第7話 フェリックス君の恋?
ニーノルスク共和国への交渉には、代表としてわたしが赴く。
アレク様は商人たちに拘束されて動けない。
エレナも屋敷でお留守番だ。
万一のとき、公爵令嬢、現王太子の婚約者という立場を利用して、アレク様を守ってもらう必要がある。
ついでにわたしたちの娘のアナスタシアさんの面倒も見てもらう。エレナからしてみれば面倒ばかりかけられることになるけれど、エレナは笑って快諾してくれた。「お姉ちゃんのためだもの」と。
アレク様のためだけじゃなくて、エレナのためにも、アナスタシアさんたちのためにも、頑張らないといけない。
わたしには、補佐役として実務家のバラキレフさん、そして従者のフェリックスくんがついてきてくれることになった。
秋の北海を、わたしたちの乗る商船は進む。アルハンゲリスクの町長から借りた船だ。
旧式の蒸気船で、甲板の上にわたしは立ち、霧の立ち込める海を眺めていた。
まだ一番寒い季節でもないのに、風は肌を凍らせるかのようだ。
「なにやってるんですか、アリサ様? 危ないですよー」
小柄なフェリックスくんがとてとてとやってくる。いつもどおりの黒い執事服を着ていて、黒い瞳でわたしを見つめる。
くすっとわたしは笑う。
「平気だよ。ちゃんと落下対策はされているし、海に落ちるなんて失敗はしないから」
「それでも、アリサ様に万一のことがあれば、ぼくが殿下に殺されちゃいますよう」
「アレク様はそんなことしないと思うけど」
「します、絶対します! ああ、おそろしい!」
フェリックス君は大げさに肩を抱いて震えてみせる。
くすっとわたしが笑うと、フェリックス君も、にへらと表情を崩した。
「まあそれぐらい、殿下はアリサ様のことを大事に思っているってことです。それから、もう一つ」
「もう一つ?」
「アリサ様は、ぼくにとっても大切なご主人さまです。そのことをお忘れにならないでください」
「わ、忘れたりはしないけど……」
「いざというときは、命に代えてもお守りしますよ」
一瞬だけフェリックス君が真面目な表情になり、すぐにくすっと笑った。
「こう見えても、僕はオルレアン帝国流の騎士道の信奉者なんです」
「へえ、オルレアンの騎士道……?」
「あっちの古い物語の騎士道では、騎士が仕える主君の奥方と恋するというのが定番なんです」
「え!?」
「女主人への道ならぬ恋、自己犠牲の精神、叶わぬ愛。そういうのが騎士道物語ってわけで……」
「それってただの不倫なんじゃない?」
「そうとも言います」
フェリックス君は、肩をすくめた。そして、いたずらっぽくわたしを見つめる。
「でも、アレクサンドル殿下がぼんやりしていたら、僕がアリサ様の騎士に……恋人になっているかもしれません」
そんなことを、フェリックス君は子どもっぽい表情で言う。
わたしは思わずくすっとした。
「うーん。わたしもフェリックス君のことは好きだけど、可愛い弟みたいにしか思えないかな」
「そんなあ。傷つくなあ」
フェリックス君は大げさに「がーん」という表情を作ってみせる。たぶん、全部冗談なんだろう。
「それに、フェリックス君がアレク様を裏切ったりするとは思えないもの」
フェリックス君は目をパチクリさせて、にっこりと笑った。
「そのとおりですね」
汽笛が船上に響いた。ふっと海の上に視線を向ける。
霧が深く立ち込めているけれど、遠くにかすかに対岸が見えていた。
ニーノルスクは、わたしたちのアルハンゲリスクから、北海を挟んだ向こう岸にある。船で半日もかからないほど近い距離だ。
ただ、わたしにとっては初めて訪れる国となる。しかも重大な任務を負っている。どうしても緊張してしまう。
でも、あまり深刻に考えても仕方ない。気を紛らせるために、わたしはフェリックス君に問いかける。
「ごめんね。エレナが迷惑をかけたでしょう?」
「そうでしたっけ?」
「だって、エレナったら、フェリックス君にいきなり抱きついて『可愛い、可愛い』なんて言って……困ったでしょう?」
まあ、フェリックス君もエレナみたいな美少女に抱きしめられて、「可愛い!」と言われるのは、満更でもなかったみたいだけど(本人がそう口をすべらした)。
それでも、困ったことは困っただろうし、妹の不作法を謝るのは姉の役目……かもしれない。
フェリックス君は腕を腰に当て、頬を膨らませる。子供っぽくて可愛い仕草だなあ、と思う。
「本当ですよ! エレナ様は、立派な大人の男の僕を子ども扱いして! でも……」
「でも?」
「あんな綺麗で可愛くて、優しい人に、どうしてミハイル殿下は冷たく接するんでしょうね」
フェリックス君は小さくつぶやいて、そして頬を少し赤くした。
わたしはまじまじとフェリックス君を見つめる。
「フェリックス君……もしかして、エレナのこと……」
「す、好きになったりしていませんから!」
フェリックス君は口にしてから、「しまった」という顔をした。
そして、赤い顔を、ますます赤くする。
わたしはくすっと笑った。エレナが、フェリックス君を可愛いと思う気持ちもよくわかる。
「大丈夫だよ、フェリックス君。このことは内緒にしておくから」
「ひ、秘密にしていただくようなやましいことは何もありません!」
「じゃあ、アレク様とエレナに言っちゃおうかな」
「そ、それはダメです。そうじゃなくて、僕はエレナ様のことを好きなんて、そんなことありませんからね?」
「そういうことにしておいてあげる」
わたしは笑ってうなずいた。
船はいよいよニーノルスクに近づきつつある。
わたしたちで、アレク様、そしてアルハンゲリスクを助けなきゃ。
決意を心に秘めて、わたしは海の向こうを見つめた。







