第4話 ホルモゴルイ子爵領
ホルモゴルイ子爵領は、わたしたちのアルハンゲリスク辺境伯領の南に位置する。
爵位は高くないけれど、古くからある名門貴族領だ。しかも、アルハンゲリスクよりもずっと豊かだった。
「子爵領は土地が豊かだし、鉄鉱山があるからね」
アレクサンドル殿下は、馬車の中でわたしにそう言った。
いま、わたしたちはホルモゴルイ子爵領に、挨拶のために向かっている。
アルハンゲリスクの港町から、ホルモゴルイの子爵邸までは、馬車で一日もかからない距離にある。
わたしは殿下にうなずいた。
「その鉱山の鉄を、ホルモゴルイ子爵家は、エレメイグラート経由でスターリング連合王国やニーノルスク共和国に輸出しているんですよね」
殿下は、わたしの言葉に驚いたように目を開いた。
青い宝石のような瞳で、じっと見つめられ、くすぐったい。
「あの……わたし、なにか変なことを言いましたか?」
「いや、そんなことはないよ。アリサの言う通りだ。よく知っているなと思って、びっくりしたんだよ。さすがアリサ」
「いえ、本で調べただけですから……」
何の取り柄もないわたしにできるのは、事前に準備をしておくことぐらいだ。
これでもわたしは読書家だったりする。……友達が少なくて他にやることがなかっただけだけど。
でも、「備えあれば憂いなし」とか「知は力なり」という言葉はそのとおりだと思っていて、知識があればなにかの役に立つかもしれない。
それに、こうしてアレクサンドル殿下にも褒めてもらえるし。
ついでに、わたしはもう一歩踏み込んでみる。
「もしホルモゴルイの鉄を、アルハンゲリスクの港から外国に輸出してもらえれば……港町にも活気が出ますね」
「うん。そのとおりだね。だから、今回は辺境伯領赴任の挨拶も兼ねて、そのことも交渉するつもりなんだよ」
貧しいアルハンゲリスクの領地の最大の強みは、港があることだ。
エレメイグラート開港以後、衰退が激しいけれど、それでもアルハンゲリスクはまだ現役の港だった。
穀物だけではなく、鉱物資源の輸出ができれば、港町の経済は多少は良くなると思う。
港の使用料が増えれば、わたしたち辺境伯家の財源にもなる。
「総督統治時代のアルハンゲリスクは、王家が重視するエレメイグラートの港に遠慮していたからね。だから、まともに港を利用する方法を考えていなかったけれど、俺が辺境伯になった以上、これからは違う」
殿下は自分に言い聞かせるように、そう言った。
わたしも……そんな殿下の瞳を見つめ、うなずく。
「はい。殿下なら……必ずアルハンゲリスクをエレメイグラートを上回る港にできると信じています」
「ありがとう」
殿下は優しくわたしを見つめ返し、微笑んだ。
そのとき、馬車が道のなにかに引っかかったのか、大きく揺れた。
「きゃあっ!」
わたしは体勢を崩し、横へ倒れそうになってしまう。
そんなわたしを、殿下が抱きとめてくれる。
「大丈夫、アリサ?」
「は、はい……ありがとうございます」
見上げると、すぐそばに殿下の綺麗な顔があって、どきりとする。
殿下の大きな手が、わたしの肩と背中に回され、しっかりと抱き寄せられている。
小柄なわたしが、殿下の膝の上に座るような格好になっていて……。
事故とはいえ……背後から殿下に抱きしめられる形になっている!
殿下もそのことを意識したのか、顔を赤くして目をそらし、わたしから手を放した。
ど、どうしよう……?
結局、わたしは恥ずかしさのあまり、乱れたスカートの裾を整え、馬車の座席に座り直した。
昨日、ベッドのなかで抱きしめあったのに、全然慣れない。
まだ心臓がドキドキする。
わたしは冷静になるために、窓の外へと視線を移し、風景を眺めてみた。
ホルモゴルイ子爵領は豊かだと聞いていたのだけれど……あまり、そうは見えない。
農村地帯の道を馬車は走っているのだけれど、道行く人達の顔は疲れていた。
何より、耕作が放棄されている畑がかなり多いような気がした。チャイコフスキー公爵領とは全然違う。
ルーシの貴族の領地では、農奴と呼ばれる身分の人たちが農業に従事している。
農奴は土地と貴族に縛られた存在だけれど、過酷な取り立てが行われているところでは、その農奴たちが逃げ出してしまうという。
このホルモゴルイ子爵領も……そうなのかもしれない。
わたしは……少し不安になってきた。
殿下を振り返ると、殿下はまだ顔を赤くしてもじもじしていた。
「ホルモゴルイ子爵領は前領主が二年前に亡くなって、その幼い娘が当主となっているんだ」
わたしと目が合うと、殿下は照れ隠しのように言う。
「ということは、どなたか後見人がいるのでしょうか?」
「遠縁の貴族が、実質的には領地を経営しているらしいね。だから、俺たちが挨拶するのは、当主とその後見人の貴族ということになる」
その後見人の貴族がまともな人だといいのだけれど。
わたしは心の中でそう願った。
やがて夕方になり、馬車はホルモゴルイの子爵邸についた。
アルハンゲリスク辺境伯の屋敷よりずっと立派だ。
赤レンガの建物は横に大きく広がり、威容を誇っていた。
やがて車寄せに馬車が止まり、わたしと殿下は降り立った。
出迎えとして、使用人たちがずらりと並んでいる。
男女ともに丁寧に仕立てられた服を着ていて、かなりお金がかかっていそうだった。農村の風景とは真逆だ。
やっぱり、このホルモゴルイ子爵領は豊かなのかな。
わたしが首をかしげていると、屋敷の玄関が開き、十歳ぐらいの小さな女の子がこちらへと歩いてくる。
まるで人形のような……びっくりするぐらい可憐な少女だった。肩までかかる銀色の髪がふわりと揺れ、金色の瞳がわたしたちを見つめる。
純白のドレスがとても良く似合っていて、わたしなんかより、ずっとお姫様という感じがする。
その子は、とてとてとわたしたちのところに歩いてくると、わたしたちを見上げた。
それから、うやうやしくひざまずいた。
「お待ちしておりました、第一王子にしてアルハンゲリスク辺境伯のアレクサンドル殿下。そしてその婚約者のアリサ・チャイコフスカヤ様。……私が、ホルモゴルイの子爵アナスタシア・プロコフィエヴァです」







