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翌朝、彼女はロサンゼルスとサンディエゴのちょうどあいだにある安モーテルで目を覚ました。そのモーテルはドライブインで入れるビーチ沿いの場所にあったが、彼女の部屋からでは窓を開けても道路が見えるだけった。
彼女の目を覚まさせたのは、目覚まし時計のアラームでも、モーニングコールでもなかった。悪夢だ。午前五時、彼女は早朝の西海岸で目を覚まし、またすぐにベッドへ戻った。しかし何度寝返りを打っても再び眠りにつくことはできず、結局テレビをつけ、起きることにした。
それがだいたい午前六時ごろのこと。それから彼女は洗面台で顔を洗い流した。目が冴えはじめたら、今度はクローゼット脇にあるキッチンもどきで湯を沸かし、インスタントのコーヒーを作った。ミルクも砂糖も入れず、熱いまま。
目の冴えるようなブラックコーヒーのおかげで、ようやく彼女は覚醒した。テレビの内容も、このころになって頭に入ってくるようになった。どうにも近頃、寝付きも寝起きも悪い。原因は疲労なのか老化なのか、それとも悪夢そのものにあるのか。よくわからないが、とにかく彼女は、その悪夢との付き合い方を模索していた。
――年を取るのはイヤなものね。
そう思いながら、ソファーに腰掛ける。更年期障害かなにか知らないが、ここ最近悪夢を見ることが多い。その種類は様々だが、一つだけ共通していることがある。それは、自分が殺される夢であるということだ。
ひどい夢だ。彼女はそう思いつつ、それきり夢の内容を記憶の彼方に押しやった。そしてその空きスペースへ、代わりに朝のニュースを押し込むことにした。
CNNをつけ、ソファーに横になる。軽くコーヒーをすすりながら、ぼんやりと画面を見た。
「それでは次のニュースです。今朝、ロシアと中国の自律兵器が朝鮮半島北部にて接触。発砲する事態が発生しました。なお、この衝突による人的被害はありません。現地メディアの報道では、誤作動によるものと見ており――」
若い女性キャスターが原稿を読み上げる。
それを見ながら、彼女はサイドテーブルにおいたタバコとライターを手に取った。火をつけて、軽く煙をふかす。そして渋い目でテレビを見やった。
――戦争は変わった。でも、人の本質は何も変わってない。
自嘲気味に思い、またタバコを吸った。
自律兵器の台頭が人を戦場から遠ざけ、戦争は自律兵器同士の見せ物に変わった。北朝鮮で指導者が不審死を遂げてからというものの、アジア諸国ではこの傾向が強い。割譲された領土を巡って、企業が国の代行者として資源争奪戦を行うようになった。そのバックに国家があることは言うまでもないが、誰もその責任を取りたがらなかった。
結局、すべては何も変わってないのだ。兵士として駆り出された人間が機械に代わり。それを指揮する国家が企業に代わった。いつでも切り離すことのできる雇われの戦闘力と、いつでも首のすげ変わる傀儡の権力者。それだけの話だ。地下に眠る利権を求めて人が争い合う。その本質は、何も変わっていない。
かつて“彼女”が第一線で活躍していたときもそうだった。だが、それももう昔の話だった。いまの彼女は、アメリカを流浪する季節労働者のようなもの。ときおり運び屋の名目で殺しを行い、老後の小金を稼いで生計を立てている。いまの彼女には、関係ない話だ。
「では、次のニュースです。今朝未明、カリフォルニア州サンディエゴの住宅街で、死体が発見されました。亡くなっていたのはダビッド・ボルローニ氏と、その妻マイラ・ボルローニ氏。警察は、夫人がミスタ・ボルローニを殺害し、無理心中を図ったとみて捜査を進めています」
そうだ。何も変わりはしない。
吸い終えたタバコを灰皿に押しつけ、“彼女”はクローゼットに向かった。
モーテルを出て、クルマに戻った。携帯端末に仕事の依頼が着てないか問うたが、答えは「ゼロ」だった。
仕方ないから彼女は、モーテル脇のガソリンスタンドで給油してから、あてのないドライブに出ようかと考えた。だが、その前に情報端末が鳴った。
車載システムと同期した端末は、その画面をフロントウィンドウに半透明表示。着信は、見知らぬ番号から。非通知だった。
「相手の番号は」
〈特定不可能。暗号化されています〉
端末の音声案内は、にべもなく応えた。
〈応答しますか?〉
「待て。もう一度かけてきたら、出るわ」
〈かしこまりました〉
合成音声がそう言ってから、まもなく呼び出し音は途絶えた。
アウディのエキゾーストノートだけが静かに響く。そのあいだ、彼女はクルマを出すこともなく、ただじっとモーテルの駐車場に居続けた。
その間、約一分。
そしてもう一度かかってきた。また非通知発信。特定は不可能だ。
四回コール音がしたところで、彼女は応答のボタンを押した。まもなくホワイトノイズの混じった声が聞こえてきた。いや、違う。これは自動車の走行音。そして風鳴りの音は、対向車の音だ。相手はクルマに乗って移動している。
「……もしもし」
相手側が言った。ボイスチェンジャーに歪められた、低い声だった。男とも女ともわからない。
「もしもし、聞こえてるか?」
「……ええ。どちらさまでしょうか」
彼女は落ち着いた様子で応えた。その返答に、相手は少しためらいの様子を見せていた。しばらくの無言。
「……悪魔。ハリー・ライダー。こちらはジェイミー・ボンド……いや、ルビー・チューズデイの電話で間違いないか?」
「……間違い電話じゃないかしら。私にライダーなんて知り合いはいないわ。悪魔と友達になった覚えもない。それに私はジェイミーでもルビーでもない」
“女”は一瞬ためらってから、そう答えた。
「おかしいな。もう一度聞こう、ミス・チューズデイ。こちらはハリー・ライダー。そしてあなたはミス・ルビー・チューズデイ」
「違うと言ってるのだけど。……じゃあ、仮にそうだとして。何の用件かしら」
「決まっているだろう、ミス・チューズデイ……この番号が運び屋の番号で間違いないな?」
「そうだとしたら?」
「頼みたいことがある。旧友からの頼みだ。……あるモノを送り届けてほしい」
「どこから?」
「カリフォルニア。ロスから」
「どこまで? そのモノっていうのは何かしら?」
「それは会って話したい。……いま、カリフォルニアにいるんだろ?」
「だとしたら?」
「十三時にサンタモニカ・ビーチの駐車場で会えないか」
その問いかけに、彼女は一瞬だけためらった。
正体不明の女運び屋。老齢の彼女は、いままでずっと自分を偽ってきた。そしていまや、偽り続けた過去の自分すらも偽っている。そんな彼女の偽りの過去を語ってくる……そんんな相手と遭遇するのは初めてだったのだ。だから彼女は、防衛本能が高ぶっていた。この相手には、何かがあると。
だが、悩んだ末に彼女は答えた。
「……わかった。かまわないわ」
「じゃあ、十三時に」
通話はそこで切れた。
妙な胸騒ぎがして、彼女は通話が切れたあともしばらくクルマが出せないでいた。ハリー・ライダーを名乗る謎の人物。すべてを見透かしたような口ぶり。そのすべてが、彼女の神経を逆撫でしていた。
――悪魔そのコードネームを持つ男を、私は知っている。なぜなら二十年以上前に、私自身がその男を殺したからだ。
*
サンタモニカ・ビーチは、西海岸特有の浮ついた熱気に包まれていた。夜は電飾でケバケバしい正面ゲートも、いまは昼の陽光に照らされておずおずとしている。
“女”は愛車である黒のアウディを駐車場につけた。周りはほとんどハッチバックやミニバン、ピックアップトラックばかりだった。トラックの荷台にはジェットスキーが載せられたりしており、いかにもサンタモニカらしい光景である。そんななかで、スモークグラスをした漆黒のアウディは、異端だった。
十三時。彼女は途中で立ち寄ったドライブスルーのサンドイッチを食べ終え、クルマのなかで待っていた。
彼女は、左腕にルミノックスのスマート・アーミーウォッチを付けていた。タッチパネル式で、端末部のみを取り外して運用も可能な携帯情報端末である。そしてそのデジタル表記の分針が十三時三分過ぎを示したとき、ようやく依頼人から接触があった。
まず第一の接触は、電話だった。また非通知の、逆探知不能のものだ。スマートウォッチがそれを受信。車内のスピーカー・マイクと同期して、応答した。
〈サンタモニカには着いたか?〉
「ええ。さすがに陽射しが強いわね」
〈車種を教えろ。こちらから接触する〉
「黒のアウディRS3。ビーチには不似合いなクルマだから、すぐ見つかるんじゃないかしら」
〈わかった。通話はこのままにしろ〉
無音。そしてホワイトノイズ。通話は継続する。
しばらくして、駐車スペースを探すように一台のキャンピングカーがやってきた。いまだにガソリン車に乗っている彼女に言えたことではないが、それでも古風な見た目のキャンピングカーだった。しかしそれは外側だけのアンティーク調のようなもので、内側がどうなっているかは知れたものではない。おそらく中身は電気自動車で、自動運転補助付きだろう。
まもなくそのキャンピングカーは、彼女のアウディに対するようにしてバックで停車した。
「そこのキャンピングカーがあなた?」
〈そうだ。クルマから降りろ〉
「商談の相手には紳士的に振る舞うものよ。といっても悪魔に紳士らしさを求めるのは筋違いな気がするけれど。……少なくとも旧友に対する態度ではないわね」
〈いいから、降りるんだ〉
「わかったわ。切るわね」
通信終了。
彼女は運転席を降りる。黒のスーツ姿のまま。アヴィエーターサングラスは、この陽射しではちょうど良かった。しかしジャケットやコートは、熱すぎるといったところか。
そうして“女”は一歩、踏み出した。肩から吊るしたキンバー・ロイヤルⅡを気にしていた。
まもなく、キャンピングカーから一人の女が出てきた。そう、女だった。肩ほどの黒髪に、小麦色の日に焼けた肌。エキゾチックな黒く長いまつげに、大きな瞳。その姿は、“女”が知る悪魔ではなかった。
“彼女”が知るサタン――ハリー・ライダーとは、すくなくとも女ではなかった。いま目の前にいるような、黒髪のラテン系の女では。彼は元CIAの資産であり、二十年前、まだアメリカが対テロの戦いを続けていたころに死んだ人間だ。それも、“彼女”が直々に手を下した。CIAを裏切った違反者として、秘密裏に消したのだ。
そう、そのはずだった。“彼女”は雇われの殺し屋で、サタンという男は口封じのために殺された。そういう仕事だったのだ。だから、サタンが生きているはずがないし、よもやラテン系の若い女であるはずもないのだ。
“彼女”はサングラスの下から、その女を凝視した。カリフォルニアの陽射しに似合う焼けた肌。ジーンズに白のTシャツをあわせ、そのうえにスカイブルーのシャツを羽織っている。そしてそのシャツの下には、ショルダーホルスターに挿したグロックが見え隠れしていた。
「父の遺言は正しかったのかしら」と、キャンピングカーから降りてきた女は言った。「あなたが伝説の殺し屋。かつて世界を敵に回したCIAの伝説的な女スパイ、ジェイミー・ボンド……いや、ルビー・チューズデイ……それで間違いない?」
「何の話かしら」
サングラスを上にあげ、“女”は応えた。
「とぼけても無駄。わたしはここ数日間、ずっとあなたを探していた。チューズデイだという噂の殺し屋に片っ端から連絡をしてまわった。だけど、どいつもこいつもその名前に乗っかって一仕事できないかって考えてるバカばっかり。……でも、あなたは違った。その証拠にサタンという名前が出たとき、あなたの口ぶりには微妙な変化があった。……あなたは二十年前、CIAが計画したテロ組織ASISへの潜入作戦に参加。潜入中に失踪した元CIA工作員、コードネーム・サタンことハリー・ライダーを殺害し、彼の任務を継続。世界を核戦争の脅威から救った……そうですよね?」
「……何の話か、と聞いているの」
「ビジネスの話ですよ。ミス・ボンド。いや、オールド・ミス。はじめまして、わたしはマギー。マーガレット・ライダー。かつてあなたが殺害した工作員の娘で、いまはその父と同じCIAです。そして、今回の依頼人でもあります」
ハリー・ライダーの娘。かつて自分が抹殺した男の娘を名乗る女。
しかしマギーは、チューズデイに対し、復讐心らしきものを抱いているようには見えなかった。彼女はひどく落ち着いていて、表情には余裕の色が見えた。ビーチに遊びに来た小麦肌の娘たちと並べても遜色ないぐらいに。
「……依頼、ね。へえ、自分の親の仇に?」
「ええ。親の仇に、です。ですが、この仕事はあなたにしか任せられないんです。あなたのようなオールド・タイプにしか。……ああ、ちなみに余計な気は起こさないほうがいいですよ。あなたの注意は今、ホルスターに差した四十五口径に向かっているみたいですが。抜かないほうが賢明です」
まるであたまの中を読まれたようだった。
そのとおりだったのだ。チューズデイは、この状況に武力で打って出ることを一瞬だけ考えていた。肩から吊るしたキンバー・ロイヤルⅡを引き抜くか、否か。
これまでチューズデイは、自分が“伝説の殺し屋”であることは一切秘密にして生きてきた。それはCIAを抜けた身として、当然のことだった。彼女を追ってくる人間、彼女の首をほしがる人間は、二〇年以上経った今でもいくらでもいる。だから、この二〇年ずっと姿を消し続けてきた。なのに、目の前の女は、すでに正体を看破していたのだ。だから彼女を消すか、あるいは取引に出るか。その二択しかないと考えていた。
しかし、どうやらその二択は、一択にまで絞られたようだった。
「あなたから見て二時の方向、それから五時、九時。光学迷彩を展開中の無人機が待機しています。一機は多脚装甲戦闘車で、あとはホバリング中の自律戦闘機ですね。それから、いまわたしの頭上にも偵察機が展開しています。各機のメイン・コンピュータは、オンライン上でわたしの脳と直結。いつでも攻撃が可能です」
言って、マーガレットは自らのこめかみをトントンと叩いた。
「チップがわたしの脳波を読みとり、攻撃指令を受ければ、直ちにドローンに組み込まれたAIが戦闘開始と判断。目標であるあなたを殺しにかかる。わたしは『やめ』と命じる、その瞬間まで」
「こんな白昼堂々殺しができると?」
「ええ。ハミングバードには、消音自動小銃が装備されています。発砲許可が下りれば、音もなく、あなたは死ぬ」
「……なるほど。つまり、私には『イエス』しか選択肢がないわけか」
チューズデイは毒づいた。
たしかに、彼女の言うとおりの方角に影があった。二時、虚空を飛ぶ影がサーフトラックのボンネットに落とされている。光学迷彩といえども、自分の影まで消せるわけではない。さすがにサンディエゴの日差しにはかなわないようだ。
五時の方角は、隣に駐車しているオープンカーのサイドミラーで確認した。ビルの屋上にそれらしき影が見えた。多脚戦車だ。その相貌は完全には見えないが、おそらく狙撃用の砲塔が装備され、命令のときを今か今かと待っているはずだった。
「そういうことです。……とりあえず、立ち話もなんですから。クルマに乗りませんか?」
キャンピングカーの内部は、簡易の前線基地になっていた。本来ならばお玉や包丁を掛けておくだろうラックには、銃とナイフの類が懸架してあった。
唯一キャンピングカーらしかったのは、キッチンがあることぐらいだった。といっても、調理台にはコーヒーメーカーが置かれていただけで、料理された形跡はなかった。ブリトーの包み紙なら落ちていたが。
「座ってください。コーヒーぐらいなら出します」
そう言って、マギーはキッチンカウンターへ。コーヒーメーカーからぬるいブラックコーヒーを注いだ。
チューズデイは、手近にあったソファーに腰を下ろした。狭い車内では、三人も座ればいっぱいっぱいというようだ。ふつうのキャンピングカーならもう少し広々とするだろうが、このクルマは違う。人の代わりに、銃火器が乗車している。
「コーヒー、ブラックでいいですか?」
「かまわない」
短く答えるチューズデイに、マギーはコーヒーをよこす。
ぬるいコーヒーは、うまくもないが、まずくもない。一口飲んでから、チューズデイは口を離した。
「それで、あなたは本当にハリー・ライダーの娘なわけ?」
「そうじゃなかったらミス・チューズデイ、わたしにはあなたの居所はおろか、存在すらつかめなかったはずです。……あなたのことや、父の死因については、母から聞きました。そしてわたしがCIAに入局したとき、、母はわたしにこれをくれたんです」
言って、マギーはTシャツの襟から手を突っ込み、ネックレスを見せた。ドッグタグでもさげるようなチェーンにつなげられた先。マギーの胸元に輝いていたのは、エンゲージリングだった。黄金色に輝くそれは、経年劣化によりくすんでいた。いや、それだけではない。指輪の裏を見れば、何か文字が刻んであった。「二人の愛は永遠に」とおきまりの文句のその隣に。
『マギーへ。困ったらルビー・チューズデイを捜せ』
釘かなにか、鋭利な金属で引っ掻いたような文字だった。
チューズデイは思わず苦笑してしまった。
ハリー・ライダーの遺体は、死後、遺族のもとには届けられなかった。彼が高度に政治性を有する事件の、その一端を担っていたからだ。だから彼の遺体は、CIAが処理したか。あるいはまだ中東の砂漠のなかだろう。
だが、彼の婚約指輪だけはチューズデイが持ち帰り、妻のもとにまで届けたのだ。よもやそこにこんなメッセージがあったとは、チューズデイも二十年間気づいていなかったが。
「わたしはこのメッセージとCIAに残された僅かな情報をもとに、あなたを探しました。そしてようやく見つけた」
「なるほど。……あなたがハリー・ライダーの娘、マーガレット・ライダーだとは認めるわ。じゃあ、次の質問に移りましょうか。……タバコは吸っても?」
マギーは小さくうなずく。
会釈を返してから、チューズデイは上着のポケットからJPSを一箱取り出し、火をつけた。そしてひと吸いしてから、言った。
「単刀直入に聞くわ。あなたの依頼は? 私はいまも変わらず殺しの請負人よ。私に依頼するってことは、殺しを頼むってことよ。……誰を殺してほしいわけ?」
「では、こちらも単刀直入にお返ししましょう。ルビー・チューズデイ、わたしがあなたに殺してほしいのは、あなたの娘です」
何の冗談か、とチューズデイは思った。
娘など、そんなものは自分にはいない。そんなもの、初めから作れるカラダで生まれていないのだ。自分は子孫を残す宿命にはない、そういう運命を生きてきたし、これからもそのつもりだった。孤独なまま、血塗られた生涯を終えるつもりでいた。
ルビー・チューズデイ。それはどの組織にも帰属しない、カネで雇われる最強の殺し屋――そのパブリック・ドメイン。そして、血塗られた歴史の下に生まれた汚名でもあった。それは“彼女”自身が一番よく知っていた。そんな女が、娘などというものを持つはずがない。産んだ覚えも、孕まされた覚えすらもない。
だが、目の前の女は確かに言ったのだ。あなたの娘、と。
「それはどういうことかしら。私の娘というのは」
「それは順を追って説明します。ですが、そのまえに……D、こっちへ来なさい」
とたん、マギーは大声を上げ、そのDなる人物を呼んだ。
しかし、車内には人の気配はない。チューズデイとて、老いぼれたが殺し屋だ。殺気であるとか、人の気配であるとかは、おおよそ知覚することができる。しかし、このときばかりはまったく何も感じなかった。
かと思えば、車内の奥、仮眠室のようになった場所から、一人の子供が姿を現した。カラダの小さい子供だったからか、布団をかぶればすっかり姿も見えなかった。
チューズデイは自身の老いを覚えたが、だがそれ以上に子供の容姿に驚いた。
長く伸びた黒髪。いっさいの乱れない、水のせせらぎのような長髪。そして白くふっくらとした肌に、アイスブルーの瞳。背丈は五フィートもない。大きめの白のブラウスにハーフパンツというちぐはぐな格好だったが、それでも人形のような美しさを持っていた。言うなれば、人ならざるものの気配があったのだ。
「紹介します、彼はDと言います」
「彼?」
「ええ。生物学上は男です。ただ、逃亡の身にあるので。身元を隠すためにもこういう格好をさせています」
紹介を受け、Dと呼ばれた少年は小さく頭を下げる。彼の一挙一動には、どこか自信のなさが表れていた。
チューズデイはしばらくDの姿を見た。身元を偽るためとはいえ、妙に似合う女装だ。まるでグラムロッカーのような妖艶さすらある。切れ長の目と長い黒髪は、どこかアジア的だ。しかし一方で、白くほっそりとした鼻筋が西洋人的に美しく映えている。それで彼と言われれば、困ることは必至だろう。
「なるほどね」とチューズデイつぶやく。「イギリスの古い習わしにそういうのがあったわね。子供を魔から守るために、女の子のように着飾って育てるという風習が。知ってる? 幼いころのチャーチルってけっこう可愛いのよ」
「そういうことだと思ってくれてかまいません。……ともかく、Dは狙われています」
「どうして?」
「わたしが脱獄させたからです」
「どこから?」
「……バイロン・エンジニアリング。Dは、そこで監禁されていた、いわば実験動物なんです」
「ご存知のことでしょうが、バイロン社は、有機無人機を始めとする兵器産業で近年急成長を遂げた総合軍事企業です。軍産複合体たる我が国の、一側面といえます。そしてそのバイロン社の事業は、傭兵事業から無人機の開発・運用。兵士の訓練プログラムや、VRを用いた即席訓練プログラムの開発・実子など多岐に渡ります。
とくに昨今では、有機無人機をはじめとする動物の死骸を再利用した兵器の製造、また肉体を合成した兵器の製造が盛んなのは、あなたもご存じでしょう。近年は世論の非難を受けつつありますが、しかし戦場での需要は止まりません。とりわけ有機無人機開発の草分け的存在であるバイロン社は、現在、一小国レベルの軍事力を保有するようになっています。その軍事力は、本来ならば企業を御するはずの合衆国政府が恐れるほどです。
なぜ一介の軍事企業ごときが、それほどの力を有するほどになったか。ミス・チューズデイ、あなたならおわかりですよね? あなたは、まさしくそれを止めるために戦っていたのだから」
「……組織、か」
その言葉にマギーは深くうなずいた。
「その通りです。バイロン社の元となったのは、かつてシンジケートと呼ばれていた秘密結社。ミス・チューズデイ、あなたが追っていた組織です。そしてその正体は、あなたと血を分けた姉弟でした。……むろんシンジケートについては、表向きにも、またCIA局内でもトップシークレットとされている情報です。そこでCIAは極秘の調査部門を設立。表向きは大統領府命令ですが、独断での活動が可能な調査部門を設け、任務を開始しました。それこそがわたしの使命。バイロン社への脅威査定」
「なるほど。暴走する軍事企業の弱みを探して牽制してこい、ということかしら」
「そういうことです。命令を受け、わたしはバイロン社に潜入、調査を敢行しました。結論から言って、わたしは任務に失敗したのですが。唯一の収穫は、彼、Dです。彼のおかげで、バイロン社の企みの一端が見えました」
「その企みというのは?」
チューズデイは言って、少年の顔を見た。
気だるそうに、眠そうに目元をこする長髪の少年。彼はそれから、小さく口を開いた。
「……僕は、実証実験用のモルモットなんだ」
「実証実験用……? 人体実験でもしていたというの?」
チューズデイの問いかけに、少年は首を横に振った。
話が込み合ってきた。
チューズデイは求めるようにタバコを吸い、頭をもたげる。
「どういうことかしら。バイロンという会社がシンジケートの残党だとして、彼らは何を企んでいるの? その少年は何者?」
「わかりません」と、マギー。「Dについては、あくまでもバイロンが実験用に保有していた少年ということしかわかっていません。ですが、ただ一つだけわかったことがあります」
「それは?」
「バイロンは子供たちを集めて、洗脳と仮想現実による戦闘訓練を行っていたということです。そして、その仮想訓練における殺害目標としてミス・チューズデイ、あなたを設定していたということです。それはDの証言からハッキリしました。バイロンは、伝説の殺し屋を殺せる最強の兵士を育成、量産しようとしている……そう考えられます。違法に子供たちを集めるか、あるいは製造して、洗脳実験を行っている……あなたを殺せるような子供を作り上げるために。そして彼らは、その製造に成功したのです。Aと呼ばれる少女が、その成功体。極秘裏にシンジケートが生み出した、あなたを殺すことさえもできる、人造の兵士……。調査の結果わかったのは、それだけです」
「なるほど。そこで私の娘ということね」
「そういうことです。あなたへの依頼は、まずDを守ること。そして次に、そのバイロン社が生み出した実験動物を――あなたの娘を殺すことです。その少女、Aについて詳しい情報は手に入れられていません。現状、手がかりはDの存在だけ。……ですがあなたには、その少女を排除してもらいたい」
「そういうことね。……で、CIAはどうするつもり。子供殺しの罪を老婆に押しつけて、何をしたいわけ?」
「我々はDから得た情報をもとに、バイロンに揺さぶりをかけるつもりです。すでにDの体内からサンプルをいくつかは採取しました。あとはそのデータを解析し、公表するだけなんですが……。
ですが、それ以前にDやわたしが消される可能性がある。そしてこの任務自体が、バイロンとCIAの裏取引によって消される可能性があります。そうなれば、わたしはこれ以上の任務続行が不可能となります。……唯一、いつでも切り捨てられる傭兵に頼めば、そうはならずに済みますが」
その言葉を聞き、チューズデイは鼻で嗤った。鼻から紫煙を漏らして、彼女は携帯灰皿に吸い殻を押しやった。
「相変わらずCIAは人使いが荒いわね。つまり、政治的な問題で手のつけられない問題を、傭兵に任せて片付けようというわけか。……いいの? その私を殺せるって娘、合衆国政府の資産にはならないわけ?」
「わかりません。しかし、バイロンの無人機が合衆国以外の戦地で闇取引されていることは間違いありません。ならば、あなたを殺せるという少女――その人型をした有機無人機も量産され、ルビー・チューズデイ、あなたに関するデータや、そしてシンジケート自体の復活にも繋がりかねません。当局はあらゆる危機を考慮しています。しかし、バイロン社は何度となく軍部と裏取引を交わし、そのたびに全てを帳消しにしてきました。今回は、そうさせるわけにはいきません。
そこでミス・チューズデイ、あなたに依頼したいのです。Dの保護と、Dの証言をもとにあなたの娘――Aを排除すること。ひいては、シンジケートの残党を撲滅すること。それが我々からあなたへの依頼です」
「なるほど、実にわがままなご注文。でも、確かに私にしかできないという理由はわかった」
そういって、チューズデイは二本目のタバコに火をつけた。Dがイヤそうな顔をして煙を避けたが、彼女は気にしなかった。
「選択肢が無いことは、さっきのやりとりでハッキリしてるわね。これだけ機密情報をベラベラ喋ったのよ。ここで私がイエスと答えなければ、あなたの部下が私の脳天をぶち抜く。でしょ?」
マギーは応えない。黙って、まばたきもせずにいる。
しかたなく、チューズデイは重いため息をついた。
「わかったら。……で、報酬は?」
「あなたの現役時代、CIAが支払っていた額と同じだけの金額を支払うつもりです」
「なるほど……。いいわ。その仕事、受けるわ」