愛及屋烏はどちら様
王立アシュバル学園。
昼休み、学生たちで賑わう食堂では、今日も毎度おなじみとなった二人の生徒による大喧嘩が勃発していた。
「この成金女!」
「なによ貧乏貴族!」
くだらない理由で始まった喧嘩は、いつものように燃え上がった。
「お前のような女は、ぼくがもらってやらなきゃずっと独りだぞ!」
クリス・ダンダリオン。伯爵家の令息で、ダークブラウンの髪と深い紫の瞳が涼しげな男子生徒だ。眉目秀麗、成績優秀、伯爵家という身分でありながら、王家の姫から交際を申し込まれるほどの男である。
「あなたのように意地悪な男は、私が嫁いであげなきゃ一生独身よ!」
マリン・アレクセイ。子爵家の令嬢で、波打つ赤毛とチョコレートブラウンの瞳が麗しい女子生徒だ。商家の娘で少々気が強いところがあるものの、誰もが振り向く美貌を持つ才女である。
「まったく可愛げのない!」
「根っからの性悪ね!」
ふんっ、とそっぽを向いた二人は一息ついて、浮かした腰を落ち着けた。食堂の片隅、同じテーブルの隣同士である。
そんなに相手が気に食わないのなら、離れた席で別に食事をすればいいのに。誰もがそう思い、入学当初は声をかける者もいた。しかし二人は二年経ってもこうして一緒に昼食をとり毎回喧嘩する。人間は慣れる生き物、とはよく言ったもので、二人の喧嘩は猫がじゃれ合っている程度の認識でしだいに誰も気に留めなくなった。
いつものこといつものこと、仲がいいんだか悪いんだか、と。
そう、いつものことだ。入学して二年、ずっと変わらない二人の関係。
変わったのは、とある新入生がクリスに声をかけてから。
メイプル・モーガン子爵令嬢。蜂蜜色のふわふわした髪と、新緑の瞳をした愛らしい顔立ちで、入学早々、多くの男子生徒の視線を独占した。
喧嘩ばかりの婚約者であっても、彼女の手前、他の女子生徒とは一定の距離を保っていたクリスが、メイプルとだけは度々一緒にいる姿を目撃されていた。いよいよマリンに愛想を尽かしたか、可愛げのある女性を選ぶのか、と噂はあっという間に広まった。そしてそれは当然、同じ学内にいるマリンの耳にも入っていた。
珍しく友人と昼食を共にしたマリンは、席に着くなり質問の雨にさらされる。
「本当のところどうなの?」
「ついに昼食まで別々になっちゃって」
「クリスさまと話はしたの?」
口に運ぼうと持ち上げたサンドイッチは中途半端な位置で停止した。食べるより答えなさい、と訴える目に囲まれて、腕が止まった。
「最近は見かけるたびに噂の令嬢をくっつけてるもの。話どころじゃないわ」
友人たちが口々に不満の声をあげる。
「そこは割って入りなさいよ」
「そうよ、私の婚約者ですって押しのけちゃえばいいのに」
「多少強引でも、ここは女の見せどころだわ」
情けない、と友人たちはますます視線を尖らせる。
「いつもの逞しさをどこへ落としてきたのよ」
「成金貴族って陰口を叩いた子を精神的にボコボコにした時のこと、思い出しなさい」
「頑張れマリン、負けるなマリン!」
必要ないわ、と今度こそマリンはサンドイッチをかじる。
貧乏貴族のダンダリオン伯爵家と、金で爵位を買った成金貴族のアレクセイ子爵家。がっちりどっぷり政略結婚だ。愛の有無にかかわらず、必要であれば結ばれるだろう。それでもメイプルに乗り換えるというのなら、それまでの関係だったということだ。
「それって余裕からくる発言?」
「クリスさまのこと、そこまでして引き留めるほど好きではないの?」
返事もせずにサンドイッチを頬張るマリンに、意地悪な笑みを浮かべて一人が問う。
「いいの、マリン? 婚約者盗られちゃうわよ?」
からかうような調子をしているが、本気で案じてくれていると知っている。マリンは食事の手を止めた。
「あんな男のどこが良いのかしらね、彼女」
「クリスさまが意地悪なのはマリンの前だけだと思うけど。他の女生徒の前では紳士的で優しい方って評判よ」
「あら、じゃあ彼の外面に騙された被害者ね。お可哀想に」
目をぱちくりさせて驚いた風を装うマリンに、友人たちはやれやれと肩を竦めた。
「自分は素を見せてもらえている、という遠回しな自慢ね」
「あらあら、心配して損したかも」
「心配なのはクリスさまの方ね。殿方はあの手の女性に弱いから」
急に手のひらを返されて、マリンはムッとした。
「まるで私がクリスを信頼しているような言い方じゃない、あなたたち」
違うの? という声はぴったり三人分揃った。それが悔しくてますますムッとする。残ったサンドイッチをレディとしてはしたなくないギリギリのスピードで詰め込んで、さっさと席を立つ。
「お先に!」
身振りで示す怒りもどこ吹く風で、友人たちはのんびり手を振ってマリンを見送った。
◇
余った昼休みの時間をどこで過ごそうか、と回廊を歩いていると、空き教室から甘ったるい声が聞こえてきた。
「クリスさま、どうしてマリンさまと婚約なさっているの?」
思わず足が止まる。
「毎日のように喧嘩なさって、マリンさまはひどい言葉ばかりぶつけてくるのに。最近はお話しされている様子もありませんし」
あなたが四六時中クリスにくっついているからでしょう!
口から飛び出しそうになった言葉を両手で塞いで押しとどめる。
「マリンに声をかけようにも、君がそばにいたのではな」
冷たいクリスの声にも動じず、メイプルは声を弾ませた。
「まあ! 私のために!」
前向き過ぎではないだろうか。今度は言葉が腹の奥に沈んでいった。
クリスが本気で腹を立てると、声から一切の温度がなくなる。絶対零度。まさに凍土のような怒りで相手を切り刻む。普段の喧嘩とはわけが違う。本気で怒ったクリスの前では、マリンだって足がすくんでしまうのだ。
「マリンさま、最近はクリスさまへの不満をよく口にされていると噂になってます。クリスさまのことを意地悪だとか、他に好きな人でもできたんじゃないかとか、そうだったら婚約を破棄してやるとか……」
クリスが意地悪だという話は喧嘩のたびに声高に言っていることだし、他に好きな女性ができたという話は独り歩きしている噂だしなによりメイプルがその噂の中心だし、婚約破棄に関しては初耳だ。クリスへの不満なら隣にいる本人に直接訴えるので他人にこぼしたりはしない。
一体、どこで拾った噂なのだろうか。
「俺の聞いた噂とは違うな。それに、マリンからもそういう話は聞いていない。あなたの話は一体どこから知ったものだ?」
クリスの声がどんどん冷えていく。
婚約者のいる相手に付きまとっているはしたない女子生徒と、その女子生徒を振り払わない不誠実な男子生徒。マリンはそんな不実な婚約者に愛想を尽かした、と。噂はそれがすべてだった。
「そ、れは……男子生徒の耳に入らない、女同士の噂話もありますもの。それに、わざわざ自分の悪い噂を婚約者に話す女なんていませんわ」
「わざわざ婚約者の悪い噂を教えるような女も、俺はいないと思っていたが?」
「っ……!」
息を呑んだメイプルに、クリスは冷たい視線を向ける。
「悪意でないのなら、よほど教養がないのだな、あなたは」
可哀想に。
カァッと真っ赤になったメイプルは思わず腕を振り上げた。しかし振り下ろした腕はあっさり受け止められ、さらに熱が増す。
「子爵家の娘が、伯爵家の人間に手をあげるつもりか? 去れ、二度と顔を見せなければ問題にはしないでやる」
クリスの底冷えする声に憤怒も忘れ喉が震えた。掴まれた腕が解放されると同時に背を向け、逃げるように走った。
「まったく……」
しつこかった。本当にしぶとかった。どこへ行っても何をしてもそばをくっついて離れない。言葉での説得は効果がなく、態度で示しても上滑る。実力行使に訴えるわけにもいかず、ほとほと困り果てていた。
ぐったりして教室を出る。すぐマリンに報告しなければ、と考えながら踏み出して、目の前にいたマリンの姿に腰が抜けるかと思った。
「マリン……」
「はい、マリンです」
「……聞いてたのか?」
「盗み聞くつもりはなかったのですけれど、あなたの一人称が『俺』だったことに驚いて思わず」
しまった、と内心で天を仰ぎ見る。マリンの前では良い子ぶって『ぼく』なんて言っているが、実際のところ、クリスはかなり口が悪いし口調も荒い。マリンとの喧嘩の時だって必死になって言葉を選んでいるのだ、これでも。先ほどは怒りが先行して、ついうっかり素が出てしまった。
「違うんださっきのは……その、ついうっかり」
「うっかり?」
じぃっと見つめる視線に耐えられず目を逸らす。
「……君は乱暴な男が嫌いだろう?」
逸らし過ぎて、切り出し方を間違えた。マリンが眉を顰めて首を傾げる。
「乱暴な男は嫌いだけれど、あなたのことは好きよ」
「うっ……」
顔が熱くなる。
「あなたの方こそどうなの? 気の強い女は嫌いなのでしょう?」
「気の強い女は嫌いだけれど、お前のことは好きだよ」
顔が真っ赤になる。
「つ、ついうっかりでどうしたのよ」
誤魔化そうと話を蒸し返す。そうだ、その話をするつもりだったんだ。どうして好きだなんて言ってしまったんだろう。
熱でくらくらする。クリスは混乱と照れくささで頭がいっぱいで、何も考えず浮かんだことをそのまま口から放り出した。
「あの女が付きまとってるせいでお前と話もできないから、ついうっかり本気で怒っちゃったんだよ! 素なんて見せてやるつもりなかったのに」
「あ、あらあらまあまあ……」
「お前の前でぼくって言ってるのは、ちょっとでも良くみられたいからだよ。乱暴者だと思われたら……嫌いになるだろう?」
シュンとしたクリスはなんだか可愛らしく見えて、マリンは思わず破顔した。
「あんなに喧嘩して大声出してるのに、嫌われるのが嫌なんて、変な人ね」
「なっ! 変じゃない! 喧嘩はしてもお前に嫌われたくないんだ俺は!」
お互い素直ではないから。喧嘩することでコミュニケーションがとれるならいいと思っている。生き生きしたマリンを見るのは好きだ。けれど、傷つけたり嫌われるようなことを言わないよう、いつだって気を付けているつもりだった。
美人で賢い婚約者。ちょっと顔がよくて勉強ができても、本当は口が悪くて子どものような自分ではいつか愛想を尽かされるかもしれない。家同士が勝手に決めた婚約ではあったが、クリスはマリンに惚れ込んでいた。昔から繰り返していた他愛もない喧嘩だけが頼りだった。喧嘩しているうちはまだ、マリンはクリスの相手をしてくれる。情けなくて、言えるはずもないことだ。
「あなたが意地悪で口が悪いのなんて、今に始まったことじゃないもの。嫌ったりしないわ。好きだから喧嘩するのよ」
紳士的で優しい婚約者。ムキなって喧嘩をする相手は自分だけだと思うから、マリンはクリスの挑発に乗って声を荒げる。子どもみたいな独占欲だ。友人たちの言う通り。昼休みの食堂で、大勢の生徒の前で、彼は私のものですと宣言しているようなものだ。
「メイプル嬢は、もういいの?」
「もうってなんだよ。追い払うのに苦労してたんだぞ。お前が声をかけてくれればもっと楽に追い払えたのに」
「まあ、私のせいだって言うの? 愛想を尽かさず待っていた婚約者に、まずお礼を言うべきだわ」
このまま喧嘩に持ち込んで、今回の件はうやむやにしてしまおう。そう思っての軽い挑発のつもりだった。
けれどクリスは予想に反して、真剣なまなざしをマリンに向けた。
「うん、そうだな。不誠実だと言われてもおかしくなかったのに。信じて待っていてくれて、ありがとうマリン」
「へ……?」
予想外の言葉に、マリンは一瞬でゆであがった。
「明日からはまた一緒に昼食を食べてくれ」
「は、はい」
ほんの一瞬、息が詰まって。ほんの短い時間、体が締め付けられた。
マリンが何をされたか理解する頃には全部終わっていて、目を回す。
「マリン、次の授業は実験だろう。そろそろ行くぞ」
いつもはそんなことしないのに、手をつないで歩きだす段に至っても、マリンは声も出せなかった。
◇
賑わう食堂の片隅で、男子生徒の怒号が響いた。
「マリン! お前という奴はまた!」
「私が何ですって!」
また始まった、と。生徒たちは慣れたもので、特に気にした風でもなく食事を続ける。
近くにいたマリンの友人たちもまた、呆れたように溜め息をこぼすだけで仲裁に入ったりはしない。
「飽きないわねえ、あの二人」
「わかりやすく好き合っているのに、素直じゃないこと」
「つい先日、愛を確かめ合ったのではなかったかしら?」
不器用ながらもマリンを溺愛しているクリス。素直ではないけれどクリスを信頼しているマリン。そんなことは本人たち以外みんな理解していて、だから放っているというのに。何も知らない新入生がクリスの外面に騙されて、喧嘩ばかりの婚約者が相手なら成り代われるなどと勘違いした。可哀想に。
「マリンのこと大好きなくせに」
「クリスさまのこと大好きなくせに」
重なった声に顔を見合わせ、クスクスと笑い合う。
「どちらがどうという話ではないわね、あの二人は」
「比べるまでもないわね、あの二人は」
「どっちもどっち」
「お互い様ね」