1-7
次の夜、村外れの小川の畔に腰掛け、水面に揺れる大きな満月をぼんやりと眺めていた。
帰宅後に本を読んでみたが、どうにも難易度が高く頭を抱えた。曰く、魔方陣を刻むには物理的に削るか、魔力を操って削るしかないと言う。しかも、歪みや途切れがあれば効果が薄れるか、材料が壊れるかのどちらからしい。
「削れるわけがないんですけど…」
げんなりした声は大きな溜息を生み、彼女は満月を見上げた。寝る間も惜しんで本を読んだが、人気の少ない清流は良いと書いてあるだけで、満月については何の記述も無かった。だからと言って、神父が嘘を言っているとは思えずここに至る。
「ヨシュア、大丈夫かな…」
膝を抱えながら、今日の配達を思い出す。宿屋で迎えてくれたのはヨシュアの母親で、聞けばミュシャも体調を崩して休んでいるという。それほど状態は悪くないらしいが、連日の無理が祟ったのだろう。ヨシュアに関しては相変わらずで、何かに怯えているように見えるらしい。
「さすがに、出来ることと出来ないことがあるってー」
片手で頭を乱暴に掻くと横目で例の瓶を見た。沈んでいる枝には、気泡が付いていて呼吸をしているのが分かる。だが、だからと言ってどうと言うこともなく。
教会でやっている様に紙に描くのはどうかと、帰り際神父に尋ねてみたがやんわり拒否された。曰く、紙は丸いものしかない、枝が湿っているから無理だと。しかも、あのインク瓶の中身は聖水だ。浸しているものを使っても、吸収されるだけだろう。
「あーもーっ!!」
考えていたら、だんだん苛ついてきてリリアは思い切り叫んだ。
「うわっ!?」
「誰!」
人がいるとは思いもよらず、瓶を抱えて揺れた茂みを振り返る。魔物は結界によって近づけはしないが、野党は別だ。しかも、リリアは何の力も持たない村娘。自然と背筋が伸び、冷や汗が滲む。
「俺だよ、俺!ヨシュア!」
「え、ヨシュア…?」
「そんなに不思議?」
茂みを退けて姿を見せたのは、間違いなくあの日勇者の剣を抜いたヨシュアだった。
「外に出れる様じゃないって…」
「まあ、ね…でも、部屋の中にいても仕方無くてさ。ほら、座りなよ。驚かせてごめん」
木陰に二人で腰掛ければ、月の光で彼の顔がよく見えた。以前より少し頬がこけたようだ。
「リリア、話聞いてくれる?」
「ちょうど暇だしね」
震えるヨシュアの手を両手で包み、優しく微笑む。なんとなく、あの話のような気がしていたのだ。
「俺、俺さ…!俺、駄目なんだ、リリアにこんなこと言ってもどうしようもないし、困らせるし、怖がらせるの分かってる!でも、でも、誰かに話さないと辛くて!」
「うん」
「大丈夫だと思ったんだ!俺は主人公だし、勇者の剣を抜ける自信があった!でも、抜いちゃいけなかった!」
握り返された力は強く、必死に何かを堪えているようだった。
「全部思い出したんだ!全部!俺が皆を殺すんだ!」
「殺す?」
「俺のせいなんだ…ごめんなさい…ごめんなさい…もう、シナリオは始まっちゃったんだ…」
ぼろぼろと涙を流すヨシュアを肩を抱き寄せると、縋るように抱き締められる。一瞬思考が止まったが、込められた力に答えるように背中を撫でた。ごめんなさいと謝罪を続ける彼が、何をするというのか。不穏な言葉が聞こえたが、そんなことは信じられなかった。
「俺が…勇者だから、村のみんなが殺される…俺のせいなんだ…」
「大丈夫、自警団だっているじゃない」
「魔物なんだ!魔王の手下が、殺しにくるんだ!自警団なんて、敵うはずない!」
「魔王?」
「復活したから勇者を探してて、それで俺が首都へ着く頃にはもう…」
「魔王が復活したなんて騎士様達は言ってなかったわ」
「村に届くまで時間がかかるじゃないか!」
「さすがにサーシャ様が教えてくれるわよ。大丈夫、ヨシュアが知ってる話と違うじゃない」
「違う?」
「ええ。魔王に備えて勇者を探していたのは間違いない。でも、魔王はまだ復活していない。するかも分からない。ただ、剣が出たから探してみただけよ。一緒?」
「違う…」
リリアの話は真実だった。配達は、村の外に野営地をはっている首都からの騎士達のところにも行っていた。その時に、色々話を聞いていたのだ。村に来ている騎士団が、首都でも指折りの強さで、勇者探しに若干の不満を抱えている事すら聞き及んでいた。
「なら大丈夫よ!ね、貴方のせいで誰も死んだりしない」
「でも…」
「じゃあ、違うとこ探しでもする?」
「リリアは分からないじゃないか…」
「年上なめんじゃないわよ。大丈夫、ヨシュアは村の誇りよ」
ヨシュアの拗ねたような声に小さく笑って、リリアは額を弾いた。落ち着かせるように抱き締めれば、いつの間にか自分より高い背と逞しくなった体つきに寂しくなってしまう。それでも、この場所で悩むのは変わらないのかと、また笑う。今だけでも護ってあげられたらと、思わずにはいられない。
「リリア」
「んー?」
「もう、大丈夫だから…」
離れてほしい、と蚊の鳴くような声で言うものだから、つい弟を思い出してしまった。
「はいはい。良い子はお家に帰って寝なさいよ?」
「ばかにしてるだろ…」
「してないしてない!」
体を離して、髪をわしゃわしゃと乱暴にかき混ぜる。涙の跡は残っているが、先程より憑き物が取れたような顔をしていた。
「リリアも」
「なに?」
「リリアも帰らないと駄目だろ。こんな時間に女の子一人で」
「……」
「リリア?」
目を丸くして瞬きを数回。下から覗きこまれて、ようやく我に返った。
「あ、いや、女の子なんて歳じゃないし!私はもう少しここにいるから!」
顔に熱が集まるのを感じた。それに気づかれてしまうのが恥ずかしくて、距離を置こうと後退りをする。
「付き合う」
「は?」
「リリア帰るまで付き合うよ」
後退りをしようとしたのだ。ヨシュアに腕を掴まれるまでは。顔を逸らして、掴まれていない手を横に振り、兎に角必死に誤魔化した。
「え、大丈夫だって!ね、おばさん達心配してるから」
「リリアの家の方が遠い。それに、手紙見て来てくれたんだろ?」
「手紙?」
何の事かと、逸らしていた顔を戻してしまった。手紙なんてどこからも届いていない。不思議そうにしていると、ヨシュアが恐る恐る口を開いた。
「……えーと、ミュシャから受け取ってない?」
「うん」
「あーいーつー!でも、そうしたら何でここに?」
「神父様に言われてちょっとね」
「ふーん」
明らかに何かを誤魔化され、ヨシュアは口を尖らせた。木札の手伝いの事は秘密にしておくように、昔から口酸っぱくいわれている。それに、例の瓶の事もすっかり忘れていた。
「その瓶、教会から借りたの?」
「え、いや…」
「隠さなくたっていいじゃんか。その枝に刻んである模様、教会のお守りと似てるし」
枝に刻まれたものなどあるわけがない、と首を傾げた。リリアはまだ何もしていないのだから。
「え!?何で!?」
慌てて瓶を食い入るように見ると、確かに魔方陣が刻まれていた。しかも、入っていた数本の枝、全てに違うものが刻まれている。
「それがどうかした?」
「何でもない!さ、帰ろうか」
「え、いいの?」
「眠くなってきたしね。寝不足は美容の大敵!」
「リリア気にするタイプだっけ?」
「うるさいわよ!」
これからヨシュアは噂通り、首都へ召し抱えられるだろう。だからせめて今だけは、ヨシュアに今まで通りの時間を過ごしてほしかった。勇者になる前の、ただのヨシュアの時間を。