第3話 誓いのキス
「……フェリックス。俺のアリサに、何をしているのかな?」
殿下の言葉を聞いて、フェリックス君は、慌ててわたしの手を放した。
手の甲にキスされたところに、まだフェリックス君の唇の感触が残っていて、わたしは赤面する。
で、殿下以外の男の人の行動でどきどきするなんて、いけないことな気がする……!
い、いや、フェリックス君はまだ子どもだし……。
そ、それより、殿下が「俺のアリサ」って呼んでいた……。「俺のアリサ」……。
わたしはますます頬が熱くなるのを感じた。
わたしがそんなことを考えているあいだに、フェリックス君は殿下に睨みつけられ、えへへと笑っていた。
「いやだなあ、殿下。手の甲にキスするなんて、ただの挨拶じゃないですか」
「それはそうだけれど……他にはなにもしていなかった?」
「殿下の大事な大事なアリサ様に手を出したりしませんよ。アリサ様が可憐で魅力的なので心配になるのはわかりますが、アリサ様がそれをお許しになるわけがないでしょう?」
「それも……そうだな。ごめん、アリサを疑っているわけじゃないんだ」
「い、いえ……」
わたしはぶんぶんと首を横に振ると、殿下はホッとした顔をした。
「それに、フェリックスがそんなことはしないとは知っているし……俺に自信がないのが一番悪いんだ。誰かにアリサを取られてしまうんじゃないかって心配なんだよ」
そんなのは……必要のない心配だと思う。たしかにフェリックス君は可愛いし、キスをされればどきりとはする。
でも……。
「そんなご心配はなさらないでください。わたしには殿下しかいませんから。この先もずっとおそばにいると約束したではありませんか」
殿下はわたしの婚約者で、わたしを必要としてくれる人なのだから。
わたしが微笑んでそう言うと、殿下は顔を赤くしてうなずいてくれた。
フェリックス君はにやにやとわたしたちを見つめていて、横から口をはさむ。
「お二人は本当に似たもの同士ですね。アリサ様も、他に素敵な女性が現れたら、殿下の心が移ってしまわないか心配なさっていたんですよ。だから、僕に殿下のことを――」
わたしは慌ててフェリックス君の口を手で押さえた。苦しそうにもごもご言っているフェリックス君が少し可哀相だけれど、仕方がない。
フェリックス君は「僕に殿下のことを教えてほしいと頼んだんですよ」と続けるつもりだったんだろうけど、言わせるわけにはいかない。
だって、殿下のことを知りたいから、協力してほしいとフェリックス君に頼んだなんて、恥ずかしくて殿下には知られたくない。
それに、殿下に知られちゃったら……意味がない気がするし。
殿下は驚いた顔をして、それから優しい表情になった。
青いサファイアのような瞳が、わたしを見つめる。
「俺がアリサ以外の女性に心移りするなんて、そんなことありえないよ」
「そうでしょうか。……殿下はお優しいから、もし他に好きな方ができても、婚約者のわたしのことを捨てずにわたしのそばにいてくれるかもしれません。でも、本当はわたしより、ずっと素敵で魅力的で……殿下の力になれる子がいるじゃないかって、そんな気がするんです。もしそんな人が現れたら、わたしは……」
「大丈夫。俺にとって、アリサ以上の女の子なんていないんだから。俺を信じてついてきてくれた、アリサのことが、この先も一番大事だ」
殿下はそう言い終わってから、自分の言葉を思い返して、恥ずかしくなってきたのか、頬を赤くして、目をそらす。
そ、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに……と思いながらも、たぶん、わたしも顔が真っ赤だ。
フェリックス君が楽しそうに横から口をはさむ。
「本当にお熱いですね―。僕からの提案なのですが、改めてお二人が一緒にいることの証を立ててはどうでしょう?」
「証を立てる?」
わたしは首をかしげた。どういうことだろう?
フェリックス君は、得意げに続ける。
「僕がやったことと同じですよ。つまり、殿下がアリサ様の手の甲にキスをするんです。約束の証拠として」
いたずらっぽく、フェリックス君は片目をつぶってみせた。
……たしかに、悪くないかもしれない。
フェリックス君にされてあれだけどきどきしたのだから、相手が殿下だったなら……。
わたしは想像して、顔から火が出そうになった。
でも、一つ問題がある。
「あ、あの挨拶って……」
「身分が下のものから上のものへ口づけするものですね。もともとはオルレアン帝国やスターリング連合王国の騎士道由来のものだそうですから」
「そ、それなら、殿下がわたしの手の甲にキスするのは……変じゃない?」
「なら、唇にしておきます? そうすれば、いちいち僕がアリサ様の手の甲にキスしたから、ヤキモチする必要なんてなくなりますよ。一気にステップアップです」
わたしと殿下は顔を見合わせ、そして、ぶんぶんと二人並んで首を横に振った。
殿下がためらいがちに、ベッドに座るわたしの前にひざまずく。
そして、青色に輝く瞳で、わたしをじっと見つめた。
「で、殿下……?」
「これは騎士道由来のものなんだろう? なら、俺は……アリサを守る騎士だから」
そう言うと、殿下は少し強引にわたしの手をとり、指先を握り、軽く自分の指と絡ませた。
「あっ……」
わたしが小さく声を上げるのと同時に、殿下はおずおずと、その唇をわたしの手に重ねた。
燃えるような熱い感触に、わたしは軽く身じろぎする。
心臓が壊れそうなぐらいどきどきと音がする。
殿下がわたしの前にひざまずき、指をからめ、そして手にキスをしている。それは不思議で……とても胸の温かくなる光景だった。
わたしは殿下を見つめながら、思う。
殿下が……わたしを大事にしてくれているんだなって感じられて、とても嬉しい。
やっぱり、フェリックス君にキスされるよりもずっとドキドキする。
このまま、時が止まってしまえばいいのに、とも思う。殿下も同じ思いなのか、わたしの手にずっと口づけしたままだった。
でも、やがて殿下は名残惜しそうにわたしの手を放し、立ち上がった。
そして、頬を赤くして、わたしから目をそらす。
「アリサ……嫌じゃなかった?」
「そんなわけないです! その……とても嬉しかったです。あ、ありがとうございます、殿下」
こんな平凡な言葉でしか思いを伝えられなくて、もどかしく思う。
本当はもっと……こう……違った言葉で、さっきのドキドキを伝えられるような気がするのに。
わたしは、殿下がキスをした跡を見つめる。それは殿下がわたしのそばにいるという約束の証だという。
そして、わたしを守ってくれるとも、殿下は言っていた。
わたしも同じ思いを……殿下のそばにいて、殿下の力になりたいという思いを伝えたいのに、でも、その手段は思いつかなくて。
ただ、殿下がもう一度、わたしの手にキスをしてくれれば良いのに、ということばかり考える。
いつのまにかフェリックス君は部屋からいなくなっていた。……気を利かせてくれたのかもしれない。
「アリサ……明日、南の子爵領に挨拶に行こうと思うんだ。それで……」
「わたしもお供します」
わたしが微笑み、そう言うと、殿下は嬉しそうに笑ってくれた。
それから、なぜか恥ずかしそうに目を伏せる。
「もう一度、アリサの手にキスをしていい?」
わたしはびっくりして、殿下をまじまじと見つめる。
殿下は慌てて首を横に振る。
「そ、その……変かもしれないけれど……」
わたしはくすっと笑った。殿下も、わたしと同じことを考えていたんだ。
殿下の前に、わたしは手をすっと差し出す。
そして、殿下を見上げた。きっとわたしの瞳は……期待するように輝いている。
「殿下はわたしの婚約者で……そして、わたしの騎士でいてくださるのですね」
「うん。たとえどんなことがあっても……アリサを守ると誓うよ」
そして、殿下はわたしの手を取る。わたしの手は殿下の大きな手に包まれて、熱を帯びる。
殿下は、さっきよりも慣れた様子で、そしてより情熱的にわたしの手にキスをした。
わたしはその感触に、さっきのようなドキドキを感じつつも、優しい気持ちになった。
殿下はきっと、どんなことがあってもわたしを守ってくれる。だから、わたしも、殿下がどんな大変な目にあっても、命を賭けてでも、殿下の力になろう。
わたしは、心のなかでそう誓った。
このときのわたしは、まだ知らなかった。
子爵領に赴くことがどれほど危険なことか、そして、この誓いがすぐに果たされることかを知らなかったのだ。







