第6話 町長の相談
アレクサンドル殿下がたった一人だけ、友人と呼べたのは、弟の第二王子ミハイル殿下だという。
わたしには、意外だった。
ミハイル王子は、アレクサンドル殿下から王位を奪った相手だ。
本人がどれほど積極的にそれを望んだのかはわからないけれど、アレクサンドル殿下が辺境へ追放される理由となったことには変わらない。
しかも、カリスマ性があって文武両道のミハイル王子に、アレクサンドル殿下は劣等感を持っているようでもあった。
そんな相手がどうして、友人なのだろう?
殿下は微笑んだ。
「ミハイルは。同じ王子という立場でものを考え、話し、理解できるたった一人の相手だったから。……ミハイルはね、良い奴なんだよ。性格にも非の打ち所がないんだ。もしミハイルが嫌な奴だったら、どれほど良かったか。それなら……」
その続きの言葉を、わたしは想像することができた。
もしミハイル王子が悪人なら、アレクサンドル殿下はミハイル王子を憎むことができた。
殿下はきっと、そう言いたかったんだと思う。憎んで、嫌って、敵視することができれば、自分を慰めることができる。
でも、ミハイル王子はそれも許さない完璧な人間なんだ。
わたしは、妹のエレナのことを思い出す。
エレナも、わたしよりも遥かに優れた存在だ。美しく、賢い人気者。誰からも愛されている。
ただ、エレナは……性格が立派とはとても言えなかった。
わがままで、怒りっぽくて、そして甘えん坊で……。でも、そんなエレナのことをわたしは嫌いじゃなかった。
殿下は、港の方へと目を向ける。
港には、小さな帆船がいくつか浮かんでいた。
ルーシの穀物と、対岸の小国ニーノルスク共和国の魚を交換する貿易船だ。
互いの生活必需品を賄う手段だけれど、船の規模も小さいし、富をもたらす貿易ではない。
富を作ることのできるような、大規模で効率の良い貿易はすべて、新興の大都市エレメイグラートの港で行われている。
そのエレメイグラートを統治する公爵には、即位前のミハイル王子が任じられたということも、わたしは知っていた。
殿下は、わたしの髪を撫でる手を止め、そして、地面に視線を落とした。
「アルハンゲリスクとエレメイグラートの二つの港の関係は、俺とミハイルの関係みたいなものだ。アルハンゲリスクも俺も、エレメイグラートやミハイルに勝てる点が一つもない」
殿下は、暗い声で言う。
アレクサンドル殿下の心には、ミハイル殿下に対する劣等感が深く影を落としている。
たしかにエレメイグラートは大都市で、アルハンゲリスクは小さな港だ。ミハイル王子が王太子位に就き、アレクサンドル殿下はこの街の辺境伯へと追いやられた。
でも……。
「……勝てばいいじゃないですか」
「え?」
わたしの言葉に、殿下は驚いたように顔を上げる。わたしは……殿下の青い、宝石のような瞳をまっすぐに見つめた。
「わたしは完璧超人のミハイル殿下なんかより、アレクサンドル殿下の方が好きです。わたしを必要としてくださる殿下のことが好きなんです。勝てるところが一つもないなんて、おっしゃらないでください」
「アリサ……」
「殿下は、昨日、アルハンゲリスクを最高の領地とするとおっしゃいました。きっとエレメイグラートの港にだって、勝てるはずです」
わたしは、そう言い切ってから、自分の声が、思いの外力強いものだったことに驚いた。
殿下は呆然とした様子で、わたしを見つめていた。わたしは心配になってくる。
「あの……差し出がましいことを申し上げて、申し訳ありません」
「いや……アリサの言う通りだ」
殿下はそうつぶやくと、くすくすと笑い出した。
「そうだな。俺はここを最高の領地にするとアリサに約束をしたのに、弱音ばかり吐いているわけにもいかない」
「あの……弱音はいつでもおっしゃってください。わたしは、殿下の力になりたいですし……殿下のそういうところも好きですから」
わたしは言ってから、恥ずかしくて、しかも偉そうなことを言ってしまったと後悔した。
でも、殿下は嬉しそうな笑みを浮かべ、瞳を輝かせた。
「ありがとう」
殿下は優しくささやくと、わたしの手をそっと握った。
わたしの小さな手は、殿下の大きな手に包み込まれる。
頬が熱くなるのを感じ、殿下を見上げると、殿下は愛おしそうにわたしを見つめていた。
「アリサは……俺よりもずっと強いな」
「そうでしょうか……?」
わたしは何の取り柄もない、弱い存在だと思っていた。
けれど、殿下は違うと言う。
殿下は黙ってうなずくと、微笑み、わたしの手を握る手の力を、ほんの少しだけ強めた。
わたしが強いのかどうかはわからない。
どんな意味でも、わたしは弱い存在だと思う。わたしは、エレナたちとは違う。
けれど……でも、殿下の手の温かさが、わたしを心強くさせる。
もし、わたしが強いとすれば、きっとそれはこの人がいてくれるからだ。同じように、わたしも殿下にとって、そういう存在でありたい。
港町の通りの向こうから、ぼろぼろの馬車が走ってきたのは、そのときだった。
明らかにこちらに向かってきている。そして、馬車から一人の男性が降り立った。
初老の男性で、立派な服を着ているけれど、でも少し傷んでいる。
その人は、殿下とわたしの前に跪いた。
殿下は慌ててわたしの手を離すと、その人に向き合った。
「……あなたは?」
「突然の無礼をお許しください、アレクサンドル殿下。私は……この港町の町長フョードル・ココシキンと申します」
町長さんだったんだ。王国の総督が治めていたとはいえ、その下には港町や各農村を自治する人々がいる。
その一人が、港町の町長だ。
それにしても、辺境伯の屋敷を訪れず、こんな町中で急いで挨拶するなんて、不思議だ。
なにか理由があるのかもしれない。
そう思ったわたしの考えは、当たっていた。
「実は前総督の不正について、折り入ってご相談したいことがあるのです」
町長さんはすがるような目でわたしたちを見つめ、そう告げた。