第9話 ふたりの決断
わたしと殿下は顔を見合わせ、それから慌てて互いから離れた。
もともと、わたしたちがこの倉庫に来たのは、アルハンゲリスクをこれまで治めていた前総督のトレポフさんの横領や収賄の証拠を探しに来たからだった。
トレポフ前総督は、今日一日、この執務邸には来ない予定だったはずで、わたしたちは安心していたのだけれど……。
どうやら予定が変わったようだった。
トレポフさんは、少なくとも見た目は紳士的な中年男性だ。中肉中背で、やや神経質そうだった。
王国ではよくみるタイプの官僚という感じで、官僚の制服をぱりっと着こなしている。
そのトレポフさんと、殿下の従者のフェリックス君がどうして一緒にいたのか。
それは、フェリックス君に、建物の入り口で妙な動きがないかを確かめてもらっていたからだ。
そのときにトレポフさんがやってきて、鉢合わせしたのだろう。
建物の守衛の口から、わたしたちが倉庫にいることは、トレポフさんは知ってしまっただろうし、フェリックス君はごまかすこともできず、ここまで案内に来たということだろう。
フェリックス君は、手を合わせて「ごめんなさい」というポーズを作って、情けなさそうな笑みを浮かべた。
顔立ちの綺麗な美少年だから、そんな笑顔でもけっこう可愛い。
フェリックス君はまったく悪くないけれど、ちょっと困った事態になった。
ともかく問題はトレポフさんだ。殿下とわたしが不正を暴こうとしている最中に、トレポフさんが来てしまったわけだから。
……それと、もう一つ問題がある。
アレクサンドル殿下は、トレポフ総督の挨拶を、王子らしく堂々と受けていた。
一見すると、王国の王子と総督との、礼儀に則った挨拶なのだけれど……。
一通りの挨拶が終わると、殿下は、トレポフさんとフェリックス君に重々しく尋ねた。
「それで、どこまで見ていた?」
「どこまで、とは……?」
トレポフさんが引きつった笑みを浮かべて、とぼける。
が、身内のフェリックス君は、とぼけるつもりはないらしい。
にやーとフェリックス君が笑うと、
「それはもう、アレクサンドル殿下とアリサ様がイチャコライチャコラするさまを一部始終見ていましたよ。僕みたいな多感な年頃の少年に見せつけないでください。ちょうどアリサ様が倒れそうになって、殿下がそれを抱きとめた後の二人の熱愛ぶりを、トレポフ閣下と僕は全部見ていたのですから!」
殿下は顔をかっと赤くして、わたしも頬が熱くなるのを感じた。
見られていただなんて……。
抱きしめたり、肩を撫でたり、お願いをしたり……と恥ずかしい姿の連発だったと思う。
フェリックス君がニコニコしながら、トレポフさんに話を振る。
「閣下も、ご覧になっていたでしょう? アリサ様が倒れそうになる直前に、僕らは倉庫に入ってきましたから」
トレポフ前総督は遠い目をして、窓の外を見つめていた。
「声をかけるタイミングを逃しましてね……」
とトレポフさんはつぶやく。
そこで、フェリックス君がわたしに片目をつぶってみせた。
わたしは、はっとした。
つまり、フェリックス君の発言から、トレポフさんとフェリックス君がこの倉庫に来たタイミングがわかる。
それは、わたしが帳簿を取ろうとして、倒れそうになったときの直前だ。
ということは、トレポフさんは、わたしと殿下が、トレポフさんの不正について話し合っている姿を見ていないことになる。
だから、ここで得た情報という切り札は、殿下とわたしの手に残されている。
それをもとに、どこまでトレポフさんを追及するかは、殿下が決めることができる。
事なかれ主義に走れば、このまま殿下はトレポフさんを何も咎めず、王都に帰すこともできる。
だけど、殿下は、町長さんに前総督の不正に対処して、聖王の鉄王冠を取り戻すと約束した。
殿下は深呼吸した。そして、ゆっくりと言う。
「トレポフ、単当直入に聞きたい。職を利用して、不当に私財を溜め込んだな?」
「はて、何のことでしょうか?」
「証拠はここにある」
そう言って、殿下は帳簿の束をばんばんと手のひらで叩いた。
対するトレポフさんは、感情の読めない目で、殿下を見つめている。
殿下は言葉を重ねた。
「それに聖王の鉄王冠。あの聖人の遺宝を、この土地から奪って王都に持って返るつもりだそうだな」
「あれは修道院が自発的に私に献上したのですよ。私のこれまでの業績に感謝した印です。ためた財産だって、街と村からの好意の証にすぎません」
トレポフさんは、初めて薄ら笑いを浮かべた。
この人の言っていることは、全部ウソだと、わたしも殿下も知っている。調べて証拠もつかんだ。
でも、トレポフさんは余裕そうだった。
殿下は、青い綺麗な瞳に強い意志をこめて、トレポフさんを睨みつけていた。
「トレポフ、聖王の鉄王冠、それに、この街の人たちから奪ったものをすべて返せ。自発的に罪を悔いるなら、汚職の罪が軽くなるように、王都にも口添えする」
「……殿下はご自分の立場を理解なさっていないのですか?」
トレポフさんはその場をぐるぐると回るように歩きはじめた。
どういうことだろう?
「いや、殿下はどれほど自分が危険な立場にいるか、おわかりのはずだ。第二王子ミハイル殿下を支持する者たちからすれば、アレクサンドル殿下は反乱の種になりかねない。可能であれば、罪に落とし、あわよくば殺害しようと思っているでしょう」
思わず、わたしはアレクサンドル殿下を見つめた。
たしかに、その可能性はあって当然だと思う。確実にミハイル王子を即位させるなら、アレクサンドル殿下の命を奪うのが、効果的な手段だった。
とはいえ、殿下は何の罪の犯していないし、まだ国王陛下も存命だから、そんな蛮行は許されるわけがないと思っていたけれど……。
トレポフさんの言葉を聞いても、殿下の表情はぴくりとも動かなかった。一方、トレポフさんはそれに構わず、先を続ける。
「第二王子派は、アレクサンドル殿下を完全に排除したかったのでしょう。が、何の罪もないアレクサンドル殿下にくだせた処分は、せいぜい辺境伯に追い落とすことができる程度だったわけです。だが、高官であるこの私が、宮廷の役人に、アレクサンドル殿下に叛意ありと注進すればどうなるでしょう? ……確実に殿下の立場はさらに不利になります」
「俺を脅しているつもりか、トレポフ?」
「取引ですよ、殿下。殿下は私のことを告発せず、私も殿下に不利な進言はしないというね。互いにとって悪くない話のはずです」
「俺は王太子でこそなくなったが、この国の王子である誇りを忘れたつもりはない。そんな汚い取引に応じるほど、落ちぶれてはいない!」
殿下は、激しい口調で言い切った。わたしに向ける優しい笑顔の殿下とは……ぜんぜん違う。
殿下の青い瞳は、怒りと誇りに燃え、まっすぐにトレポフさんを見つめている。
こんな表情もするんだ……。
わたしは殿下のことを、まだまだ何も知らないな、と気づく。同時に、殿下のことをあらためてかっこいいなと思った。
殿下は自分の命を盾に脅されても、ほんのかすかも動揺しなかった。そんな人のそばにいられるなら……やっぱり、この辺境の地についてきて良かったと思う。
だけど、トレポフさんは微笑み、さらに言葉を重ねた。
「さすが第一王子殿下。しかし、ことは殿下一人の問題ではございません。もし殿下の身になにかあれば、その美しい奥方がどうなるとお思いですか?」
……美しい奥方?
一体誰のことだろう?……と考えて、わたしのことだと気づく。殿下の婚約者のわたしのことを言っているんだ。
ま、まだ結婚してませんよ?とはさすがに口が挟めない。
「殿下は、奥方を大変大事になさっているご様子。その奥方に悲しい思いをさせたくないでしょう? 殿下が罪を得れば、奥方も捕らえられ拷問を受けるかもしれません。あるいはその前に、奥方に危害が加えられないとも限らないのです」
奥方、奥方と連呼されて、わたしは頬が熱くなった。
そっちに気をとられたそうになったけれど、要するに、わたしの存在を使って、殿下を脅そうとしているらしい。
殿下は……はじめてためらった様子を見せた。
そして、わたしを振り返る。
「アリサ……」
その青い瞳は、迷いに揺れていた。
自分のことはどうなっても良くても、わたしのことを持ち出されると、殿下は冷静でいられないようだった。
そのぐらい、わたしのことを大事に思ってくれているんだ……。
とても……嬉しい気持ちになる。公爵家や王国とは違って、殿下はわたしのことを必要としてくれている。
殿下はまっすぐな人だ。
そして、わたしもそんな殿下の力になりたいと思った。
わたしのせいで、殿下に道を踏み外させるわけにはいかない。
殿下が迷い、悩んでいるときこそ、わたしが力にならないといけないはずだ。
それなら、わたしが言うべきことは一つだ。
「殿下、そんな脅しに屈しないでください。わたしはいつも殿下とともにあります」
「でも、アリサ……」
「大丈夫です。殿下は、宮廷の役人たちに負けたりしません。それに……殿下がわたしを守ってくださると信じていますから」
わたしは、笑顔を浮かべた。きっと、とびきりの、明るい笑顔になっているはずだ。学園にいたときは、そんなふうに笑ったことはなかった。
殿下がいるから、わたしはそんなふうに笑える。そんな笑顔をともにしたいと思える相手に出会えたから。
殿下は、目を大きく見開いた。そして、泣きそうな顔で、嬉しそうに笑った。
「やっぱりアリサは強いな。アリサが俺の婚約者で……本当に良かったよ」
そして、殿下は、ふたたびトレポフさんに向き合った。
「すでに俺はこの地の領主となっている。トレポフ、聖王の鉄王冠はもちろん、その他の私財も没収する」
「殿下……後悔しますぞ」
「俺は後悔しないさ。アリサにも、後悔なんて絶対にさせない。さあ、トレポフ。これはアルハンゲリスク辺境伯アレクサンドルとしての命令だ! 従うか、従わないか、どちらだ?」
トレポフさんは呆然とした様子だった。
しばらく沈黙が場を支配する。フェリックス君は、息を呑んで見守っていた。
わたしも緊張して、トレポフさんの次の言葉を待った。
やがて、彼は口を開いた。
「アルハンゲリスク辺境伯にして第一王子たるアレクサンドル殿下。……私は……謹んでご命令に従いましょう」
そう言うと、トレポフさんはがっくりと頭を垂れた。
☆
こうして、聖王の鉄王冠は、無事に修道院に返却された。修道院の人たちはものすごく喜んでくれたみたいだった。
アレクサンドル殿下の統治にも、全面的に協力すると約束してくれたという。
トレポフ前総督が不当に溜め込んだ私財から、街の人に返せる分は返還した。ココシキン町長は、わたしたちの屋敷を訪れ、泣いて感謝の言葉を繰り返していた。
「それもこれも、アレクサンドル殿下と奥様のおかげです。なんと感謝したらよいか……」
「と、当然のことをしただけだ」
殿下はうろたえながら答える。わたしも、ずっと年上の町長の涙に、おろおろとさせられた。……あと、まだ結婚していないので「奥様」ではないです。
町長は涙をぬぐうと、殿下に深く頭を下げた。
「私はもちろん、町の参事会も、農村共同体も、総力を挙げて殿下のご統治に協力いたしましょう」
わたしと殿下は顔を見合わせ、そして、ふふっと笑った。
街の象徴も失わず、街の人達の財産も部分的だけど取り戻せて、本当に良かった。
もしあのときトレポフさんと取引をして、町長さんや修道院の支持と信用を失っていたら、取り返しがつかなかったと思う。
国の強権を振りかざせる総督と違って、殿下とわたしには後ろ盾がない。だから、町の人達の信頼を受けて、初めて領主として政治を行うことができる。
町長さんが帰った後、わたしたちは屋敷の応接室で、二人きりになった。
これからやらないといけないことは多いと思う。領地を発展させる前に、基本的な統治の仕組みを作らないといけなかった。
しかも、トレポフさんが王都に戻り、わたしたちのことを悪く報告すれば、国からの圧迫を受けることになるかもしれない。
でも、今は、一つの問題が片付いたことを喜びたい。
殿下はわたしを青い瞳で見つめ、そして笑いかける。
窓の外からの淡い光が、殿下の美しい金色の髪を輝かせ、わたしはそれに見入ってしまった。
「あのとき、アリサの言葉がなければ、弱い俺は判断を間違えていたかもしれない。アリサのおかげだ。だから、ありがとう」
それは違うと思う。
最終的に道を決めたのは殿下だ。だから、殿下は胸を張って良いはずだ。
でも、殿下にそう言っていただけることは、すごく嬉しいし……もし、少しでもわたしが殿下を支えることができていたなら、それはとても誇らしいことだった。
だから、この先もわたしは殿下の力になろう。弱いわたしが、どうすれば、殿下の役に立てるかはわからない。
でも、きっとなにかできることはあるはずだ。
わたしは、殿下に小さくうなずいた。
わたしたちの領主生活は、こうして順調に始まりを迎えた。