第1話 エレナ・チャイコフスカヤ
「え、エレナ……? なんでここに!?」
「可愛い妹が、お姉ちゃんに会いに来るのに理由はいらないでしょう?」
エレナは荷物を床に下ろすと、スカートの裾を整えた。
王都から、アルハンゲリスクまでは馬車で四十日かかる。
そんな長旅をして、理由なくアルハンゲリスクに来るとは思えない。
エレナは、動きやすそうな、旅行用のシンプルな茶色の服を着ている。
そんな格好をしていても、エレナはとても可憐だった。スタイルの良さを見せつけているかのようだ。
両親から溺愛され、学園の華である絶世の美少女としてちやほやされ、そして、ミハイル王子の心を射止めた存在。
それがエレナだ。
わたしとエレナは二つ違いの姉妹だけれど、性格が正反対だ。わたしが陰なら、エレナは陽。
わたしはエレナのことが嫌いではないけれど、どうしても自分と比べてしまう。
エレナは、扉の脇にいるフェリックス君に気づいたのか、にこっと微笑んだ。フェリックス君はびくっと後ずさる。
13歳で小柄なフェリックス君と、16歳のエレナだと、頭一つ分の身長の差がある。
エレナはきらきらと淡い色の瞳を輝かせると……フェリックス君を抱きしめた。
「この子、可愛いー!」
「ちょ、やめてくださいっ……」
「玄関でも抱きしめようとしたら逃げられちゃったけど、今回は成功だね」
「ぼ、僕は立派な大人の男です! 子供扱いしないでくださいー!」
フェリックス君が顔を赤くして抗議して、わちゃわちゃと暴れて逃げようとするが、完全にエレナのペースに飲まれてしまっている。
まあ、フェリックス君が可愛いのはわたしも理解できるし、気持ちはよくわかるんだけれど……。
わたしの膝の上のアナスタシアさんが、わたしを見上げて首をかしげる。
「変わった人ですね……」
「うん。そうかも……」
エレナは容姿端麗・成績優秀の才色兼備の人気者だったけれど、欠点がないわけじゃない。
わがままで、怒りっぽくて、そして甘えん坊と、とても品行方正とは言えなかった。学園ではそのあたりを上手くコントロールしていたから、天真爛漫な美少女として知られていて、そういう欠点も人気が上がる理由の一つになっていたけれど……。
いつのまにかエレナはフェリックス君をからかうのをやめていた。フェリックス君はぜえぜえと息が荒かったけれど、顔が赤くて目を泳がせている。
気の毒に……。
わたしはアナスタシアさんをぽんとソファに座らせると、立ち上がって二人の方へ行く。
「フェリックス君……大丈夫?」
「あまり大丈夫ではないかも……です」
そして、フェリックス君はむうっと頬を膨らませて、エレナを睨む。
「僕はこれでも誇り高き伯爵の三男なんですよ! 気軽に抱きしめたりしないでください!」
「ごめんね。ただの愛情表現のつもりだったんだけど……嫌だった?」
急にエレナが目を伏せてしおらしく言うと、今度はフェリックス君が慌てる番だった。
「いえ! 嫌ということはないです! むしろ嬉しい――」
フェリックス君は口をすべらせたことに気づいたのか、みるみる顔を赤くした
わたしはジト目でフェリックス君を見る。
「エレナみたいな美少女に『可愛い、可愛い』と言われて抱きしめられて……満更ではなかったんだね。同情して損しちゃった」
わたしの言葉に、フェリックス君はふるふると首を横に振る。
「いえ……その……そういうわけではなくて……ええと……アリサ様に抱きしめられたらもっと嬉しいと思います!」
「……しないからね?」
わたしがそんなことをする相手は、アレク様ただ一人だ。
エレナはくすくすと楽しそうに笑っている。ソファの上のアナスタシアさんも面白そうにわたしたちを見ていた。
わたしは肩をすくめる。
エレナは良くも悪くも、周囲の人間を引っかき回す。それが悪い方に出ることもあるけれど、この場は明るい雰囲気になり、すっかりエレナの作り出した空気に飲み込まれている。
こういうのは、わたしにはできない芸当だ。
エレナは、軽く右手を上げる。そのほっそりとした白い薬指には指輪がはまっていて、エメラルドの宝石が窓からの光を反射させ、緑色に輝く。
右手の薬指は心臓に通じ、その指にはめる指輪はその人の心を象徴するものとなる。それがルーシで古くから信じられている伝統だった。
だから……あれは、ミハイル殿下との婚約指輪なんだろう。
エレナはわたし、フェリックス君、そしてアナスタシアさんを見回して、朗らかに宣言する。
「あらためて、はじめまして。あたしの名前はエレナ・チャイコフスカヤ。チャイコフスキー公爵家の次女で、王太子ミハイル殿下の婚約者で……アリサお姉ちゃんの妹です。これからしばらくこのお屋敷にいるつもりだから、よろしくね」