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世界を撃った少女  作者: 機乃 遙
世界を撃った少女《The Girl Who Sold the World》
6/9

 ラングレーに戻って早々、マギーは局長からの呼び出しを喰らった。マギーは対外情報部の機密調査部門シークレット・セクション、そのなかでもビルフィッシュの直属の部下であり、一匹狼の工作員として知られている。そんな彼女が局長からわざわざ呼び出しを喰らうなど、珍しいことだった。

「ライダーです」

 局長室のドアをノックする。まもなく向こうから「はいりたまえ」という答えが帰ってきた。

 シックな調度品のあしらわれた室内。イスに深く腰掛けたマディソン局長は、渋い表情のままそこにいた。

「よく来た、ライダー君。わかっていると思うが――」

「バイロン社の件、ですね」

 遮るようにして、マギーは言った。彼女には、すでにわかっていた。なぜ自分が呼び出されたのか。すべては上層部にかけられた圧力が原因だと察しがついていた。

 局長はマギーの言葉に、小さく嘆息した。

「……察しがよくて助かるよ。君が進めている脅威査定は中止になる。理由は、わかるな?」

「今度は何の取引ですか?」

「取引など何もないよ。当局は、バイロン社には何の問題もないと判断した。脅威査定は終了だ。……バイロンの技術や傭兵は、我が国には必要だからな」

 ――それが本音だろう。

 マギーは内心毒づいた。

 わかっている。現在、体制崩壊後の北朝鮮では企業間による資源採掘戦争が行われている。それは表向きは割譲された土地でのビジネスのやりとりとされているが、その裏では国家の利権が絡んでいることは周知の事実だ。本音と建前、というやつである。誰もがかの地に眠る核資源や石油資源を求めて、水面下で動き続けているのだ。

 合衆国政府のねらいは、バイロンの陰に隠れて資源を独占することだろう。バイロン社の

傭兵部隊と無人機部隊は、現在では戦場の第一線を担う存在である。合衆国政府にとって、バイロンとの関係は悪化させたくないはずだ。

 だからこれまでも、そういった秘密の取引によって、両者の微妙な均衡はとられていた。相互不可侵だ。武器・兵器の独占契約や、無人機の大口契約。その闇取引によってもみ消されたモノは、もはや数え切れない。

 しかしそのいっぽうで、バイロンが政府との密約を破り、ブラックマーケットに武器を横流ししている事実が存在している。しかも政府もバイロン側もお互いにその事実を突きつけ合えないでいる。理由はカンタンだ。どちらも表沙汰には出来ない密約であるからだ。そしてそれが表舞台に出れば、両者が共倒れになることは間違いない。

 だが、今回の件はそれ以上に根深い闇があると、マギーは確信していた。それはDやAのような存在や、そして彼らがチューズデイのデータを隠し持っていたこと。なにより、バイロン社自体がかつてシンジケートと関係をもっていたことからも推察できる。

 だが、CIAはあくまでも国家のイヌにすぎないのだ。

「〈ビルフィッシュ〉にはすでに伝えてある。君は今日から一週間の休暇だ。いいかね?」

 と、局長は物々しい口調で言った。

「……了解しました。では、その通りに」

 マギーはそう答えたが、内心穏やかでなかったのは言うまでもない。

 局長室を出るとき、彼女はあの女(﹅﹅﹅)の身を案じていた。


 局長室を出てから、マギーは自分のデスクに戻ろうとした。だが、その前にコーヒーの一杯でも淹れていくことにした。妙な胸騒ぎがしていたので、それを落ち着けたかったのだ。

 給湯室にはそれなりに人だかりができていた。コーヒーメーカーの前では、マギーより一回りも二回りも年上の職員たちが井戸端会議を繰り広げている。彼女はそれに辟易としつつ、しかし水を差すわけにもいかず。しかたなく先に仕事を済ませることにした。

 窓辺に立ち、耳元の通信端末に触れる。こめかみのジャックに挿入された円形のダイアル端末。彼女はそれを手前にツー・クリックほど回転。秘匿回線であの女の端末につなげた。もちろんあの女というのは、時代遅れの女殺し屋のことだ。いまどき脳にジャック・ギアの増設手術も行っていないロートル。だが、マギーは彼女に託すよりほかになかった。

 しばらくマギーは、チューズデイに向けてコールしつづけた。だが、聴覚野にはプリセットされたコール音が響くのみ。プルル、プルルと無機質な音を三十回も聞いたが、それでもチューズデイは出なかった。


     *


 土壌をまきあげながら、アウディRS3は獣道を疾走した。だが、その走りはどこかぎこちなかった。まるで今のドライバーの状態を反映したかのように。

 足を引きずるように、ぬかるみで後輪をズルズル引きずらせながら林を抜ける。チューズデイの頭は運転と、そして痛みに耐えることでいっぱいだった。

「あの、チューズデイ、電話が鳴ってるけど」

 助手席のウィルが言った。

 彼の言うとおりだった。シフトレバー上のカー・ナビゲーションは、地図表示から電話応対画面に切り替わっている。発信主は非通知だ。

「どうせ仕事の依頼でしょう。無視しなさい。今はそれどころじゃない」

 ステアリングを切る。カウンターステア、泥をまき散らす。

 バックミラーをちらと見ると、そこには歪んだ影が見えた。風圧に草木を揺らしながら、四枚羽根を散らして飛翔してくる。無人偵察機(ハミングバード)だ。まだ追っ手は残っていたらしい。

「クソ。いったい何機残っているんだ」

 愚痴を漏らしながら、アウディを走らせる。

 彼女は十分急いでいるつもりだった。痛む足に無理を言わせて、アクセルを踏み続けた。だが、それでもなおバックミラーから無人機が消えることはない。

 疲れを知らぬ機械は、アウディに食らいついて離れない。搭載された消音自動小銃(ハニーバジャー)を発砲し続けている。減衰させられた発砲音は、スズメバチでも襲いかかってきているようだ。

「どうするの、チューズデイ。どうやって逃げるの?」

 ウィルが落ち着き払った声で問うた。それがチューズデイの焦りをさらに逆撫でした。

「いま考えてる。ウィル、あなた銃に自信があるって言ったわね?」

「そうは言ったけど。でも、無人機が後ろに何機も――」

 ウィルがそう言い掛けたとき、リアウィンドウを突き破って、一発の銃弾が内装(インテリア)にまで飛び込んできた。合皮張りのヘッドレストから真綿が噴き上がる。ウィルの身長が低かったから良かったものの、もしそれが数十センチ横にズレていればチューズデイの脳髄をぶち抜いていただろう。

「さすがに僕には無理だよ。何か手はないの? たとえばボンネットに機関銃が付いてるとか?」

「ないわ」

「リアハッチに火炎放射器があるとか?」

「それもないわ」

「じゃあ、電磁反応装甲(ERA)が付いてて銃弾が弾けるとか――」

「それもないわ。もっと言えば、車体の色も変わらないし、ボタン一つでナンバープレートが切り替わったりもしない。車体後部からスパイクベルトも出なければ、オイルも出さない。タイヤのリムから刃物が飛び出たりもしないわ。これは、どこにでも売ってるふつうのアウディなの。内装と通信機を特別仕様にすげ替えただけ。そんなオトコノコが夢見るマシンなんかじゃないのよ」

「じゃあ、どうやって追っ手をまくの?」

「考えなさい!」

 しわがれた声でピシャリと言いつけると、アウディは急加速。体がつんのめり、ウィルは思わず口を閉じた。

 チューズデイにもわかっていた。このまま追っ手をまくのは不可能なことぐらいは。なにせ相手は衛星から送られてくるGPS情報と、目の前の敵を視認するためのカメラを用い、攻撃目標を地獄の底まで追いかけてくるのだ。それが無人偵察機の役割なのだから、当然である。そうして偵察機は、確認した情報をネットワーク上で共有し、常に最新の位置情報を味方に届ける。それは機体が破壊されるかぎり続く。

 ――だったら、破壊するまでよ。

 生唾を飲む。右足はまだ痛むが、やるしかない。奥歯を噛み締め、彼女は覚悟を決めた。

 チューズデイは、右手をステアリングからシフトレバー、サイドブレーキ、そして無造作に置かれたクリス・ベクターに移した。ベクターのグリップを掴むと、そのまま指先をサイドブレーキにあてがう。そして――

「ウィル、あなたに渡したワルサーは?」

「あるけど、でも、あんなんじゃ――」

「相手の羽根を狙いなさい。くれぐれも、私を撃たないように。いいわね?」

「いいって、何が?」

「これがよ」

 次の瞬間だ。

 泥まみれの獣道で、チューズデイはサイドブレーキを引いた。スキール音を立てながら、アウディは横滑りを開始。泥を巻き上げながら、その横っ腹を追っ手のドローンたちに向けた。

 そして同時、チューズデイは左足でドアを蹴り開けた。

 視界が開く。そして射線も一気に開けた。彼女の手には四十五口径弾を装填したクリス・ベクター。やることは、一つしかなかった。

 ぬかるんだ路面を横滑りするアウディ。その一瞬でチューズデイはベクターを構えると、片手でステアリングをコントロールしつつ、トリガーを絞った。宣言通り、放たれた弾丸は無人機の羽根をもいだ。片翼となったドローンはバランスを崩し、木立の中へ。枝葉にぶつかり、もがきながら爆散する。

 そしてそのとき、ウィルも気づいていた。チューズデイが言っていたことの意味。彼女は、「いま撃て」と言っているのだ。

 ウィルも無我夢中で援護射撃をした。当たっているかはわからない。ろくに照準器(サイト)も見ず、無我夢中だった。

 アウディがドリフトから体勢を戻し――というよりもドーナツターンをして、三六〇度回転した――ドアが慣性に従って閉じたとき、ウィルは放心状態だった。ただ彼の耳には、もうあの耳障りなサブマシンガンの銃声は聞こえなくなっていた。

「よくやったわ。実戦経験なしにしては、上出来じゃないかしら」

 チューズデイはつぶやき、ステアリングを切って車体を立て直す。再び泥をかきだしながら獣道を抜けたとき、もう追っ手は見えなくなっていた。


     *


 追っ手をまくと、アウディは幹線道路へ。チューズデイは、針路をポートランド方面へ向けて、クルマを走らせ続けた。

 やがてダウンタウンの手前にまで着くと、アウディを手近な地下駐車場へ入れた。獣道での銃撃戦のせいで、ボディは弾痕と泥まみれだ。さすがにそれで市街地に入っては目立つ。それに無人偵察機(ハミングバード)はこのクルマを確認していた。すぐにでも検索にかけられ、居場所を特定されるだろう。破壊するか、捨てるかしなければならなかった。

 だが、破壊よりも前にチューズデイにはやることがあった。一つは、トランクから武器を持ち出すこと。あるいは、処理すること。第二に、電話に応答することだ。

 アウトレットモール近くの地下駐車場にクルマを停めると、チューズデイはまずエンジンを切り、それからショルダー・ホルスターにハンドガンを戻した。

 上着を羽織り直して銃を隠すと、クルマを出て、車体後部のトランクへ。彼女はそのなかからヴィオラ用のハード・ケースを取り出した。もちろん中に弦楽器は入っていない。中身は弾薬と銃だ。そこにクリス・ヴェクターとスターム・ルガーMkⅢ、そして予備弾倉を収納。最後にカギを閉じると、ガンケースは完全にヴィオラケースの外観に戻った。そうして楽器にしか見えなくなったケースを、彼女は肩に掛けて持ち出した。

 武器の用意を整えたら、最後にカーナビ脇に座していた情報端末を拾い上げ、腕のメタル・ストラップに挿した。腕時計型の端末にも利用可能なウェアラブル・コンソールである。その画面には、数件の着信履歴があった。どれも非通知で、こちらからは折り返し連絡はできない。だが、チューズデイにはわかっていた。そのうち、向こうからまた連絡がくると。

「ウィル、行くわよ。ここから先はクルマは使えない」

 地下駐車場の出口に向かう。光の射し込む通用口では、ピックアップトラックが一台、満車の表示を喰らって引き返していた。

「あのクルマは捨てるの?」

 ウィルはアウディを飛び降りて、駆け足で追いかけてきた。

「ええ。後処理は掃除屋でも雇えばいい。あるいは、依頼主(クライアント)に頼むって手もあるけれど。とにかくここからは、あのクルマは使えないわ。すでに敵にマークされてるでしょうし」

 地上へ出ると、すっかりまぶしい陽が照りつけていた。通りには観光客と、せわしく走り回るクルマの群がある。

 チューズデイはその中から一台、タクシーを見つけると、手を振って呼び寄せた。ラテン系の陽気なタクシードライバーは飯の種を見つけるや、即座に切り返し、歩道へと寄ってきた。

「お客さん、どこまで?」

 乗り込んできたヴィオラ・ケースを持った老婆と少年に、運転手は問うた。端から見ればこれからコンクールにでも向かう母子にすら見えただろう。むしろ殺し屋とその護衛対象だと看破することのほうが難しい。

「ユニオン駅まで。急いでるの」

「へい、了解です」

 タクシーが扉を閉めると、勢いよく発進。

 運転手の男は顔から笑みをこぼしながら、市街地に向かって走り出した。


     *


 ポートランド・ユニオン駅に着くと、チューズデイはシカゴ行きの長距離列車、エンパイア・ビルダーの切符を買った。できるだけ早く、オレゴンを抜け出したかった。

 エンパイア・ビルダーは、オレゴン州からシアトル、シカゴまでを結ぶ大陸横断列車だ。シカゴまでは、急いでも一日はかかる。十年前に車両が改良されたものの、それでもアメリカの広大な土地を縮めることは、鉄道にはなかなか難しい。もはやただの文化継承の象徴としかなっていない。だが、それは逃亡者の身には好都合だった。よもや鉄道で脱出するとは、誰も思うまい。

 切符を手に駅舎に入ると、ちょうど車両がホームに乗り込んできた。鈍色の特急車両。二階建ての列車だ。その客車のほとんどは寝台列車で構成されていた。

 チューズデイとウィルは、その車両に飛び乗ったが、そのときちょうど電話がかかってきた。腕時計型端末に着信。チューズデイは客車に入ってすぐに足を止めた。

「どうしたの」

 と、寝台車に向かいながらウィルが問うた。

「電話よ。たぶん依頼主(クライアント)からね。先に行ってなさい。すぐに戻る。……もし何かあったら、いいわね?」

 そう言うと、チューズデイは肩にかけたヴィオラケースを差し出した。中にはサブマシンガンが一丁と、拳銃が一丁入ったものだ。彼女の意図というのは、つまり自分の身は自分で守れということだった。


 ラウンジのある車両にまで来ると、チューズデイは近くのソファーに腰を下ろした。

 ラウンジ車両は、その内装を全面選択透過式モニタで覆っていた。全面にポートランドの街並みを映しながら、そのうえに階層(レイヤー)表示で運行状況を映している。天候情報、乗り換え案内、最新ニュース……街並みに文字列が覆い被さる。

 チューズデイは通話に応じた。まもなく、非通知の相手が声を発した。

「無事ですか」

 第一声はそれだ。幸いにも、今回はボイスチェンジャーを使っていない。すぐにそれがマギー・ライダーからのものだとわかった。

「まあね。無傷と言ったら、嘘になるけど」

 手を右太股に伸ばす。

 スーツの下に着たスマート・インナーが止血モードに切り替わってから、すでに二時間以上が経過している。血は凝固し、傷口を封じたかもしれない。痛みにもだいぶ慣れてきた。だが、ふとしたとたんに現れる痛みがチューズデイの脳裏にあの悪夢を蘇らせた。赤い髪の女に殺される、あの夢を。

 こびりついた殺人者のビジョンを忘れるために、チューズデイは車窓に目を映した。ポートランド市街地の風景は、いつしか小さくなり始めていた。そのうち荒野が姿を現すだろう。

「交戦したわ、たぶんバイロンの無人機部隊ね。そっちでも確認しているんでしょう? あなたも無人機を飛ばしていたはず」

「こちらの無人偵察機は全機帰投しました。戦闘のすべては把握できていません」

「どういうこと?」

「ご想像の通りですよ。……上層部がバイロンに説得されたのでしょう。わたしの任務は中止になりました。よって、わたしの直属の部下にあたる無人機は、みな強制送還されています。これ以上の任務続行は不可能です」

「だから、私みたいな老いぼれに依頼した……。そういえば、そうだったわね」

「そういうことです。……ちなみにミス・ボンド、いまどちらに?」

「オレゴンを出たところよ。それ以上は言えないわね。たとえあなたがクライアントだとしてもね」

「それについては構いません。この件に関しては、全権限をあなたに委任する形ですから。……ですが、いまの進捗状況だけでも教えてください。戦闘行為があったことは、こちらでもすでに確認済みです。Aは――アンジーらしき人物の手がかりはつかめましたか?」

「いちおうは。人相はわかったわ。おかげで、あの廃墟ではひどい目にあったけどね。あそこにはまだ護衛用の無人機がウロチョロしている。それに、そのうちの一機が立体映像(ホログラム)でそのアンジーって子の映像を見せてきた。こっちをあざ笑うみたいにね」

「それは、どういうことですか」

「わかってたら苦労しないわ」

 チューズデイは足を組み直す。出血は止まっていたが、まだ痛みがあった。

「それからもう一点、気になる言葉があった。『プロジェクト・サタデイ』……聞いたことは?」

土曜日計画プロジェクト・サタデイ? なんです、それは?」

「どうやらそっちでも情報はつかめていないみたいね。……わかった。とにかく、あなたはこっちの仕事からは降ろされたということね。だったら、これ以降は私の好きにさせてもらう。CIA(あなたたち)のやりかたに従うのは、もうウンザリなのよ。いいかしら?」

「かまいませんが……。あの、Dは――ウィルは無事なんですよね? ほかにバイロンの情報は――」

「追って連絡する」

 通話を一方的に切る。

 仕事の内容はわかっているのだ。自分の娘だという少女――あの赤毛の少女を殺すこと。あるいは自分の姉弟(フライデイ)の置きみやげを始末すること。それがチューズデイにしか成し得ない仕事だとは――いや、自分が終止符を打つべきことだとは、彼女自身わかっていた。

 痛む足を起こして、チューズデイは寝台車両に向かった。このまま電車に乗っていれば、明日にはシカゴに着いているはずだ。


     *


 チューズデイとウィルの二人に割り当てられたのは、二段ベッドのある小さな客室だった。土壇場で買った切符なのだから、上等な客車のはずがなかった。

 ウィルは二段ベッドの上段に登ると、そのまま仰向けに大の字になった。天井が近く、手を伸ばせば届きそうなくらいだ。客車のサスペンションがレール一つ一つから振動を拾い上げて、その天井を揺らしていた。

 ウィルは、ふと右手を上にかざして見た。あいにく天井には届かなかったが、しかし手のひらがちょうど照明に重なった。手の輪郭を浮き彫りにするように、橙色の光が漏れている。

 生白い、少年の手のひら。広げてみれば、光を通して皮膚の間を血潮が流れていくのが見えた。真っ赤な血潮。人間であり、動物であり、そして生きている証である血。機械人形ではないという証のはずの、その血潮。

 ウィルは、そんな自分の手を見た瞬間、とたんに恐ろしくなった。右手は震えだし、思わず彼はもう片方の手で押さえ込むことになった。左手で右手を包み、ウィルは寝台の上にうずくまった。光から目を背けて、胎児のように縮こまって。

 ――この手で、確かに銃を撃ったんだ。

 衝撃がまだ残っている。

 興奮がまだ残っている。

 アドレナリンが指先で踊り続けている。耳元で囁き続けている。

 チューズデイからもらったワルサーPPK/Sは、ヴィオラ・ケースのなかにしまってあった。ケースは室内のサイドテーブルに置かれていたが、ウィルにはもう一度手に取る気も、目にする気も起きなかった。

 怖かったのだ。

 「撃て」と暗に言われて、撃ったあの瞬間。ウィルは自分の中の”なにか”が目覚めるのを感じた。しかし、それは少なくとも自覚できるような人格らしきものではなくて、脊髄反射的な反応だった。まるで無人機が考えなしに指令に従い、引き金を絞るような感覚。それがウィルに対し「そうあるべき」というように命じて、いつしか彼は無我夢中でトリガーを引いていた。それが怖かった。自分が兵器に成り下がろうとしていたことが。

 自分でもわかっていたはずなのに。

 あの研究所でやっていたことは、子供を洗脳し、VRで戦闘訓練を行い、教育を施すということだ。それぐらいウィルにも理解できていた。自分が無人機(ドローン)のように扱われていたことぐらい、わかっていたのだ。しかしその教練が実際に役立った瞬間、ウィルは自分の中の何か大切なモノが壊れたような気がしていた。人間らしさのような、今までうっすらとだが信じていた何かが、ガラスのように砕け散った気がしたのだ。いや、初めからなかったのだと耳打ちされた気さえしていた。

 うずくまり、タオルケットの中に潜り込んで、ウィルは震えた。

 そしてそのとき、幻聴のように声が聞こえたのだ。

《バカじゃないの、あなた。どうして震える必要があるの》

 聞き覚えのある声。

 声が聞こえただけで、ウィルの脳裏にはその姿がよみがえった。肩ほどの赤毛と、そばかすの目立つ白い肌。冷め切った青い瞳。見下すようなその視線。すべてを達観したような物言い。

《消えてくれ、アンジー。君は、どうしてここにいるんだ。どうして僕の頭のなかに入ってくる?》

《だって、アタシたちは同じ施設で育った、双子の姉弟みたいなものでしょう? アタシたちは何度も電脳空間に意識を連れ去られた。ドローンと同じ。脳と機械を繋げられて、何百時間という戦闘訓練をさせられた。それが生身か、機械かだけの違いじゃない。……ねえ、アタシはもうあなたの居場所(パーソナル・スペース)がどこにあるのかわかるのよ。D、アタシはいつでもあなたに会いにいける。だってアタシたち、友達でしょ?》

《違う。僕と君は、そんなんじゃない。……消えろ、アンジー。君だって、バイロンのしていることが悪いことだって、少しはわかってるんだろ。でも、君は僕みたいに逃げなかった。兵器になることを受け入れたんだ。……だから、君はいつか殺されるよ》

《殺されるって、誰に? バイロン? チューズデイ? それともあなたに? まさか。それはできないって、あなたが一番よく知ってるじゃん、D。……いいや、いまはウィルって呼ぼうかしら。……まあいっか。今はアタシも時間がないからさ。でも、いずれ殺されるのはあなたのほうだから。それは前に宣言したとおり。せいぜいよく逃げて楽しませてね、ウィル》

 声が消える。

 ウィルは反射的に耳を封じていたが、その幻聴は鼓膜に響いているわけではなかったから、意味はなかった。

 いまだ彼の脳裏には、アンジーの言葉が反復していた。そして、銃を撃ったあのときの感触がリフレインし続けていた。


     *


 客車へと戻る前に、チューズデイは”ある人物”に電話をかけた。相手の所在地はシカゴ。明日には到着する場所にいる人物だった。

「私よ。名乗らなくても、誰だかわかるでしょ」

 通話に相手が応答するや、チューズデイはすぐにそう問うた。

 相手も相手で黙ってそれに応じた。吐息だけでそれが肯定であると、チューズデイにもわかった。

「実は厄介な仕事を頼まれてね。早速だけど、私ともう一人ぶんの身分証明書(IDタグ)がいる。それから仕事をするためにもいくつか必要なものが。明日にはそっちに着くから、用意しておいてくれないかしら」

 相手は静かに応じる。それ以上何も語ることはないとでも言うように。

「じゃあ、お願い。よほどのことが無い限りは、何の問題もなくそっちに着くはずだから。せめて足だけは用意しておいて」


 通話を切ると、チューズデイはラウンジルームから客車へと歩き出した。

 時刻は昼すぎ。食堂車ではアフタヌーンティーが振る舞われていた。手前の席では老夫婦が、色の薄い菓子を濃い紅茶で飲み下している。栄養調整のなされた菓子と紅茶だろう。彼らは可も不可もないというような表情を浮かべながら、また菓子へと手を伸ばす。そのようすは滑稽だった。

 ああはなりたくないものだと、チューズデイは思いながら通り過ぎる。だが、彼女にも確かに老いはやってきていた。

 客車に戻ると、ウィルが寝台の上で寝ころんでいた。どうやら眠ってしまったようで、すうすうと寝息を立てている。

 チューズデイは彼を起こさぬよう、二段ベッドの下に腰掛けた。そして持ち込んだバッグの中から救急キット一式を広げた。まだ足は痛んでいたのだ。

 スーツの裾をまくり、さらに靴下を脱ぐ。インナースーツが姿を現した。

 極薄のインナー型筋力増強服(マッスル・スーツ)。それは、かつてDARPAが開発したものであり、昨今では土木・医療・災害、そして戦場でも使われている代物だ。いまどき民生品などは、ウォルマートに行けば買える時代ですらある。しかし、チューズデイのそれは止血機能の搭載されたスマート・スーツ。言うまでもなく、民生品ではなかった。

 スラックスを膝上までまで脱いだら、今度は左腕の操作パネルに触れた。止血モードを解除。右足を脱衣状態へ。人工筋繊維による圧迫が解けると、スーツはぬるりと肌からはずれていった。そして、代わりに赤く染まった肌を露わにさせた。

 アルコールの染みたガーゼで血をふき取る。出血は止まっていたが、このまま放置していればまた傷口が開くだろう。応急処置用の縫合パッチがあるので、それを貼り付ける必要があった。

「……大丈夫なの、それ……」

 血を拭っているチューズデイを、ウィルが見下ろしていた。眠りから覚めたのか、目をこすりながら彼は寝台から顔を伸ばした。

「問題ないわ。弾も貫通しているし。パッチだけ貼って、インナースーツを着ていれば問題ない。あなたには関係のないことだわ、ウィル」

「でも、僕のせいだ」

「いいえ。これは私が引き受けた仕事よ。選択肢が無かったにしろ、なんにしろ。私はシンジケートと――フライデイと決着をつける必要がある。だから、この傷は私の不注意。あなたが心配する必要はない。……まあ、いまのところはね。とりあえず今は休みなさい。お腹は減ってる?」

 ウィルはコクリとうなずく。そのときだけは、無機質な人形ではなく、年相応の少年らしさが垣間見えた。

「わかった。これが終わったら、食堂車に行きましょう」


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