第2話 代わりのいない存在
卒業からしばらくして、アレクサンドル殿下の言ったとおり、王太子の交代が発表された。第二王子ミハイルが次の王となることが決められ、第一王子アレクサンドルは北方の町アルハンゲリスクの辺境伯に封じられることとなる。
辺境伯は、本来なら、侯爵と同格扱いの高い身分の爵位だ。とはいえ、その領地のアルハンゲリスクは豊かとはいえないし、王都から遠く離れている。
アレクサンドル殿下は辺境のアルハンゲリスクを開拓するという重要な使命を帯びて、辺境伯という高い地位に封じられた。……と表向きは発表されている。
百年以上前の王族に、ゲンリフ航海王子という英雄がいて、彼は遠い南洋の地との貿易を発展させ、ルーシに多くの富をもたらした。その王子の偉業になぞらえて、アレクサンドル殿下の辺境伯就任は美談として扱われることになった。自分よりも徳のある弟に王位を譲り、自分自身は国のために辺境に赴く。民衆には良い話のようにも聞こえると思う。
けれど宮廷の貴族たちは、アレクサンドル殿下が失脚して王位を追われ、心ならずも辺境に追いやられることを知っている。貴族の一部はアレクサンドル殿下に同情し、多くはアレクサンドル殿下を嘲笑した。
べつにアレクサンドル殿下は罪を犯したわけではない。それなのに、一領主にされるなんて、まるで流罪になったみたいだ。
でも、いくら理不尽だと思っても、わたしにはその決定を覆すことはできない。
わたしにできることは……たった一つ。アレクサンドル殿下とともにいることだけだ。
結論から言えば、わたしは殿下ともに辺境のアルハンゲリスクへ行くことが許された。
本来であれば、わたしがミハイル殿下の婚約者になる予定だったようなのだけれど……わたしの妹のエレナが婚約者に選ばれたのだ。
エレナはわたしの二つ年下の妹だ。わたしと違って、華やかな美少女で、学園でも注目の的だ。
両親もわたしには厳しかったのに、エレナのことは非常に甘やかして育てていた。
エレナはもともとミハイル殿下のことが好きだったのか、強くアタックしていたようで、そういう経緯でエレナが選ばれたのだという。
たしかにエレナなら、ミハイル殿下にはお似合いかもしれない。そうなってしまえば、わたしは用済みということらしい。
お父様も、わたしがアレクサンドル殿下と一緒に辺境に行くことに、むしろ賛成のようだった。
ほっとするのと同時に、わたしは初めて怒りと悲しさを感じていた。
未来の王妃として、また公爵家の未来を担う存在として、わたしは多少なりとも必要とされていると思っていた。
でも……。
「結局、わたしはいくらでも代わりのいる存在でしかなかったのですね」
思わず、ぽつりとつぶやいてしまう。
ここは辺境のアルハンゲリスクへと向かう馬車の中だ。王都ノブゴロドから、アルハンゲリスクまでは、馬車で40日程度かかる。
第一王子を乗せているとは思えない質素な二頭立ての馬車で、馬車の中にはわたしと王太子殿下しかいない。後続の一台の馬車に使用人たちが乗っているが、それもごくわずかな人数だ。
隣に座るアレクサンドル殿下が首を横に振り、そして恥ずかしそうに小声で言う。
「俺にとって、君の代わりはいないよ」
わたしは自分の頬が熱くなるのを感じた。
そんなことを恥ずかしそうに言われると、こちらが照れてしまう。
「が、学園在学中のときは、一度もそんなことを仰ってくださったことはなかったのに」
わたしが早口で言うと、殿下は困った顔をした。
「そうだね。学園にいたころは……王太子だった頃には、俺には変なプライドがあったからね。いや、怖かったんだな。君に拒絶されるのが」
「わたしが……殿下を拒絶?」
「黙っていても、俺は君の婚約者だった。君が俺の王妃になるはずだった。だから、勇気を出してこんなことを言わなくても良かったんだよ」
でも、今は、殿下は王太子ではない。わたしとの婚約だって、必然性はなくなった。
「だから、今は恥ずかしくても口に出すことを決めたんだよ。それに、土下座もしたんだから、今更プライドなんてないし」
冗談めかして、殿下は言う。たしかにあれは衝撃的だった。わたしに対して、婚約を破棄しないでください、と土下座するなんて……。
普通に考えれば、情けないことなのかもしれない。
でも、あれがなければ、わたしは殿下と一緒に辺境に行くことはなかった。
よく考えると、あの土下座はとても度胸のいることだ。みんなのいる前で、自分の本心をさらすなんて、とてもわたしにはできない。
そんな勇気も、そんな強い思いも、わたしは持っていない。そんな殿下がわたしにはまぶしくて……そして、その殿下の思いが、わたしに向けられているということに、くすぐったさと嬉しさを感じた。
「殿下……一つお願いがあります」
「なに?」
「『君』じゃなく、名前で呼んでください」
「え?」
「わたしは殿下の婚約者です。いつか結婚するんですよ? いつまでも『君』と呼ばれるのも……その違和感があるというか……土下座したときは『アリサ』って呼んでくれたのに、その後は一度も名前を呼んでくださいませんでした」
「あ、あのときは勢いでつい呼んでしまって……。その……それは……つまり、名前を呼んでもいいということか?」
「……名前で呼んで欲しいと申し上げているんです」
差し出がましいことを……というより、恥ずかしいことを口走ったんじゃないだろうか。
鏡を見たら、自分の顔が赤くなっているような気がする。
「ええと、あ、アリサ?」
殿下は小声でわたしの名前を呼ぶ。
……名前で呼ばれるのって……悪くない。ううん、嬉しい気がする。
きっと相手が、わたしを必要と言ってくれた殿下だからだろう。
「は、はい」
わたしは返事をする。そうすると、殿下は顔を赤くしながらも、青い瞳をいたずらっぽく輝かせた。
「今度はアリサの番だ」
「え?」
「俺の名前、呼んでくれる?」
たしかに、わたしだけが、殿下に名前を呼ばれて、わたしが殿下の名前を呼ばないのも変だ。
相手が王族でも、結婚相手ともなれば、名前で呼び合うのが、この国では普通だ。
といっても、すぐに慣れることはできない。
「え、えっと……」
わたしが恥ずかしくてためらっていると、殿下は慌てて言う。
「あ、いや、無理をする必要はないんだ。アリサが嫌なら、べつに……。アリサの名前を呼んでもいいと言ってもらえただけで、俺は嬉しいし」
「い、嫌なんてことはないです。……アレクサンドル殿下」
そう言うと、殿下はぱっと顔を輝かせた。そして、ふふっと笑う。
その笑顔は、とても素敵で……。殿下をそんな笑顔にさせたのが、わたしだということがあまり信じられなかった。
殿下は、こんなに純粋な笑顔のできる人だったんだ。
「でも、『アレクサンドル殿下』じゃ堅苦しいな。愛称の『アレク』と呼んでもらいたい」
「そ、それは……」
「今じゃなくていいんだけどね。いつかそう呼んでもらえるように頑張るよ」
殿下はくすっと笑った。
わたしは口を開けて「アレク」と言いかけて、そして、口を閉じた。
殿下の言う通り、焦らなくてもいいのかもしれない。
わたしは殿下のことを、まだ何も知らない。ただ一つ、はっきりしているのは、殿下がわたしのことを必要としてくれているということだ。
辺境の港町アルハンゲリスクで、殿下とわたしは一緒に生活を送ることになる。
どうか、それがわたしにとって、そして殿下にとっても、幸せな生活でありますように。
次話から辺境領主生活がスタートです。
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