第8話 リバルシ大公クヌート・グリーク殿下
予想外だったのは、ニーノルスク共和国のリバルシ港へ到着するとすぐに、バラキレフさんが高熱を出して寝込んでしまったことだ。
バラキレフさんは屈強な軍人を絵に描いたような人だから、意外だった。
けれど、アルハンゲリスクへ来て以来、ずっと働き詰めだったし、慣れない船旅で疲れたのかもしれない。
バラキレフさんは、ココシキン町長を除けば、わたしたちが頼れるただ一人の実務家だ。
だから、つい彼を頼りにしてしまうし、バラキレフさんは子爵領の件でわたしたちに恩義を感じているから、その期待に応えてくれる。
でも、わたしはこうなる前に、バラキレフさんに休養を取るように勧めるべきだったんだ。
わたしは未熟だなと思う。自分とアレク様のことしか見えていない。
回復してくれるといいのだけれど、と心から思う。
アルハンゲリスクに有用な人材だからなのはもちろんだけれど、彼は信頼できる仲間もあるからだ。アナスタシアさんにとっても、バラキレフさんはかけがえのない存在のはずだ。
宿泊用に割り当てられた館の一室を、バラキレフさんの病室として使っている。
わたしたちはその部屋にいた。
館は赤く塗装された木造の建物で、室内は品の良い調度品で整えられている。ニーノルスク側も、わたしたちを少なくとも丁寧には扱うつもりなのだろう。
ニーノルスク側が医者も割り当ててくれいる。
病床のバラキレフさんは苦しそうで、それでも起き上がろうとした。私は慌ててそれを押し止める。
「どうか無理をなさらないでください」
「しかし、奥様……わたしは殿下とアナスタシア様から託された任務があり……」
「ニーノルスクとの交渉は、わたしが行います。ですから、今は回復することだけを考えていてください。あなたを失うわけにはいきません。わたしたちの領地経営にあなたは不可欠なのですから」
わたしはそっとバラキレフさんの手に、わたしの手を重ねた。
ゴツゴツとしたその手は、剣士として、そしてアナスタシアさんを守る人間として積み重ねてきた苦労を感じさせた。
バラキレフさんは驚いたようにわたしを見ると、微笑んだ。
「奥様のご配慮、感謝いたします。おっしゃるとおり、まずは体調の恢復に専念します」
「くれぐれも無理はしないでくださいね?」
バラキレフさんは静かにうなずくと、目を閉じた。
「奥様ならば……必ずニーノルスクの交渉を成立させられると、私も信じております」
バラキレフさんのささやくような言葉に、わたしは胸が熱くなる。
わたしは無力だ。バラキレフさんの身体のことは、ニーノルスクの医者に任せるしかない。
でも、わたしたちには、交渉を成立させるという使命がある。バラキレフさんの信頼に応えるためにも。それを果たさないといけない。
もしアレク様がアルハンゲリスクの当主の地位を失えば、その被後見人のアナスタシアさんの地位も危うくなる。
この交渉は、バラキレフさんの本来の主のアナスタシアさんを守ることにもつながるんだ。
わたしは思いを新たにして部屋を出た。
☆
バラキレフさんの体調不良で、わたしが交渉の主体となる。
もちろん、事前にアレク様、バラキレフさん、ココシキン町長たちを交えて、計画や予想される問答は話し合っている。
それでも、実際に何が起きるかはわからない。
ニーノルスク――正式名称で「最も静穏なる共和国ニーノルスク」は、貴族制の国だ。国王や皇帝の代わりに、各地を収める貴族が、議会を作って国を統治している。
氷河と凍土の多い厳しい気候の国だけれど、小国ながら貿易でかなりの富を得ている。
そして、アルハンゲリスクの対岸にあるニーノルスクの港町リバルシに、わたしたちはいる。
この町はリバルシ大公家が治めている。ニーノルスク最高位の貴族家の一つだ。
リバルシ大公は、チャイコフスキー公爵家よりもずっと古い歴史も持っている。
その大公と交渉するために、わたしたちは大公執務室の控室に二人で座っていた。
「緊張しますね……」
フェリックス君がいかにも緊張していますというカチカチの表情で言う。
いつもの執事服ではなくて、赤いジャケットを羽織った正装をしていた。フェリックス君も、伯爵家の子息だし、わたしの従者として外交用の服を着ている。
わたしはくすっと笑って、フェリックス君の両頬に手を添える。フェリックス君がびくっと震えた。
子どもらしい白く柔らかい頬が赤くなる。
「よく似合ってるね、フェリックス君の服」
「あ、アリサ様……子ども扱いしないでください」
「子ども扱いしているんじゃないの。安心してもらおうと思って。わたしが頑張るから」
「ぼ、僕もアリサ様の騎士としてお守りしみゃ……」
噛んだみたいだ。わたしが肩を震わせると、フェリックス君が「ひどいですよう」と抗議する。
「ごめんなさい。でも、フェリックス君がすごく緊張しているから、わたしはかえって緊張が解けてきちゃった」
もちろん、フェリックス君もわたしの力になろうとしてくれているのは知っている。
「ありがとうね。フェリックス君のためにも頑張らないと」
フェリックス君は嬉しそうにうなずいた。
そのとき、大公執務室の扉が開いた。
大公家の従者の二人が現れる。若い男性で背が高い。華美な服装をしていて、黒い帽子見栄えの良い槍を掲げている。
「どうぞお入りください」
彼らは敬礼すると、わたしたちを執務室へと迎え入れた。
広々とした執務室の奥にがっしりとしたマホガニー製の執務机が置かれている。その後ろに、背を向けて、若い男性が座っている。
彼がリバルシ大公だと思う。後ろ姿だけだけど、華奢な身体と、銀色のやや長めの髪が目を引く。
軍服のような正装を身にまとっていた。
その人は、部屋の奥の壁にかかっているタペストリーを眺めているようだった。
リバルシは毛織物の生産でも有名だった。ただ、近年では東方の国の緻密な織物や、やオルレアンの機械製製品に押されているみたいだけれど。
それでも、ニーノルスクの毛織物の質は高い。そのタペストリーにも、不思議な形の紫色の花が美しく織り込まれていた。
リバルシ大公家の紋章のはずだ。
「この花の名前を、あなたはご存知ですか?」
大公は背を向けたまま、低い落ち着いた声で、わたしに問いかける。
挨拶抜きでの問答に、わたしは戸惑ったけれど、心は落ち着いていた。
「ニーノルスクの国の花ヒースです。共和国では、三つの大公家でしか紋章として使うことを許されていない特別な花だとうかがっています」
「さすが、アリサ殿は博識ですね。ヒースは荒れ地にも美しく咲く花です。不思議な形の花弁を持ちながら、人の目を惹きつけてやみません」
「それがニーノルスクの国の姿を現しているということですよね」
「そのとおり。ニーノルスクは何もない国ですが、そこに何も生まれないというわけではありません。我々は我々の国に誇りを持っているんです」
思っていたよりずっと優しい声がする。
大公家の当主が代替わりしたことは知っていたけれど、その具体的な人物像までは情報がなかった。
くるりと大公は振り向いた。銀色の髪が軽く揺れる。
大公は驚くほど色白で、そして美形だった。優しく柔和な雰囲気で、吸い込まれるような翡翠色の瞳が印象的だ。
名門貴族でこの容姿があれば、社交界ではきっとすごく人気だろうな、とわたしは思う。
でも……わたしはアレク様の方が好きだけれどね。
彼は立ち上がった。
「遠路はるばる我がニーノルスクへお越しいただき、感謝の念に堪えません。私がリバルシの大公クヌート・グリーグです」
<あとがき>
次話で急展開! あと2話でこの章も完結です。
ところで、わたしが原作者の漫画『追放された万能魔法剣士は、皇女殿下の師匠となる』漫画版が今週10月15日発売です。男女が逆転していますが、皇女とのイチャイチャスローライフは共通です!