第5話 殿下の友人
次の日、殿下とわたしはさっそく領地の視察へと出かけた。
アルハンゲリスク辺境伯領は、もともとは王国の直轄地だった。
王国の官僚がアルハンゲリスクの総督に任命され、数年ほどの任期で交代してきたのだという。
かつてアルハンゲリスクは、王国にとって重要な土地だったからだ。王国随一の港町として栄え、毛皮を輸出し、いろんな国との貿易で富んでいたという。
辺境伯は、古くはかなりの権限を与えられた高位の爵位だった。だから、アルハンゲリスクが辺境伯領とされているのは、アルハンゲリスクが王国の要地だった時代の名残だ。
でも、百年ほど前から、アルハンゲリスクは王国の主要な港町としての地位を失った。王都ノブゴロドの北にエレメイグラートという巨大な港湾都市が作られたのだ。
それ以降、アルハンゲリスクは衰える一方だった。
「アルハンゲリスクの港は、冬の間の2ヶ月は凍ってしまうのですね」
さびれた港町の風景を見ながら、わたしは殿下に話を向けてみる。殿下は驚いたように、眉を上げる。
「よく知っているね」
「本で読んだことがあったんです」
気弱で地味なわたしの数少ない趣味の一つが、読書だ。
アルハンゲリスクの港が凍ってしまうことは、有名な探検家の旅行記で読んだと思う。アルハンゲリスクの港は冬季に使用できないという致命的な弱点があるらしい。
それに加えて、出発前に、せっかくだから領地のことを調べておこうと思って、いろいろと勉強もしてきている。役に立ちそうな本も、可能な範囲で持参した。
学園での成績は良い方ではなかったけれど、本を読むのは好きだし、殿下の役に立つかもしれないと思えば、苦にならなかった。
……それに、殿下に褒めてもらえるかもしれないという下心もあった。
まあ、優秀な殿下が準備をしてきていないとは思えないから、どこまで役に立てるかはわからないけれど。
でも、殿下は嬉しそうに微笑んでいた。
「さすがアリサ。学園でも図書室で熱心に本を読んでいたものね」
「と、友達が……多くなかったですから」
言ってから、わたしは恥ずかしくなって、うつむいた。
貴族の子弟の集まる学園でも、公爵令嬢というのは、かなり高い身分だ。同級生も、どうしても怖れ、遠慮してしまう。
そういう立場になったとき、人間は二つに分かれるとわたしは思う。一つは、その身分と周囲との折り合いをつけ、うまく立ち回って、人の上に立つような人だ。
押しが強く、華やかで、人より優れた存在なら、たくさんの友人や取り巻きを作り、尊敬されることもできる。
わたしの妹のエレナは、そういうタイプだった。エレナは自分の身分にふさわしい華やかさと立ち回りの良さで、学年の女子生徒のリーダー的存在になっていた。
一方、わたしは真逆だった。公爵令嬢で、王太子の婚約者という身分に馴染めなかった。みんなわたしを遠ざけたし、わたしに近づこうとする人の多くは、わたしの立場を利用しようとする人だった。
わたしは周囲からの視線を怖れ、流されるまま、壁を作り、孤独になっていった。
それを変えようとも思わなかった。
だから、わたしはいつも学園では本を読んで過ごしていた。きっと殿下だって、そのことに気づいていると思う。
殿下は……そんな暗い性格のわたしをどう思っているんだろう?
わたしは恐る恐る殿下を見上げた。
殿下は……優しく微笑んでいた。
「友人が少ないのは、俺も同じだ」
「え?」
「俺の周りには、いろんな生徒が近づいてきたけれど、ほとんどは王太子の俺を利用しようとする人だった。友人なんかじゃなかったんだよ」
「そんなことは……ないのではないでしょうか」
「いいや。そういう連中のほとんどは、俺が辺境に流されることが決まった後から、俺と距離を置くようになったからね。本当の友人がいたとすればたった一人だけで、その一人も今は気軽に会える仲ではなくなった」
寂しそうに殿下は言い、それから、とびきりの笑顔を浮かべた。
青い瞳で、わたしのことを慈しむように見る。
「でも、アリサは俺についてきてくれた。だから俺は孤独じゃない」
どきりと心臓が跳ねる。
そう……わたしは、殿下についていくことを選んだ。それは、わたしの選択だった。
殿下がわたしを必要としてくれたから。
「わたしも……殿下がいるから、孤独ではありません」
わたしは、自分の言葉の力強さに驚き、そして頬が熱くなるのを感じた。
もし他の誰もがいなくなっても、わたしには殿下がいて、殿下にはわたしがいる。それはとても心強くて、嬉しいことだった。
殿下は嬉しそうに微笑み、そして、少しためらってから、くしゃくしゃっとわたしの髪を撫でた。
その手は、昨日よりも少しだけ力強くて、でも、わたしを安心させるような優しさがあった。
ただ、一つだけ気になることがある。
殿下に髪を撫でられながら、わたしは尋ねる。
「殿下は、一人だけ本物の友人がいるとおっしゃいました。それは……どなたなのでしょう?」
「気になる?」
わたしはこくりとうなずいた。
殿下のことで、気にならないことなんてない。そう考えてから、いつの間にか、自分の思考が殿下中心で回っていることに気づいて、驚き、恥ずかしくなる。
もしその友達が女友達だったりしたら、間違いなく、わたしは強く嫉妬してしまう。
学園時代のわたしより……殿下と親しくて、強い絆で結ばれた女の子がいたりしたら、どうしよう?
ううん。相手が男子生徒でも、ヤキモチを焼いてしまうかもしれない。
でも、殿下の答えた相手は予想外のものだった。
「ミハイルさ」
「え?」
「弟のミハイルだけが、俺の友人だったんだよ」
殿下は遠い目をして、自分から王位を奪った第二王子のことを、友人だと言った。