂いた肘刃を引き戻し灰塵の鎧は後方へ軽く飛び退いた。
「貴方、何なの!? その鎧、業炎鬼に滅ぼされた灰塵鬼だとでも言う気ですか!?」
「滅んでないだろ。俺が居るんだから」
裂の当然の事のように指摘する言葉に何も言えなくなった霞は自分の思い込みに頭を抱えそうになった。
……情報はいくらも有ったのに、そんな訳無いと、そう思いたかったんですか、私は!?
灰塵の鎧、改め灰塵鬼は妖魔へ向けて再度踏み込んだ。妖魔が牽制で放つ数回の噛み付きを左右へのステップで躱しその度にジャブを放つ。
噛み付きは顔面へ攻撃されるだけだと妖魔が攻撃方法を切り替える。剛腕を振り上げ隙が出来る事も構わずに拳を灰塵鬼へ向け振り下ろす。
ギリギリで躱しカウンターを叩き込もうと身体を逸らした灰塵鬼は、確信の無い悪寒に従って大きく飛び退いた。
その回避行動のお陰で灰塵鬼は妖魔の拳が発生させた地響きと地割れを躱し切り再度、妖魔と睨み合う。
剛腕が生み出す衝撃に驚きはしたが灰塵鬼は再度距離を詰める。元々遠距離攻撃は持っていない。距離を取る意味は無いのだから前に出るしかない。
小刻みなステップで妖魔が割った床を避けて距離を詰め、再度振り上げられた拳よりも更に深い位置へ踏み込んだ。
拳が床を強打する直前、灰塵鬼は拳を振るう事無く妖魔の腹から脇に抜けるように移動し妖魔の脚部を足場に宙へ浮いて衝撃をやり過ごす。落下の勢いを利用して体重を乗せた拳を妖魔の背へ放ち、反動で距離を取って着地する。
背中側に居るだろう灰塵鬼を目がけて適当に振るわれる拳を潜って躱し、がら空きになった妖魔の懐へ踏み込む。3連打を腹部へ叩き込み、怯んだ隙にアッパー気味の拳を鳩尾へ放ち再度距離を取る。
妖魔は全体重を掛けたボディプレスを放っていたが、危機感から距離を取った灰塵鬼には当たらず不発に終わる。
……がら空きだ。
右肘を大きく引いて力を溜める。
「全て、掻っ捌く」
肘刃が伸び太刀を思わせる長刀を形作る。
肘のスラスターに火が灯り、灰塵鬼の身体を独楽のように回転させようと出力を上げ緑の火を断続的に小さく噴き出した。
「塵刃、重斬」
拳を振るった瞬間、刃が緑色の炎に包まれスラスターが瞬間的に高火力による強烈な推進力を灰塵鬼の右腕に与える。
その推進力に逆らわず、しかし肘刃の軌跡を完璧に操った灰塵鬼の一閃は寸分違わず妖魔の頭部を上下に両断し、勢いを弱める事無く回転しながら縦切りへ繋ぎ妖魔を十字に切り裂いた。
「おまけだ」
顔面を深く切り付けた事で妖魔の存在は既に消滅寸前だが、灰塵鬼は駄目押しとばかりに再度スラスターを吹かす。縦切りで宙に浮いた身体を回転させ、4等に裂いた頭部の中央を拳で突破する。
身体ごと妖魔へ拳を突き立て十字の傷を広げながら更にスラスターを吹かし、頭部を完全に貫通し着地した。
スラスターの勢いで地面を滑りながら着地を決めて振り返れば頭が半分亡くなり縦に深く裂傷が入った妖魔の巨体が力無く膝を着いていた。分断された頭部は地面に落下しながら黒い粒子になって消滅していき、残された胴体も切断面から消滅が始まっていた。
その奥、元来た通路を塞いでいた結界のような紋章も妖魔と共に薄くなり消滅し始めている事が分かる。
「灰山、君?」
薄くなる結界の奥、霞が茫然とへたり込んで灰塵鬼を見つめていた。
「今の、迷宮の主だったんだな」
鎧を解除し周囲を見渡して裂はこの異界が薄くなっていくのを確認した。
通路全てが淡い粒子を発し始め現実の、袋小路に繋がる細い路地と重なり始める。
「おい」
「な、何ですか?」
「街で俺を見ても構うなよ。お互い関わらなければ面倒にならないんだから」
「そ、そうはいかないですよ! 君にはどこで鬼の鎧を手に入れたのかとか、あの路地で何をしていたのかとか聞きたい事が山ほどあるんです!」
「答える義理は無い」
「私は四鬼の黒子です! 今回の件を詳細に上司に報告して一般人が巻き込まれないように対策する義務があります!」
「俺には関係無い」
少しずつ現実に近付く空間で裂は霞から大通りへ向けて距離を取り、元の空間に戻った瞬間に霞に背を向け走り出した。
「待ちなさい!」
現実に戻ると同時、裂と霞を分断していた結界も無くなった事で霞も裂を追う為に走り出したが大通りに出た瞬間、裂を完全に見失い足を止めた。
……くっ、この人混みで見つけるのは無理ですね。
悔しい気持ちを抑え込み、霞はスマホを取り出し上司への報告に通話アプリを起動させた。