第8話 前総督
わたしは緊張しながら、アレクサンドル殿下に抱きしめられるのを待った。
壁際に追い詰められたわたしは、たとえ殿下に何をされても逃げることはできない。
「抱きしめてほしい」とわたしに言われたせいか、アレクサンドル殿下の様子は、いつもと違っていた。真剣な表情で、ちょっぴり怖くて、そしてかっこよかった。
わたしは思わず目をつぶってしまっている。少し後悔する。これでは、殿下が何をしようとしているかもわからないし、殿下の表情も見えない。
倉庫の暗がりの中で、殿下はどんな表情をしているんだろう?
とても気になった。
でも、いまさら目を開いて、間近にある殿下の顔を直視できるかといえば……それも恥ずかしくてできない。
そっと殿下の手が、わたしの両肩に置かれる。
ぴくっ、とわたしは震えてしまう。
ああ、いよいよ抱きしめられるんだ……と思う。心臓のどきどきという音がさらに大きくなる。
そのままわたしは待った。
……?
殿下の手が動かない。……あれ?
わたしはおそるおそる目を開く。
殿下の顔がすぐ近くにあってどきりとする。けれど、その頬は真っ赤で、わたしの肩に手を置いたまま、固まっていた。
これでは、肩に手を置いて「頑張れ!」と励ましているみたいなポーズだ。どんなにひいき目に見ても、ハグではない。
「……殿下?」
わたしが声をかけると、殿下は目をくるくると回しながら、「ええと……」とつぶやいた。
「これで抱きしめたってことにはならないかな?」
「……ならないですね」
「やっぱり?」
「はい」
わたしは、背中とか腰とかに手を回して、ぎゅっとするとか、そんなふうに抱きしめてくれるものだと期待していた。
殿下も「アリサが良いと言ったんだよ」なんてわたしを緊張させるようなことを言って、あんなに真剣な表情でわたしに近づいたのに……。
実際には、肩に手を置いたところで、止まっている。
わたしと殿下は、そのまま見つめ合った。殿下は青い瞳をそらし、うつむく。
「その……肩に触れた時点で、恥ずかしくなってしまって……」
「そ、そこでですか……」
「だって、抱きしめたらアリサと密着することになるだろう!?」
抱きしめるんだから、密着するのは当然だと思うのだけれど……。
でも、そうやってわざわざ「密着」なんて意識させられると、たしかに……恥ずかしくなってくる。
殿下がわたしの肩に置いた大きな手も、温かくて、意識させられる。殿下がそうしようと思えば、殿下はわたしの肩を抑えつけて、どんなことだってできる。……そして、わたしも、そのときは殿下を受け入れることができる。
でも、実際には、殿下はわたしの肩にふわりと軽く手を置いているだけだ。頬を赤くして、途方に暮れている殿下のことが……わたしは愛おしかった。
わたしはわざと拗ねたように、頬を膨らませてみる。
「『何でもする』って仰ったじゃないですか」
「ご、ごめん……」
殿下がしょんぼりとうなだれたのを見て、わたしはくすっと笑った。
「冗談です」
もし相手が弟のミハイル殿下だったら、もっとスマートにわたしを抱きしめ、キスをしたりするのかもしれない。
でも、わたしは……わたしの肩に触れるだけで照れてしまうような、優しい殿下の方がずっと好きだ。
だから、わたしはここにいる。
……とはいえ、このまま殿下を解放してしまうのも、惜しい気がする。
「殿下……抱きしめなくてもいいですから、少しわたしの肩を撫でてみてください」
「え?」
「髪を撫でるのと同じです。抱きしめる代わりということで……ダメですか?」
「い、いや、そのぐらいは俺でもできる!」
そう言うと、殿下は赤い顔のまま、おそるおそるといった手つきで、わたしの肩を軽く撫でた。
服の袖の上から、軽く殿下の手の感触が伝わってくる。本当に、ふわりとした、穏やかな手つきだ。
まるで、些細なことで壊れてしまう宝石を扱うかのようで……もっと強引でもいいのにと思いながらも、殿下の手の温かさには、わたしを安心させる優しさがあった。
すぐ目の前の殿下を見て、思う。
殿下は恥ずかしがってわたしを抱きしめてくれなかったけど、それなら、わたしが殿下を抱きしめればいいのでは?
いま、殿下はすぐ目の前にいて、とても無防備だ。わたしの肩を撫でることに気を取られている。
身長差からすると、「えいっ」とわたしが殿下に手を伸ばせば、腰のあたりに手を回せる。それで完璧な「抱きしめ」完了のはず……。
そこまで考えてから、殿下の「密着」という言葉を思い出して、わたしは頬が熱くなるのを感じた。
殿下と同じで、わたしも恥ずかしくてハグしたりできそうにない。ぎゅっと殿下を抱きしめるところを想像するだけで、おかしくなりそうだ。
それに、自分からそんなことをして、殿下にはしたないと思われたら……どうしよう?
……ううん。でも、殿下ができないなら、わたしがやらないと。
勇気を出せば、一歩踏み出せる。
わたしは深呼吸して、殿下の腰のあたりに手を伸ばそうとし――。
そのとき、がたんと物音がした。
わたしも殿下もびっくりして、棚の反対側を見ると、そこには、「しまった」という顔をした小柄な美少年がいた。
どうも棚にぶつかって、何かを床に落としてしまったらしい。その物音のせいで、わたしたちは、彼の存在に気づくことになった。
今日もばっちり執事服を着こなしているその子は、えへへと笑う。
殿下の近習のフェリックス君だった。
……殿下を抱きしめる機会を逃した!
わたしはそんなことを考えて残念な気持ちになったけれど、すぐにそれどころではなくなった。
フェリックス君の後ろに立っているのが……豪華な官僚の制服に身を包んだ男性だったからだ。
襟章の金ボタンの数からして、四等官の高官だと思う。
それほど偉い官僚は、この土地には一人しかいない。
フェリックス君が朗らかに言う。
「こちら、前総督のトレポフ閣下だそうです」