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「追って情報を送る」それだけ言い残して、マギー・ライダーはサンタモニカ・ビーチを出て行った。残されたのは、チューズデイとDの二人きりになった。
とりあえず、二人はクルマに乗り込んだ。Dは助手席に乗り込み、そそくさとシートベルトを締めた。チューズデイはそれを確認すると、アクセルを踏み、発進させた。
――自分の娘。
そんなものが存在するとは、彼女自身まったく知らなかった。いや、どこかでそのようなことが起きているとは、頭の片隅で想像ぐらいはしていたはずだ。しかし、よもやそれが今頃になって、仕事という形で我が身に降りかかってくるとは思わなかった。
『デイ計画』
その忌まわしき名が二十年の歳月を経て、チューズデイの脳裏に蘇った。
二十世紀末、中央情報局と国防高等研究計画局《DARPA》は、極秘裏に人造人間・試験管ベイビーの製造に着手した。その計画は代理母である女性、ブルー・マンデイの名前から『デイ計画』と名付けられ、サンデイ以下フライデイまで五体の実験体が生成された。しかし、そのうち実際に戦場へと送り込まれたのは二名のみ。それがチューズデイであり、そしれフライデイだった。
二十年前、チューズデイは自身の血を分けた存在であるフライデイと、彼が結成した秘密結社、『シンジケート』を追い続けた。そしてとうとうフライデイを追い詰め、彼の殺害に成功した。
しかしそれ以降チューズデイは、シンジケートに関して一切関与していない。それゆえ、シンジケートの残党が何を企んでいるかも知らなかった。
――CIAやシンジケート、フライデイは、ずっと私を監視していた。私の戦闘データぐらいなら、どこかにあってもおかしくはない。シンジケートの残党が、私のデータをもとにフライデイの再来を造ろうとしても、おかしくはない。
そこまで考えたが、考えるほど恐ろしいものだった。かつてCIAが犯した禁忌を、いまやシンジケートが犯し、それをCIAが取り締まろうとしている。笑えない冗談であるし、当事者であるチューズデイからしてみれば、厄介極まりないことだ。
ビーチの駐車場をぐるりと回りながら、車道へ出た。右折するとき、ちらりとDを横目にした。彼は無表情のままフロントウィンドウを見透かし、カリフォルニアの青空を見ていた。
そうして大通りへ出ると、チューズデイは流れに沿ってクルマを進ませた。とりあえず今は、この二人でも安全な寝床を確保するのが先決だ。観光地ではなく、場末の安モーテルなどがちょうどいいだろう。
しばらくクルマを走らせたが、車内はずっと無言だった。やがて沈黙に耐えかねたチューズデイが口を開いた。
「D、とか言ったわね、あなた」
「はい。そういうあなたは、あのルビー・チューズデイですよね」
「大昔の話よ。いまは誰でもないわ。……で、そういうあなたは――いや、あなたたちは、私を殺すように教育された少年兵、ということで合ってるのかしら?」
「僕は違うよ」
「違うって?」
「殺せたのは、彼女……A……いや、アンジーだけだ。それ以外は、みんな仮想空間で教育を受けさせられる。だめなら、殺される。僕は殺される寸前で逃げた。それだけなんだ」
「アンジー?」
言って、チューズデイはカーステレオの電源を入れた。ラジオがFMに選局される。どこの電波を拾ったか知らないが、流れていたのはザ・スミスだった。少なくともサンタモニカの陽気には似合わない曲だ。スピーカーの向こうからはマンチェスターの曇天が透けて見えた。
「マギーの言ってた、あなたの娘だよ。そして、あなたが殺すべき標的……。もちろん“娘”って呼び方は言葉のあやだと思うよ。だってアンジーとあなたは似ても似つかないし」
「そう。じゃあ、D、アンジーとあなたたちのいた施設について教えてくれないかしら。なんでもいいわ」
「うん。……僕らは、森の奥にある研究所にいたんだ。……僕には生まれたときの記憶はなくて、気がつけば実験台になっていたんだけど……とにかく僕らは実験室と、牢屋みたいな部屋を行き来するだけの生活だったんだ。僕らはヘッドギアを着けさせられて、いつもそれでヘンなコトをさせられた。映像が見えるんだ。それから匂いがしたり、体が勝手に動いたりする。……ごめんなさい、記憶が曖昧で……僕は、欠陥品だから」
「いいわ、続けて。あせらずに」
Dは過呼吸になり始めていた。|心的外傷後ストレス障害《PTSD》のようなものだろう。チューズデイは深呼吸をするよう促した。
「えっと、それで……。はじめは、たくさん子供がいたんだ。それで、いろいろな装置を着けさせられた。実験が終わったらご飯を食べて、寝るだけ。兵士が僕らを監視してて、彼らと監視カメラと、それから無人機が常にいた。自由はなかったけど、でも、みんなで励ましあいながら一緒にいた。……だけど、すぐにみんないなくなっていった。みんな、欠陥品だからって処分されてしまったんだ。そうしてそのうち、部屋には僕と彼女しか残らなくなった」
「その彼女というのが――」
「アンジー。僕にはよくわからないけど、アンジーは何度も変な映像を見せられたり、クスリを飲んだり、打ったり、吸ったり。それから銃をもって走り回ったり、ナイフを持って動き回ったりさせられたらしい。そしてそのたびに、赤い髪の女と戦わされたって言ってた。彼女は自慢が好きで、いっつもそうやって僕を笑ってた。次に処分されるのが僕だって、彼女にも僕にも分かってたから。……でも、たしかにアンジーはすごいんだ。彼女は強くて。きっと、その赤い髪の人も倒したはず。しかも、アンジーは何度も脱獄しようとしたりして、研究員の手を焼かせっぱなしだった。……でも、そのうち彼女もおとなしくなって。……それから、僕はマギーに助けられた」
「厄介ね、そのアンジーって娘は。で、その研究所はどこに?」
「オレゴンの森の奥。でも、行っても何もないと思う。マギーがそう言った」
CIAが何もないと言った。
それが指し示すところは、なんとなく察しがつく。おそらく証拠隠滅されたのだ。跡形もなく、すべて無に帰したのだろう。
チューズデイは軽くため息をついてから、それからブレーキを優しく踏んだ。ちょうど赤信号だった。
歩行者が端末に目を落として気だるそうに歩くのを見ながら、彼女はタバコを一本口に運んだ。それからシガーライターを押し当て、火を灯した。
「とりあえず、そのアンジーを追うのはいいとして。まずD、その妙な名前はやめにしない? まさか本名じゃなでしょうね?」
「僕にはこの名前しかないんだ。記憶もないし、研究所のみんなは僕をDって呼んでたから……ヘンかな?」
「ヘンっていうか。そういうアルファベット一文字の名前って、なんだか古い知り合いを思いだしてね。子供にそういう名前をつけるのは、なんだかイヤなのよ」
「古い知り合い? 誰?」
「あなたが知るところじゃないわ。ふるい、ふるい話よ」
煙を吐く。
パワーウィンドウを開け、紫煙を外に。カーステレオの音も同様に漏れた。流れていたのは、まだザ・スミスだった。
「そうね。じゃあ、ウィリアム……ウィルなんてどうかしら。いい名前だと思わない?」
「この曲から取ったの?」
「なんでもいいでしょ。それとも、ウィルにイヤな思いででもあるの?」
「ないよ」
「じゃあ、あなたは今日からウィル・ボンドよ。よろしく、ウィル。私はジェイミー・ボンド」
シフトレバーを掴んでいた手を伸ばし、それを“ウィル”に差し伸べた。ウィルはその手に恐る恐る近づくと、触れるような握手を交わした。
「ジェイミー・ボンドって? チューズデイじゃないの?」
「チューズデイは、コードネームみたいなものよ。私もあなたと一緒で、本当の名前なんてないの。偽りの名前で生きてきたのよ。これまでも、これからも」
信号が青に変わる。横断中の歩行者が焦り気味に駆け抜けていった。
*
夕方にはモーテルに着いた。街道沿いの開けた場所で、いつ襲撃を受けても都市部に逃げ込めるぐらいの距離にある、場末の安モーテルだった。
受付の女は、小太りの黒人だった。彼女は金メッキのネックレスをジャラジャラ言わせながら、チューズデイとウィルの二人に応対した。
「一晩泊まりたいのだけど。いくらかしら」
「一人五十ドルになります。……そちらはお孫さんですか?」
そう言って、受付の女はウィルに笑いかけた。だが、彼は目さえ合わせなかった。
「ええ、そんなところです」
さえぎるようにして、ウィルの合間に割って入る。
そうして宿代を現金で払うと、チューズデイは鍵を受け取り、逃げ帰るように部屋に入っていった。
部屋に入るや、ウィルはすぐに寝てしまった。はたしてマギーとどのような逃避行を繰り広げたのか、それはチューズデイにはわからない。しかしぐっすりと眠る彼の姿から、疲労のほどは見て取れた。
――自分の娘を殺せ。
ウィルの顔を見ると、その言葉が脳裏に浮かぶ。
チューズデイの頭では、ウィルが放った一言が引っかかっていた。それは、「赤い髪の女」という言葉だ。
『赤い髪の女と戦わされた』
たしかにウィルはそう言ったのだ。アンジーと呼ばれる抹殺対象。自分の娘。その娘は、赤い髪の女と戦っていた……。
頭にこびりついた言葉をかきむしるようにして、チューズデイはバスルームへ。洗面台の前に立つと、軽く蛇口をひねった。水が流れ落ち、排水口に飲まれていく。
洗面台上部にある照明のスイッチを入れると、大きめの電球に橙色の光が点った。そしてその光は、鏡の前に老婆の姿を照らし出した。
鏡写しにされた、その顔。
そこに赤い髪の女はいない。いるのは、白髪の目立つ、シワだらけの肌の、青くくすんだ瞳の老婆。かつて、ルビー・チューズデイと呼ばれた女だった。
――赤い髪の女は、おそらくかつての私でしょうね。こうなる前の、私。
ため息を漏らす。目の前に映る自分を見て、彼女はひどく落ち込んだ。
そうして鏡の向こうの自分と対峙しながら、チューズデイは上着のポケットからタバコとライター、そして錠剤の入ったケースを取り出した。まっさきにタバコを一本くわえると、火をつけ、一吸い。深呼吸するように煙を吐くと、彼女はいま一度自分の姿を見つめた。
口端にタバコをくわえたまま、老婆は錠剤を三つ手のひらに並べた。右端から、鎮静剤、精神安定剤、睡眠導入剤だ。この他、常用しているクスリは他にも何種類かある。もはや彼女の肉体は、こうしたクスリに頼らなければならない。そういう段階にまできていた。
チューズデイの肉体には、急速な老化と、それだけではない異常が起きていた。毎日のように見る悪夢。日毎増していく手の震え。動悸……。その原因は老いだけではない。きっとそれは、ルビー・チューズデイという名前を持つ者の運命だろう。兵士として人為的に生み出された生命が、そう長生きするはずがない。むしろ戦場で倒れることなく、こんな歳になってまで生きている方が奇跡なのだ。
チューズデイはそれらのクスリを一気に口に含むと、手のひらに水を注いで飲み下した。そして再び水を手のひらに貯め、彼女は自身の顔を水で洗った。
顔を洗い流し、再び洗面台の鏡に望む。そのときだ。
『あなたにアンジーは殺せないよ』
不意に、背後から声がした。
少年のような声だった。まるで、ウィルのような。
チューズデイはとっさに振り返った。タバコの灰を洗面台に落としながら、煙をまとわせながら。だが、そこには紫煙が漂うばかりで、どこにも少年などいなかった。ウィルは、まだしっかりと寝息を立てていた。
――疲れてるのよ、チューズデイ。
彼女はそう自身に言い聞かせ、再びタバコを吸った。徐々にクスリの効果が全身にまわり始めていた。
*
それは幻聴とともに始まり、やがて燃えさかる炎を描き出した。
『あなたにアンジーは殺せないよ』
変声期前の少年の声がどこからともなくして、大火の訪れを告げる。それは、天使が神の啓示を伝えにきたようでさえあった。
しかし、“女”は天啓を受けても、その場に立ち尽くしたまま。動くことさえできなかった。金縛りにでもあったように、絶対的な死を宣告されたように。
周りには鬱蒼と生い茂る樹林。コンクリートの残骸と、それを覆う苔とツタたち。獣のような植物が、人工物を羽交い締めにしている。ここにいると、呼吸をするたび舌の奥に緑の味がした。
だが、まもなくそれは黒く塗りつぶされた。
深い森の奥。一歩、また一歩と近づいてくる『赤い髪の女』。その女が緑を踏みしめるたび、つま先から火花が散り、次の瞬間には炎となって燃え広がり始めた。炎は緑を焼き、人工物を焼き、空気を焦がし。やがてその炎は、“女”のもとにまで及んだ。
赤い髪の女は、“彼女の目の前まで来て立ち止まる。そして“女”の頬を撫で、不敵な笑みを浮かべた。
そうして“女”は、ようやくそのときになって気がつくのだ。
自分は、もうただの老いぼれだと。死にかけた、壊れかけの、時代遅れだと。
そして、その赤い髪の女こそが――
*
おもちゃのようなアラームが鳴り、チューズデイは目を覚ました。
夢だった。あの赤い髪の女も、燃え盛る廃墟も。あるいは、その直前に聞こえた声さえも、夢だったのかもしれない。
――クスリを飲んだところで、結局この始末か。
心の中で自嘲気味につぶやきながら、チューズデイは身を起こした。
時刻は七時過ぎ。ベッドサイドに備え付けられていた目覚まし時計は、多少の遅れはあれど、どうやらちゃんと機能したようだった。
彼女はシーツの合間から這い出て、まず目覚めの一本、JPSで一服。ロンソンのオイルライターで火をつけると、くわえタバコのまま支度に入った。
替えのワイシャツに着替え、ガンベルトを付ける。キンバーをさげ、その上から上着を羽織った。ちょうど着替え終わると、タバコも先細りしてきた。
サイドテーブルの灰皿に吸い殻を押しつけていると、隣のベッドで寝ていたウィルも目を覚ました。うぅーん、と眠たげな声を上げながら、身をよじらせるウィル。その姿だけ見れば、まだ年相応の子供にしか見えない。
「おはよう。よく眠れたかしら、ウィル」
「おはよう、ミス・ボンド。……でも、その呼ばれ方は慣れないよ」
「これから慣れていくのよ。さあ、早く支度なさい。これから買い物に行くわ。それが終わったら、すぐにオレゴンに向かう」
「オレゴンって……アンジーを探しに行くの?」
「ええ。あなたも聞いてたでしょう、ウィル。私の仕事は、あなたのお友達を殺すことなの」
*
モーテルを出てから、チューズデイとウィルを乗せたアウディRS3は、まずドライブスルーでファストフード店を通過した。
それから二人分は朝食を食べながら、次にセカンドハンズの衣料品店、ホームセンター、スーパーマーケットと回って、必要品を買い込んだ。といっても、その多くはウィルの食料と衣服だった。
そうして一通りの買い物を済ませた後、二人を乗せたアウディは州間高速五号線に入った。ここからオレゴンまでは、IH5をひたすら北上することになる。その間、およそ十二時間前後。
むろん、チューズデイもそのあいだずっとステアリングを握っているわけではない。ハイウェイに入ると、運転は自動運転に切り替えた。
まわりを行く車両もほとんど自動運転だった。対向車線では、運転席のない荷台だけのコンボイが群れをなしていた。
助手席に座るウィルはひどく落ち着いていた。あいかわらず感情は顔には出さず、彼はただ黙々とスナック菓子を食べていた。先ほどチューズデイが彼に買い与えたものだ。チーズ味の、いびつな棒状をしたスナック菓子だ。
「ねえ、ウィル」
と、チューズデイはミラーを注視しながら言った。
「あのマギー・ライダーという女について、教えてもらえないかしら」
「マギーのこと? それは、僕もよく知らない。知ってるのは、CIAだってことくらいだよ。ただマギーには僕が大事らしい。それだけはわかるよ」
「そうでしょうね。彼女にとって、あなたは重要参考人なのだから……」
――そうは言うが。
チューズデイはバックミラーに目をやった。
先ほどからミラーに不審な影が映っていた。後続車はトヨタのミライだったが、それとは違う影がアスファルトにはあった。歪んだ円形の影。それは、偵察用無人機だ。
それがマギーの寄越したものか、あるいはウィルを追っているバイロンの私設部隊のものかはわからない。だが、とにかく注意するに越したことはなかった。
助手席では、そんなことも知らずにスナック菓子を頬張るウィル。
チューズデイは、ひとまずマギーにダイアルした。いまは手がかりがいる。抹殺目標への手がかりが。
二、三度ほどかけて、ようやくマギーは通信に応答した。そのころにはもうとっくにロサンゼルスから出ていた。
自動運転中のアウディのフロントウィンドウにマギーの顔が映し出される。映話が接続されたが、まもなくそれは静止画だけにもどった。古めかしい受話器のマークだけが映る。
「少なくともまだ無事のようですね、ミス・チューズデイ」
「おかげさまでね、マギー。ところで、いま私の後ろをつけてる無人機はあなたの?」
「ええ。一応護衛と思いまして。不服なら今すぐにでも外しますが」
「別にいいわ。そっちが動ける間は、動いていればいい。……それより、あなたの言っていた“私の娘”について今わかっている情報をすべてこっちに送りなさい。私はこれからオレゴンへ向かう。あなたがしくじった場所にね」
「かまいませんが……。もうあそこには何もありませんよ」
マギーがそう言った直後、一連のドキュメントファイルが送信されてきた。アウディの車載AIはそれを受信。フロントウィンドウにそれを並べて表示してみせる。
それはCIAの機密ファイルだった。本来ならばアクセス不可のものだが、マギーの権限で一時的に開示されていた。
ファイルの一枚目は、密林の中にぽつんとたたずむ研究施設の写真。二枚目は衛星写真だった。オレゴン州ジェファソン、その林の中に瓦礫と鉄骨の残骸が見えた。
「一枚目はわたしが潜入する前に撮影されたもの。そして二枚目は、昨日撮影された同じ場所の衛星写真です。ごらんの通り、すでにもぬけの殻です。少なくともここに“アンジー”はいないでしょう」
「だけど、なにか手がかりはあるかもしれない。……ほかに情報は?」
「ウィルから聞いてください。残念ながら、我々にはそれ以上の手がかりはありません。ただ一つわかっているのは、アンジーという名の子供が存在し、それがあなたを殺せるほどの存在だということです。彼らはバイロンはすでに計画を進めているはず。もしかしたら、すでにアンジーをもとに有機無人機の開発が始まっているかもしれない。……そうであれば、それは我が国にとっても脅威になります」
「とは言え、私を殺せるヤツを、私が殺せるとは思えないけどね」
チューズデイは嘲笑し、そして上着のポケットからタバコを取り出した。口にくわえ、シガーライターで火をつける。
「まあいいわ、若者の尻拭いも老いぼれの仕事ってことかしらね。……とりあえず、私とウィルはオレゴンへ向かうわ」
「ウィル?」
「彼の名前よ。Dなんて味気ない名前、可哀想だと思ってね。いい名前でしょ? ……それじゃ、何かわかったら伝えなさい」
通信終了。
チューズデイは一服すると、送信されてきた情報に目を通した。だが、やはりろくなものはなかった。
*
オレゴン州に入ったのは、その日の夕方のこと。そこから研究所までは、さらに北を目指さなければならない。しかも標識も何もない林の中をだ。日が暮れてから立ち入るのは危ないと判断し、チューズデイは一晩またモーテルで過ごすことにした。
そうして翌日、またアウディに乗って、二人はさらに北側。ジェファソン群にある研究所跡を目指した。
研究所跡へ向けてクルマを走らせている間も、その後ろには光学迷彩を展開した無人偵察機がぴったりと付いてきていた。すくなくともマギーの無人機がついてきているということは、ほかに第三者からの妨害は入っていないということ。いまのところウィルを追ってくる者はいない。それについては安心できた。
研究所跡までは、整地された林道をそれ、轍があるだけの獣道に入り、それから悪路をひたすら走らねばならなかった。オフロード車ではないRS3には、いささか苦痛だ。跳ね上がった泥はドアにへばりつき、サスペンションは石ころ一つ一つに悲鳴を上げた。タイヤは時折ぬかるみで空転し、あわやスタックとなるような箇所さえあったほどだった。
そうした悪路を進んで、ようやくたどり着いた場所。
そこは、まさしく廃墟だった。
密林の中、散乱した瓦礫の山。まるで大地から生えたような鉄骨には、まだいくらかのコンクリートがへばりついていた。鉄骨はコンクリの塊に頭をもたげ、変形している。かつてそれは家屋の形をしていたはずなのだろうが、いまや身を寄せ合う木々のようにしか見えなかった。さらに雑草たちはが板張りの床に侵食を始めていて、継ぎ目の間から芽を出そうとしている。人工物は、緑に侵蝕されつつあった。
ウィルとマギーがここを脱出したのが、およそ一週間前。つまり、わずか一週間でこの場所はこんなことになったのだ。誰かが――いや、あるいはあらかじめそう仕組まれていたのか――ここを破壊し、もぬけの殻とし、逃走した……。マギーが「何もない」と言っていた理由が、ようやくチューズデイにもわかった。
それからチューズデイは、クレーターだらけのアスファルトにアウディを駐車し、外へ出た。
キーを片手に車外へ。トランクを開けて、チューズデイはその中からヴィオラケースを引っ張り出した。ヴァイオリンよりも一回り大きい弦楽器がヴィオラであるが、むろんその中身は楽器ではない。錠前を開けると、中には銃火器が鎮座していた。サプレッサー装備のクリス・ヴェクター。彼女はそれを取り出すと、スリングを装着して肩に掛け、折りたたみ式のストックを閉じた。
「ねえ、僕も銃がほしい」
ちょうどクルマから降りてきたウィルがチューズデイを見てそう言った。
しかし彼女はウィルの言葉を無視し、ヴェクターにロングマガジンを装填。撃鉄を起こして、初発を薬室へ。背中側に回した。
「ダメよ。あなたが持っていていいものじゃない。それに、護衛対象が銃を持って出しゃばってもらっちゃ困る」
「護身用だよ。チューズデイ、僕は訓練を受けてるんだ。少しは役に立つ」
「訓練ね。仮想空間で、でしょ。実戦は?」
「それはないけど……。でも、VRではいい成績をとってたんだ。アンジーほどじゃないけどさ……。だけど、だから僕は、最後まで生かされてた。成績の悪い子供たちは、端から消されていったんだ……。ねえ、だから僕でも多少は――」
「じゃあ、これぐらいなら持ってていいわ」
そう言うと、チューズデイはケースの中から拳銃を一つ取り出し、それをウィルに投げて寄越した。
突然のことにウィルも驚いたが、なんとか飛びついてキャッチ。彼が手に取ったのは、ワルサーのPPK/Sだった。
「だめだ。こんなちっちゃい銃じゃ、無人機の装甲は貫けないって。ねえ、じゃあデザートイーグルにしてよ」
「ダメよ。ガキはガキらしく、それでも使っているといいわ。それに、銃の優劣は大きさでは決まるものじゃない。使い手で決まるのよ」
「でも、こんな銃で無人機を倒せるなんて、相当凄腕のヒットマンじゃなきゃ無理だよ。それこそ、あなたみたいな――」
「なら好都合じゃない。ウィル、あなたには私という護衛がいるんだから」
トランクを閉じる。
チューズデイの装備は、肩にかけたヴェクターと、上着の下に隠したキンバー・ロイヤルⅡ。そして腰に差したスタームルガー・MkⅢだ。
「いくわよ。追われる身である以上、焼失したといえど敵の根城には長くはいれないもの」