第1話 婚約破棄……しませんから!
ここは王立学園の卒業パーティの場。シャンデリアの輝く王立学園のホールだ。大勢の卒業生と在校生がダンスを踊り、談笑を楽しみ、華やかな雰囲気に包まれている。
「アリサ・チャイコフスカヤ」
わたしは自分の名前を呼ばれてどきりとする。目の前の相手はこのルーシ王国の王太子アレクサンドル殿下だ。
アレクサンドル殿下は、サファイアのような美しく青い瞳で、わたしを見つめる。顔立ちも恐ろしいほど整っているし、金色の美しい髪とあいまって、とても華やかな雰囲気だ。
ルーシ王国では金髪も碧眼も珍しい容姿だし、なおさら目立つ。
わたし、つまりアリサ・チャイコフスカヤは18歳の平凡な少女だ。王太子殿下と同い年だけれど、殿下と違って、くすんだ茶色の髪に淡い灰色の瞳という地味な容姿だ。小柄だし、あまり目立たない。
一応王太子殿下の婚約者なので、それなりに可愛い方ではあるとは思うけれど、「それなり」の範囲を超えない。
この学園には、もっと美しい令嬢がいくらでもいる。
もっとも、今日、この王立学園を、わたしも王太子殿下も卒業する。何事もなければ、これでアレクサンドル殿下とわたしは、新婚生活に入るわけだ。
そう。何事もなければ。
わたしは不安だった。アレクサンドル殿下とは、恋愛関係は一切なし。儀式だとか社交で必要な最低限のとき以外、言葉もあまり交わしていない。
あくまで政略結婚のみの関係だ。王家とチャイコフスキー公爵家の関係を強化するために、わたしは殿下と結婚する。そのための道具としてわたしは育てられた。
そんなわたしを、殿下はどう思っているんだろうか?
わたしは、わたしに自信がない。
これといった特技もないし、抜群に美しいわけでもないし、ものすごく頭が良いわけでもない。
学園でも友人も多くはなかったし、一人で本を読んで過ごすことの方が多かった。
わたしは……ただ、政略結婚の道具として育てられただけの存在だ。
そんなわたしが王妃にふさわしいなんて、到底思えない。
なにか理由をつけて、王家がわたしとの婚約を破棄したっておかしくない。もしそうするなら、今が最後の機会だ。
「大事な話があるんだ」
アレクサンドル殿下は重々しくわたしに告げた。ますます、わたしは不安になった。
大事な話ってなんだろう? やっぱり、婚約を破棄されるとか……? まだダンスも一曲も踊ってくださらないし。
わたしは緊張してアレクサンドル殿下の次の言葉を待った。
アレクサンドル殿下はおもむろに身をかがめ、そして、ホールの床に膝をついた。
……膝をついた?
そして、殿下は、そのまま地面にひれ伏すと、頭をこすりつけた。
これは。
いわゆる土下座?
「アリサさん、どうか婚約を破棄しないでください!」
「え!?」
わたしは目の前の光景と、殿下の言葉が信じられず、固まった。てっきり、私の方が理由をつけられて、婚約を破棄されるものだと思っていたのだけれど。
さっきまで華やかだったダンスホールの空気も、いまや凍りついている。
当然だ。
一国の王子が、婚約者の少女の前で土下座して、婚約を破棄しないでほしいと懇願しているのだから。
周囲からの冷たい視線を受け、わたしははっと我に返る。
「で、殿下!? ともかく顔を上げて、立ち上がってください!」
「嫌だ! 君が婚約破棄をしないと言うまでは土下座を続ける!」
「婚約破棄なんてしませんから!」
わたしがほとんど絶叫に近い声で叫ぶと、王太子殿下はおもむろに立ち上がり、そして、にっこりと微笑んだ。
「良かった」
……何も良くはない。悪い意味で注目を集めてしまった。
ともかく、わたしはアレクサンドル殿下をホールの外の廊下へと引っ張り出した。
この人は何を考えているんだろう?
そう考えて、わたしはほとんど殿下のことを知らないことに気づいた。
当然だ。形だけの婚約者という以上の関係がなかったんだから。
わたしは廊下で、殿下に二人きりで向き合った。こうして真正面から見ると、殿下は本当に美形だ。
見るものを陶酔させるような青い瞳、女性のようにきめ細かい白い肌、すらりとした長身。
何もかもが完璧に見える。
どうしてそんな殿下が、わたしに婚約を破棄しないでほしいと懇願するのか? みんなも理解できないと思う。
逆ならわかる、と言うだろう。つまり、わたしが殿下に婚約を破棄しないでほしいと言うのなら。
だいたい殿下はどうしてわたしが婚約破棄をすると思ったのか。
「殿下……確認ですが、そもそも殿下とわたしの婚約は、家同士の取り決めです」
「ああ」
「ですから、わたしが勝手に破棄することはできません。王太子である殿下でしたら可能かもしれませんが、ただの公爵令嬢のわたしにそんなことを告げることは許されないんです」
「もし可能だとすれば、君はどうする?」
「え?」
意外な問いにわたしは固まった。
アレクサンドル殿下は、不安そうな青い瞳を揺らす。
わたしが言ったことは、たしかに周囲の状況に過ぎない。わたし自身は……どうしたいんだろう?
教会暦1805年の今、平民はもちろん、貴族や王族のあいだですら、恋愛結婚もめずらしくない時代となっている。
仲良しの従姉のマリヤは、幼馴染の平民の執事と婚約して、周囲を驚かせた。さすがにこれは極端な例で、大騒動になったけど、でも、マリヤたちは幸せそうだった。
でも、わたしは……そんなことを考えたこともなかった。生まれたときから、わたしは王家の誰かに嫁ぐべき道具として育てられてきた。
それを超える価値なんて、わたしにはなかった。
殿下は言葉を重ねた。
「もし俺が王太子ではなくなったと仮定して、君はそれでも俺の婚約者でいたいと思う?」
「……わかりません」
率直にわたしが答えると、殿下は「うっ」と言葉に詰まり、涙目になった。わたしは慌てた。そんな顔をさせるつもりはなかった。
「わ、わたしは殿下の婚約者として、未来の王妃として育てられてきました! ですから、それ以外の選択を考えたこともないですし、その自由もありませんでした。純粋にわからないのです」
「そう。そうかもしれないな。俺も、昨日までは、俺が王となり、君が王妃になる未来しか思い描いていなかった」
……昨日までは? アレクサンドル殿下は王太子で、未来の王だ。それが変わるはずがない。
わたしがそう言うと、殿下は自嘲するような笑みを浮かべ、首を横に振った。
「次の国王は、つまり新たな王太子は、第二王子ミハイルに決まった。弟に王位を奪われた兄が、俺というわけだ」
「なぜなのですか?」
「理由は明白だよ。ミハイルの方が俺よりも明らかに優秀だ。君だって知っているだろう?」
「ええと……」
正直、平凡なわたしからしてみれば、アレクサンドル殿下も十分に優秀だ。なんでも卒なくこなす。学園の成績も優秀だ。
とはいえ、アレクサンドル殿下とミハイル殿下は、年子の兄弟で同い年だ。母親違いの兄弟は、なにかあれば、比べられて生きてきたのだと思う。
そうしてみると、たしかに……ミハイル殿下の方が目立つことは確かだった。学園での成績はアレクサンドル殿下が上から十位程度の順位だったのに対し、ミハイル殿下はほぼ常に一位。
パーティ前の卒業式で首席として挨拶したのも、ミハイル殿下だった。
しかもミハイル殿下はスポーツ万能で、テニスの腕前も国中でもトップクラス。学園の休暇中に軍務に従事したこともあって、そこでもその勇気ある行動を讃えられていた。
何より、ミハイル殿下は人気がある。男女問わず、カリスマ的な人気があった。王族としての不思議なオーラもある一方で、独特の親しみやすさもある。
それは学園でも宮廷でも同じだった。 特に婚約者のいないミハイル殿下には、学園の内外で多くの女の子に言い寄られていたし、宮廷の官僚のあいだでも評判が良かった。
そこまで考えて、わたしはアレクサンドル殿下の顔を見る。殿下は悲しそうにうなずいた。
「婚約者の君にこんなことは言いたくないのだけれど……率直に言って、俺はミハイルに勝てるところがない」
「そんなことは……」
「ないと思う?」
わたしは黙った。思いつかない。いや、アレクサンドル殿下も、礼儀正しいし、頭も良いし、かっこいいのだけれど……ミハイル殿下と比べると、普通なのだ。
アレクサンドル殿下はため息をついた。
「しかも、俺の母や母方の祖父は亡くなっていて後ろ盾もない。でも、ミハイルの母はオルレアン帝国の貴族の娘で、帝国とつながりもある」
「ああ……」
たしかに、アレクサンドル殿下に有利な点は一つもなかった。
そういうわけで、学園卒業を機に、アレクサンドル殿下は廃太子とされ、ミハイル殿下がとってかわったということだろう。
ただし、たった一つだけ、アレクサンドル殿下に有利なことがある。
それはわたしが婚約者であることだ。いや、もちろん、わたし自身には何の価値もないけれど。
でも、わたしの父のチャイコフスキー公爵は、ルーシ王国の重臣だ。その支持があるというのは、かなり心強いはずだ。
「殿下は王位を手に入れるために、チャイコフスキー公爵家の支持が必要で、だからわたしに婚約破棄しないでほしいとおっしゃるのでしょうか?」
わたしの言葉に、殿下はぽかんとしていた。それから、慌てて首をぶんぶんと横に振る。
「君を利用するつもりはない。第一、もう俺が王太子の地位を降りることは決定しているし、俺は王国北方の辺境伯として、追いやられる予定だ。君の父上のチャイコフスキー公爵も俺を王位につけるなんて考えないだろう」
「なら、どうして……?」
「それは……その……」
アレクサンドル殿下は、突然、うろたえた様子だった。そして、白い頬を真っ赤にして、うつむいた。
……どうしたんだろう?
なんだかとても恥ずかしそうだけれど。
殿下は、ささやくような小さな声で、わたしに告げる。
「……君を失いたくないからだ」
「え?」
「単純に俺は、君に婚約者でいてほしいんだ」
わたしは理解が追いつかずに固まる。殿下がわたしを婚約者としておきたい理由。なにかあるだろうか?
殿下はおずおずと、わたしの右手を握った。その温かい手の感触にわたしは驚く。でも……わたしには……なぜか殿下の手が心地よかった。
「王位を奪われても、辺境に流されても、君だけはそばにいてほしかった。ミハイルは、チャイコフスキー公爵家の娘を妻としようとしているし、公爵もそのことに賛同している。でも、俺は君を奪われることだけは許せない」
「それって……」
「ずっと昔から、俺は君のことが好きだったんだ」
わたしは唖然として、アレクサンドル殿下の顔を見つめた。
アレクサンドル殿下は顔を真っ赤にして、それでも、青い綺麗な瞳で、わたしを見つめた。
「俺には君が必要だ」
殿下が、わたしに好意を持っているなんて、考えたこともなかった。嫌われていたりはしないとは思っていたけれど、でも、ずっと形だけの婚約者という関係だと思っていた。
わたしは理由を尋ねかけて、思いとどまった。代わりに殿下の言葉をもう一度、噛みしめる。
殿下はわたしのことを好きだと言った。わたしのことを必要だと言った。
そんなことを言われたのは……初めてだ。
わたしは平凡な少女で、公爵家の道具に過ぎないと思っていた。それを超える価値は自分にはないと思っていた。
でも、殿下にとっては、違ったのだ。理由はわからない。
けれど、なぜだか胸に温かいものがこみ上げてきて、そして、自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
不安そうに、殿下はわたしを青い瞳で見つめる。
わたしは照れ隠しに、くすっと笑った。
「それって、プロポーズですか?」
「たぶん……そうだと思う」
「煮え切らないですね」
「ぷ、プロポーズだ!」
殿下は慌てて、顔を赤くして言う。その恥ずかしそうな表情がとても愛おしく思えてくる。
わたしはくすくすと笑う。
「プロポーズなんてしなくても、わたしたちはもう婚約者でしょう?」
「それは俺の婚約者でいてくれるということか?」
アレクサンドル殿下が、大きく目を見開く。そして、嬉しそうに顔を輝かせ、身を乗り出した。
殿下ってこんなに表情豊かだったっけ? わたしは……本当に、この人のことを何も知らないのだ。
でも、一つだけ、わかったことがある。この人がわたしのことを必要だと言ってくれたということだ。
「はい。わたしは殿下のおそばにいることにします」
わたしははっきりとそう言い切り、微笑んだ。
これまでのわたしは、いつも流されるばかりだった。道具として育てられ、政略結婚し、王妃となるはずだった。
でも、今の自分の言葉は違う。自分で選んだものだ。
お父様は、わたしをミハイル殿下の婚約者としようとしているという。そうすれば、お父様は喜ぶのかもしれない。わたしも王妃になれるのかもしれない。
でも、そんなことには何の魅力も感じなかった。
自分のことながら単純だと思うけれど、殿下に……必要だと言ってもらえたことが嬉しかった。
「ついてきてくれるのか?」
「辺境であろうと、どこであろうと、お供します。まずはお父様と話し合ってみて、ダメなら駆け落ちしてしまいましょうか」
わたしが冗談めかして言うと、殿下は嬉しそうにうなずいた。
☆あとがき☆
公爵令嬢と王子の辺境での溺愛スローライフものです。
面白そう、続きが気になる、という方は、
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