俺がアリサのためにできること:Александр Николаевич Годуно́в
王がいて、貴族がいて、国民がいる。
それは、北東の後進国ルーシ王国にとっては、当たり前のことだった。数百年来の伝統だ。
第一王子である俺にとっても、それは疑問に思うことじゃなかった。
その考えが変わったのは、10歳のとき、弟のミハイルの話を聞いたときのことだった。
同い年の弟のミハイルは、母親違いで、俺とは見た目があまり似ていない。彼は銀色の髪に、翡翠色の瞳という美しい容姿をしていた。
整った顔立ちは、なぜか庇護欲をそそるのか、王宮の女官たちはみんな目をきらきらさせて、ミハイルを可愛がっていたと思う。
俺にとっても、ミハイルは魅力的な存在だった。閉ざされた王宮のなかで、大人びたミハイルは、俺に知らない世界を見せてくれた。
そのときも、俺はミハイルの部屋に遊びに行っていた。
「アレクさ、これを見てよ」
とミハイルはにっこりと微笑み、俺のことを愛称で呼びかけた。
俺もミハイルのことを「ミーシャ」と愛称で呼んでいた。そんなふうに互いに愛称で呼びあえる友人は、俺にとってはミハイルだけだった。
10歳の頃の俺たちは仲が良かった。
俺たちは王子だったから、対等な存在なんて、ほとんどいない。だから、ミハイルにとっても、愛称で呼べるような友人は、俺だけだと思っていた。
それが俺の勘違いだということは、もっと後になって気づくのだけれど、今は別の話だ。
そのときのミハイルは、机の上に鮮やかな色の世界地図を広げていた。
驚くほど豪華に装飾されたその地図は、とても細かく詳しく書かれていた、そして見入ってしまうほど綺麗だった。
「どこでこれ、もらってきたの?」
「内緒」
ミハイルはくすっと笑って、人差し指を口に立てた。
そして、ミハイルは小さな人差し指で、ルーシの隣の国を指差す。
「隣国のニーノルスク共和国は、貴族たちが議会を作って国を治めている。だから王様はいないんだって」
「へえ……」
ミハイルは今度は逆に、地図の反対側を指差す。
「でも、東の大帝国では、皇帝と国民しかいない。貴族はいないのさ。皇帝がものすごく強い力を持っていて、試験に合格した国民たちが、役人となって皇帝を助けているんだ」
まだ、そのとき、王宮の家庭教師から、俺は歴史も地理も学んでいなかったから、ミハイルの話は新鮮だった。
いや、たとえ勉強していたとしても、ミハイルの話には驚いたと思う。
ミハイルには次にこう言った。
「だから、僕たちが王子なのは、当たり前のことじゃない」
「え?」
「時代が、土地が変われば、ルーシみたいな王や王子はいない。当たり前のことじゃないんだよ。だったら、僕たちはどうして王子なんだろう? 何をするために、この辺境のルーシに王子として生まれたんだろう?」
ミハイルは地図をじっと眺め、そして、ルーシ王国の王都ノブゴロドを指差した。その位置は、たしかに……大陸全体で見ると、中心からは遠く離れた……辺境だった。
「僕らは……ルーシを、オルレアン帝国やスターリング連合王国のような強国にしないといけない」
俺はミハイルの言葉に圧倒され、理解が追いつかなかった。
ただ、わかったのは、ミハイルが俺よりもずっと遠く先にいて、遥かに大きなことを考えているということだった。
その頃から、ミハイルはこのルーシ王国をどうすれば強い国にでき、どうすれば国民を幸福にできるのかを考えていたのだ。
そして、同じ頃から、俺はミハイルに敵わないということに気づき始めた。
ミハイルは神童と呼ばれるぐらい勉強ができるし、剣術も馬術も専門家が舌を巻いて称賛するほどの腕前だった。
何より、ミハイルには人を惹き付ける独特の魅力があった。
女官や姉の王女たちはミハイルのことが可愛くて仕方がないようだったし、年下の王族である従妹たちも、俺ではなくミハイルに懐いた。
女性に人気があるというだけでなく、宮廷に仕える学者や官僚、使用人たちもミハイルに心酔しているようでもあった。
そんななかでも、王太子は、俺だった。ルーシでは長子が王位を継ぐのが原則だ。
だから、俺は必死に努力した。良き王となるために。
ミハイルの言う通り、将来の王である俺には、この国のために力を尽くす義務がある。
自分で言うのも変だが、歴代の王太子のなかでも、俺ほど学問にしても武芸にしても、努力を重ねた人間はいないと思う。
でも、そんな努力は無駄だった。たしかに、それなりに優秀にはなった。けれど、俺はミハイルに追いつくどころか、どんどん引き離されるばかり。
学園での成績一つとっても、ミハイルが首席なのに、俺は次席どころか、せいぜい十番目の成績程度だった。
挫折と敗北感が俺を苦しめた。周囲の目も、常にミハイルと俺を比較していた。
王太子という地位は、俺にとっては重荷だった。
それでも俺は次の王となり、それをミハイルが支えてくれるものだと思っていた。
ところが、俺の母方の祖父だった大貴族が亡くなってから、雲行きが怪しくなり始めた。
祖父はルーシの伝統を重視する立場の貴族だった。
けれど、国全体の流れとしては、オルレアン帝国のような西方の国の文化や文明を取り入れる方向へと進んでいる。
そうしたなかで、ミハイルは、オルレアン帝国の貴族の娘を母とし、オルレアンの文化文明に通じていた。
個人の能力としても、ミハイルの方が俺より圧倒的に高い。そして、国を変えていく中で、ルーシの伝統である長子相続にこだわる理由もないと、官僚たちは意見を一致させた。
俺は王太子の地位を奪われることとなった。父である国王陛下も、貴族も官僚も、俺を憐れみの目で見ていた。そして、その視線には「お前はもう必要ない」という意味もこめられていた。
こうして、俺は「王太子」というたった一つの存在意義を無くした。
あとに残ったのは、何もない、空っぽの少年だけだった。
これまでの努力も何も意味はない。アルハンゲリスク辺境伯という爵位の格だけはそれなりに高いが、貧しい領地の貴族となり、王都にもいられなくなる。
辛く、悔しく、悲しくなかったと言えば、嘘になる。けれど、それ以上に、俺はほっとしてしまっていた。
もう王太子として努力する必要はない。もうミハイルに勝つ必要はない。
そんなことを考えてしまう自分に気づき、俺は絶望した。
もう何も失うものはない。恐れるものはない。
でも、たった一つだけ、失いたくないものがあった。
それは……婚約者のアリサだった。
きっと俺が王太子でなくなったなら、アリサは俺のことなんて見捨ててしまうかもしれない。
きっとそうだ。すでにアリサの父親のチャイコフスキー公爵は、ミハイル支持に回っている。それどころか、チャイコフスキー公爵はミハイルに娘を娶らせるつもりらしい。
でも、俺は……アリサだけは、ミハイルに奪われたくはなかった。
俺はアリサのことが好きだったから。
きっとアリサはそのことを知らない。俺が、昔から、身勝手で、理不尽で、格好の悪い理由でアリサを思っていることを、彼女は知らない。
俺はそれをアリサに話す勇気はなかったし、話さなくても、アリサは俺の妻になるはずだった。
けれど、事情が変わった。
このままでは、俺は本当にすべてを奪われてしまう。
そう思うと、いてもたってもいられなくなって……。
俺は卒業パーティーの場で、アリサの前に膝をつき、彼女にすがり、「婚約破棄をしないでください」とみっともなく頼み込んだ。
そんな俺に、アリサは戸惑っていたようだけれど、でも優しく微笑み、俺の願いを受け入れてくれた。
「わたしは殿下のおそばにいることにします」
アリサがそう言ってくれたことが、どれほど嬉しくて、どれほど心強かったか。
王太子の地位を失ったことなんて、どうでもよくなるぐらい、アリサの言葉は俺の心を暖かくさせた。
幸せな気持ちの中、視界がぼんやりとしていく。
……気がつくと、俺はベッドの上に横たわり、目をこすっていた。意識が徐々にはっきりしてくる。
窓の外はまだ真っ暗で、深夜のようだった。
ここは、アルハンゲリスク辺境伯の屋敷の寝室だった。
子ども時代やアリサに土下座したときのことを夢に見ていたらしい。
燭台の明かりが灯っている。不思議に思ってきょろきょろとすると、優しい表情の少女が、俺を見下ろしていた。
彼女の淡い色の水晶のような美しい瞳が、俺を愛おしそうに見つめている。
「お目覚めになったんですね、殿下。かなりうなされていて、心配でしたから……」
どうやら、悪夢にうなされて声を上げて、アリサを起こしてしまったらしい。我ながら情けないな、と思う。
謝ろうと思ったとき、俺は重大なことに気づいた。
「あ、アリサ……それは……!?」
アリサの小さな白い手が、そっと優しく、俺の髪を撫でていたのだ。
頬が熱くなるのを感じる、ね、寝ている間に……こんな幸せなことになっていたとは……。
アリサは一瞬、何を言われているのかわからないようで、きょとんとしていたけれど、すぐにはっとした表情で手を引っ込め、顔を赤くした。
……ずっと撫でてくれてもいいのに。
「ち、違うんです! 殿下が……うなされていたから……その……」
「俺を安心させようとしてくれていた?」
アリサは恥ずかしそうにうなずき、そして、上目遣いに俺を見つめた。
そんな照れた表情も、可愛いなと思う。
寝る前に抱きしめあったのだから、このぐらいで恥ずかしがらなくてもいいのに、と思うけれど……俺もアリサのことを言えない。
たぶん、俺の顔も真っ赤だ。
「殿下のことが心配で……つい……」
「心配させてごめん」
「……怖い夢を見ていたのですか?」
「最初は悪夢だったけれど、でも、アリサが夢の中にでてきてからは、とても心地よい夢だったよ」
そして、俺は気づく。
アリサが髪を撫でてくれていたから、その影響でアリサが俺の夢の中に出てきたのかもしれない。
そんな気がした。
「アリサのおかげだよ、ありがとう」
俺が笑ってそう言うと、アリサは「はい」とうなずいて、柔らかく微笑んだ。
「でも、わたしのことなんて、夢に見なくても……わたしはここに、殿下のおそばにいますよ?」
アリサは消え入るような、小さな声で言うと、恥ずかしくなったのか、みるみる顔を赤くして、毛布を引き寄せて表情を隠してしまった。
改めて、アリサのことを可愛いなと思う。
正直にいえば、今すぐにでも、髪を撫でるとか抱きしめるとか以上のことをしたいと思う。
でも、俺には……その勇気がなかった。それは俺が臆病で、アリサを傷つけてしまうかもしれないと思っているからだ。
そして、もう一つ重要な理由がある。
俺にはまだアリサに話せていない秘密がある。
俺にとってアリサが大事な理由。そして、俺がアリサを好きになったきっかけだ。
それをアリサが知れば……アリサは俺に失望するかもしれない。そのことが俺は恐ろしかった。
きっとアリサは、自分が政略結婚のために、俺の婚約者になったと思っている。
それは半分は正しくて、半分は間違っている。
たしかにアリサの父のチャイコフスキー公爵は、娘を、王太子だった俺の婚約者にしようとした。
けれど、当初は、アリサの妹のエレナが、俺の婚約者になるはずだったのだ。
公爵としては、それで目的は達成できるし、妹のエレナの方に愛を注いでいるようでもあった。
だから、当時、公爵はエレナを俺の婚約者とするつもりだった。
だが、そうはならなかった。
「……殿下?」
昔のことを思い出し、考え込んだ俺に、アリサが首をかしげ、不思議そうに声をかける。
俺はアリサに微笑んだ。
「大丈夫。何でも無いよ」
アリサはうなずき、淡い色の瞳で俺を優しく見つめた。
過ぎたことを考えても仕方がない。今の俺がアリサのためにできることは……この土地を最高の領地にすること、そして、俺を信じてくれたアリサの期待に応えること。
必ず……アリサを幸せにすることだ。
それでも、俺は昔のことを思い出してしまう。
当時のことを、俺は絶対にアリサに知られるわけにはいかない。
アリサが王太子の婚約者という立場になって、幸せではなかったことは俺も知っている。
俺にとって王太子という立場が重荷だったように、アリサにとって未来の王妃という立場は負担だっただろう。
アリサは学園で友人が少なかったと言っていた。けれど、それは王太子である俺の婚約者だったせいで、敬遠されていたためだと思う。
そうでなければ……アリサみたいな優しくて、魅力的な少女が孤独になるはずがない。
それでは、アリサに、王太子の婚約者という重荷を与えたのは誰だったか?
俺だ。
六年前、俺の婚約者に、エレナではなくアリサが選ばれたのは、俺の強い意志によるものだった。







