第5話 わたしにできること
ホルモゴルイ子爵のアナスタシアさんは、まだ10歳だけれど、とてもしっかりしている子だった。
第一王子のアレクサンドル殿下を前にしても、物怖じせず、礼儀正しく振る舞っている。
ただ……その表情が暗いのがちょっと気になる。
せっかくとても可愛いのに……。
アナスタシアさんは、銀色のふわふわした髪に、神秘的な金色の瞳が印象的な美少女だった。
もし10歳のときの地味なわたしと並んで、「どっちが公爵令嬢らしい高貴さがありますか?」と聞かれたら、わたしなら迷わずアナスタシアさんを選んでいると思う。
アナスタシアさんがまだ10歳で良かった。
もし彼女が15歳、16歳ぐらいの年頃の女の子だったら、わたしは殿下がアナスタシアさんの美しさに惹かれてしまわないか、心配しなければならないところだった。
殿下はそんな心配は必要ないよ、と笑ってくれると思うけれど……でも、わたしは不安になるだろうし、それに、もし二人が仲良く話していたらヤキモチを焼いてしまうはずだ。
アナスタシアさんに遅れて、後ろからもうひとり、軍服を着た青年男性が現れる。腰に剣をさげていた。
階級章の金ボタンの数から中尉だとわかる。あまり階級は高くない。けれど、胸につけた赤いルビーをはめ込んだ紋章が、貴族であることを示していた。
嫡男以外の貴族は、軍人や教会の聖職者になることが多い。この人も貴族だから軍人になってみたものの、若くして軍をやめて、予備役の将校になったんだろうと思う。
「遅れて申し訳ございません。アナスタシア様の親族のゲオルギー・プロコフィエフでございます。私自身は子爵領のそばにいくらかの土地を持つ地主でもあります」
柔和な態度でいうゲオルギーさんは、茶髪に茶色の目の、よくいるルーシ人男性の見た目をしていた。 彼がアナスタシアさんの後見人で、領地経営を任されている人みたいだ。
一見するとまともな人のようだけれど……。わたしは荒廃した子爵領の風景を思い出す。あの眺めを生み出したのが、この人なら、警戒しないといけない。
殿下は丁重にアナスタシアさんとゲオルギーさんに挨拶し、わたしもそれに続いた。
アナスタシアさんたちとともに、わたしたちは子爵の屋敷へと入る。
わたしたちの従者たちは、玄関で待機だ。
そして、広い玄関ホールを通り、大階段を上がる。豪華な装飾品の数々が、階段や廊下には飾られていた。
そして、二階の奥の応接室へと案内される。
広々とした部屋の中央にマホガニーの机がある。かなり高価な、外国製のものだった。
「殿下もアリサ様もお疲れのことでしょう。どうかおかけください」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
殿下はそう答えて、部屋の奥の椅子を勧められて座った。
辺境に追放されたとはいえ、殿下は第一王子だ。子爵のアナスタシアさんやその遠縁のゲオルギーさんからすれば、遥かに上の身分だ。
わたしも、殿下の隣に座る。こうして並んで座り、公的な挨拶の場に出ると、わたしは殿下の婚約者なんだなということを実感する。
ちらりと殿下の横顔を見ると、殿下はくすっと微笑んでくれた。わたしも殿下にかすかに微笑み返す。
他家の子爵家の二人を前にして、少し緊張するけれど、わたしには殿下がいる。そのことがわたしを心強くしてくれた。
殿下にとっても、わたしがいることが、少しでも支えになってくれているといいのだけれど。
わたしたちがここに来ている目的は、単なる辺境伯赴任の挨拶だけじゃない。
ホルモゴルイ子爵領の鉄鉱山の資源を、アルハンゲリスクの港を利用して輸出してもらえるようにする。
その交渉の場でもある。
上手くいくかどうかは、殿下とわたしにかかっている。
とはいえ、すぐにその話を出すわけにもいかないので軽く世間話をする。
ゲオルギーさんが落ち着き払い、にこやかに応じるのに対し、アナスタシアさんは少し落ち着きがなかった。
心配事でもあるようだった。わたしと目が合うと、何かを訴えるように、わたしをじっと見つめた。
……なんだろう? わたしは……良くないことが起きるような不安に急に襲われた。
「ところで、ゲオルギー殿……」
殿下がいよいよ本題に入る。
ホルモゴルイの鉄を、アルハンゲリスクの港から輸出すれば、子爵領にかなりの利益があることを殿下は理路整然と説明した。
実際、遠隔地のエレメイグラートの港を利用するよりも、運搬にかかる費用がずっと安くなる。
それに、王家直轄のエレメイグラートの港の利用にかかる税は、かなりの高額だ。他に大規模な港がないから、みな仕方なくエレメイグラートを利用している。
「けれど、アルハンゲリスクの港は違う。エレメイグラートよりもずっと安く、効率的に利用できるはずだ。どうだろうか?」
殿下は説明を終えると、ゲオルギーさんにそう問いかけた。
子爵領に悪い話ではないはずだ。少なくとも、一瞬で却下されるような選択ではないと思う。
子爵領は疲弊しているようだし、その改善の糸口にもなるかもしれない。
ところが、ゲオルギーさんは微笑むと、とんと机を指先で叩き、殿下を見つめた。
「それは無理な相談ですね、殿下」
「な、なぜ……?」
殿下は意外そうに目を見開き、そして、焦ったような表情を浮かべた。
わたしも驚いた。なにか見落としがあっただろうか?
ゲオルギーさんは相変わらず、上機嫌に笑っている。
「殿下は勘違いをしていらっしゃるようです。エレメイグラートは王太子ミハイル殿下が直接統治をなされる地。その港を利用するのが、王家への忠節というものでしょう?」
「だが、子爵領にとっては、アルハンゲリスクの港を利用した方が有利なはずだ。そもそも、エレメイグラートは王家のものとはいえ、その港を利用することが強制されているわけではない」
「どの港を利用するかを決めるのは殿下ではなく、アナスタシア様です。それにね、殿下、もはやあなたはそのようなことを気にしている場合ではないのです」
突然、部屋の扉を破るような勢いで、剣を携えた兵士たちが十数人ほど入ってくる。
思わず、殿下もわたしも立ち上がった。
「これはどういうことだ、ゲオルギー殿?」
「殿下を反逆者としてこの場で処刑するのですよ」
わたしも殿下も固まった。反逆者? 処刑?
そんなはずはない。殿下は反乱なんて起こそうとしていない。
「事実かどうかは関係ありません。アレクサンドル殿下は国に対して反乱を起こすことを企み、ホルモゴルイ子爵に協力を持ちかけた。だが、忠義の子爵家はこれを拒み、逆に殿下をその場で誅殺した。こういう筋書きを用意して、王都に報告すれば、私は功労者だ。王都の連中もアレクサンドル殿下を煙たがっていますし、その一部と私はつながっていましてね。私にはたんまりと恩賞がいただけるはずですし、爵位も用意していただけるかもしれません」
「そんな間違った方法では……子爵領は豊かにならない」
殿下は命を脅かされながらも、真っ青な顔で反論しようとした。
ところが、ゲオルギーさんは薄ら笑いを浮かべただけだった。
「私はこの子爵領の発展など何も興味がないのです。農奴どもが苦しもうが、鉱山の労働者が死のうが、私には何の関係もない」
嫌な予感が当たってしまった。わたしたちは最悪の事態に陥ってしまったみたいだった。
兵士に取り囲まれ、わたしたちは逃げられない。アナスタシアさんは泣きそうな顔をしていた。アナスタシアさんが訴えようとしていたことは、このことだったんだと思う。
どうすればいいだろう?
このままでは、殿下は殺されてしまう。
そんな結末は、絶対に……許すわけにはいかない。
わたしのことを必要としてくれる殿下。わたしに土下座してまでわたしとともにいることを望んだ殿下。わたしを愛してくれると言ってくれた殿下。
その殿下を……死なせるわけにはいかない。
まだ、わたしたちはアルハンゲリスクの領地に来たばかりだ。
領地を発展させることも……恋人らしいことも、ほとんどできていない。
わたしたちには、まだ二人でやってみたいことがある。
殿下はどんなことがあってもわたしを守ってくれると言った。わたしも、殿下がどんな大変な目にあっても、命を賭けてでも、殿下の力になりたいと思った。
なら、今の状況で、わたしにできることは……何だろう?
きっと、なにか手があるはずだ。
殿下は震えていた。もう死を覚悟しているんだろう。
ゲオルギーさんの前で手をつき、さらに彼に懇願するように膝をついた。
「俺のことは殺してもいい。だが……アリサだけは助けてくれ」
「心配しなくても、チャイコフスキー公爵の娘を殺したりしませんよ。あの有力大貴族を敵に回すつもりはありませんし、王太子ミハイル殿下の婚約者の姉ですからね」
ゲオルギーさんはそう言うと、腰の剣を抜こうとした。
そのまま殿下を斬殺するつもりかもしれない。
でも、わたしはゲオルギーさんの言葉を聞いて、重要なことに気づいた。
わたしは殿下をかばうように、ゲオルギーさんの前に立ちはだかった。
そして、両手を広げる。
ゲオルギーさんは訝しげに、わたしを見た。
「何の真似です?」
「殿下を殺すなら……その前に、わたしを殺してください」
「言ったでしょう? あなたを殺すつもりはないんです」
「そうでしょうね。わたしが死ねば、チャイコフスキー公爵家からすれば大問題です。お父様はわたしのことを愛してはいないかもしれませんが……それでも、ずっと格下の子爵家の人間に、娘が殺されたとなれば、黙ってはいられないでしょう」
それは家としての面子の問題だった。もしわたしがここで変死を遂げれば、お父様は必ず報復の手に出る。
国内でも有数の大貴族で、しかも王太子ミハイル殿下を娘婿とする公爵。そんな相手を敵に回せば、この辺境の子爵家はひとたまりもない。
第一王子を排除したい一派も、事が終わったとき、ゲオルギーさんをあえてかばったりはしないだろう。
そうであれば、ゲオルギーさんはわたしを殺せない。そして、わたしが命を賭して殿下をかばえば、ゲオルギーさんは殿下も殺すことができなくなる。
わたしを殺せば、この子爵家はおしまいだからだ。
ゲオルギーさんはわたしの言葉の意味を考え、青くなった。
わたしはまっすぐにゲオルギーさんを見つめ、そしてたたみかける。
「もしあなたがわたしを殺さずに、殿下だけを殺そうとしても、無駄ですよ。そのときは、わたしは自ら命を絶ちます。……殿下がいない世界で、わたしだけが生きていても何の意味もないですから」
殿下がわたしを必要としてくれて、わたしが殿下と一緒に辺境に行くという選択をしたことで、わたしには初めて生きる意味が生まれた。
ずっと政略結婚の道具だったわたしに、殿下が意味を与えてくれた。その殿下が死んだのに、わたしだけが生きているなんてありえない。
わたしがここで自殺すれば、結果としては殺されたも同然とみなされる。
子爵家が……というより、ゲオルギーさんが破滅するのは明らかだ。
わたしは殿下を振り返った。殿下は……わたしをじっと見つめていた。
そして、つぶやく。
「アリサ……君は……本当に強いな」
「もしわたしが強いとすれば、殿下がいるおかげです」
わたしが微笑むと、殿下は「ありがとう」と小声でささやいた。
「ずっと俺は神様を恨んでいた。ミハイルに劣る才能しか、俺に与えなかった神を恨んでいたんだ。でも……アリサを……俺の最高の婚約者と出会う機会を与えてくれただけで、そんな恨みは吹き飛んでしまいそうだ」
「殿下は大げさですね」
わたしはくすっと笑った。殿下は首を横に振り、そして優しい表情を浮かべる。
「大げさなんかじゃないさ。アリサより大事なものなんて、この世にはないよ」
殿下がそう言ってくれることが、わたしは何よりも嬉しかった。
わたしは……殿下の力になっている。誓いを守ることができている。
殿下に微笑むと、わたしはふたたびゲオルギーさんと向き合った。
そして、彼を……殿下を殺そうとした罪人を、わたしは強く睨みつける。
「さあ、ゲオルギーさん。殿下とわたしを殺して破滅するか、それとも別の道を選ぶか、決めてください!」
<あとがき>
二章もクライマックス。
また、読者の皆様に大切なお願いです。
「続きが気になる!」
「更新が楽しみ!」
「アリサと殿下の関係が良い!」
などなど思っていただけましたら、
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