A-part : Angie
本作はルビー・チューズデイシリーズ三部作の続編となります。まずそちらを読んでからお読みになることをおすすめします。
檻の中から手を伸ばして、少年は外へ近づこうとしていた。まだ短く、生白い腕をぐっと伸ばして、彼は通路へ向けて手をかざす。
――ここから出られたら……いや、少しでもいいから外に近づけたらいいのに。
彼が手をかざすのは、ひとえにそれが理由だった。
檻の中に閉じこめられてから、もうどれぐらいが経ったことか。彼にはよくわからない。
この空間には時計もなければ、窓もない。だから時間は、体内時計で推測するしかない。もちろんそんなものが正確であるはずがないし。もっと言えば、少年にはこの檻の中での記憶しかなくて、病院で母の手に抱かれたりとか、ベッドに寝かしつけられた記憶もない。生まれたこととか、育てられた記憶なんて一切ない。あるのは、この檻の記憶だけ。この無味乾燥とした屋内の記憶だけ。だから彼には、いったいどれだけの時間が経ったのかわからなかった。自分がどの瞬間からここにいて、いつまでここにいるのか……。
やがて鉄格子の向こう、通路に男が二人組でやってきた。濃紺の野戦服に、目出し帽。ヘルメットにゴーグルを被り、その顔は見分けられない。だが、彼らの手に携えたブッシュマスターACRが、傭兵であることを示していた。
「おい、その手を出すのをやめろ。おとなしくしてろ、ガキ」
ゴーグルの下、二人の傭兵の視線が少年に向いたのを見て、彼は手を引っ込めた。
少年は仕方なく鉄格子の中に戻った。そしてうなだれるようにして、檻の中のベッドに倒れ込んだ。固いマットレスと、ゆがんだ骨組み。少年は鉄骨が背骨に当たるのを覚えながら、寝返りを打った。
そうして寝返りを打った先に、もうひとりの子供――この檻の最後の同居人がいた。少年の寝転ぶ二段ベッドに並行するようにして置かれたシングルベッド。そのうえに座る一人の少女。赤毛の、青い瞳をした少女だった。
「また怒られたわね、D。そんなことするからよ」
彼女は少年に向けて、いたずらな笑みを浮かべた。
ベッドから浮いた両足をバタバタと動かして、彼女は赤毛を揺らす。そばかすの残る白い肌と、冷め切ったアイスブルーの瞳。少女は流し目で、Dと呼ばれた少年を見つめていた。しかしその目には、同調の色も、反対の色もなかった。彼女はからっぽな目をしていた。
「……アンジー、僕は外に出たいんだよ。ここにいたって、僕は殺されるのを待つだけなんだ……君と違って」
「あらあら。もしかしてそれは、あの女の影響?」
「マギーのこと? 関係ないよ。結果は見えてる。……そうやって、今までだったみんないなくなった。テッドも、ミリーも、マックスも、みんなだ。君以外の、みんな」
「そうね。みんなふぬけで、使えなかったもの。……まあ、せいぜいがんばればいいじゃない? でも、仮にあなたがここを出れたとしても、バイロンの傭兵はアンタを追ってくるわ。……D、それはアンタが一番よく知ってるはず。どうせ逃げ出せないわ。いざとなったらバイロンはアタシを駆り出し、アンタを見つけだす。そして、ここに連れ戻す」
「そして、殺す」
少年――“D”はつぶやき、深いため息をもらした。
これまでも、ずっとそうだった。
鉄格子とコンクリートに覆われた大部屋。まるで素泊まりのユースホステルのようなそこには、かつて少年と少女以外にも住人がいた。
初めは数えただけでも二桁の少年少女がいた。だが、彼らは日を経るごとに消えていった。日に日に訓練と教育を受けるたび、誰かが博士に呼び出されて、そして翌日にはいなくなっていた。そうして気づけば、二人きりになっていた。
呼び出された子供がどこへいったか。それはDにはわからない。ただ残された子供たちのあいだでは、消されたのだとまことしやかに囁かれるようになっていた。
Dはそれが怖かった。
赤毛の少女と、D。二人でどちらが先に殺されるか。それはもう彼には分かり切ったことだった。最後のネズミの話だ。ネズミを閉鎖空間に放ち、餌も何も与えない。まもなく彼らは同胞を傷つけあい、共食いを始める。そうして最後に生き残ったネズミこそが、もっとも強いネズミである。そして、それは少なくともDではない……。
〈通達。被験体Aを実験室B330に移送せよ。繰り返す、被験体Aを――〉
部屋の天井、壁にめり込んだスピーカーが叫んだ。
「呼ばれたわ」
赤毛の少女が立ち上がる。
だけど、Dにはわかっていた。これは、彼女を消すための呼び出しではない。むしろ、その逆であると。
まもなくして、通路にいた歩哨二人がやってきた。彼らが鉄格子の電子錠に手をかざすと、ロックを解除。扉は音を立てて開いた。
一人の歩哨は鉄格子に背を向け警戒を続け、もう一人が檻の中に手を伸ばす。むろん、その手が呼んでいるのはDではなく少女のほうだった。
そして少女は手を取ろうとした。
だが、その次の瞬間だった。
パスンッ、と静かな音。それは、減音器によって減衰させられた銃声だった。
その鎮められた銃声は、事が起こったことすら考えさせなかった。その些細な物音に気づいたとき、歩哨の一人はすでに血を流し、倒れていた。
倒れたことに、もう一人の歩哨が気づく。だが、それももう遅い。もう一度物音がして、血が流れた。脳天から一閃、赤い軌跡が描かれる。あっという間に歩哨二人が倒れ伏せった。
Dは、何が起きているかわからなかった。目の前で、傭兵が殺された。誰が殺したのだ? 何が起きているのだ?
パニックに陥るDをよそに、赤毛の少女は冷静だった。
「動き出したみたいね、あの女。CIAも気を急いてるみたい」
「どういうこと。なにが――」
Dが言い掛けたとき、死体をかき分けて一人の女性が現れた。
パンツスタイルのダークスーツに、その手にはサプレッサーを搭載した四十五口径。浅黒い肌をした黒髪の若い女。それが、あの女――マギーだった。
「迎えにきたわ、D。それからA、あなたも。予定より早いけど、ここから脱出します」
女は手を伸ばす。その先は、今度は赤毛の少女ではなく、Dに向けられていた。
Dは一瞬ためらってから、その手を取った。鉄格子の外へ、外の世界に手を伸ばすみたいに。
だが、赤毛の彼女――Aは違った。
「アタシは残るわ。カンパニーに使われるのはイヤだもの。そんなことしたら、それこそオリジナルと同じことになっちゃう」
「ダメよ。あなたはわたしとついてくるの」スーツ姿の女は言った。「でなければ、ここであなたを殺さなくちゃいけない。たとえ死体であったとしても、あなたを確保する必要が、我々にはある。……わかるでしょ」
「それはカンパニーの都合でしょ。アタシには関係ない」
「じゃあ、残念だけどここで死んでもらうわ」
そう言うと、女は左手にDを抱え、右手に構えた銃を少女に向けた。
照門は少女の顔を挟み、照星はその白い顔をかき消す。サプレッサーの先端は、少女の青い瞳に吸い込まれた。
だが、少女は笑っていた。不敵に口元をほころばせ、青い三白眼で女をにらみつけた。そばかすの目立つ頬には笑窪がぽっかりと開いている。その笑みは、まるで死を受け入れるような。あるいは、自分が殺されないことを確信しているようだった。
そして、それは実際に合っていたのだ。
「いたぞ! こっちだ!」
銃声と怒号。
女の頭上を、五・五六ミリがかすめた。もう余裕はない。
「クソッ。いまは逃げるしか……!」
女は舌打ちし、少年を抱え上げる。予定は狂ったが、もう脱出するしかない。
彼女は最後まで赤毛の少女に銃を向け続けたが、とうとうトリガーを引くことはできなかった。もう逃げるしか無かったのだ。
赤毛の少女は嗤い、そして黒髪の女は苦渋の判断を下した。もう、ここを脱出するしかない。
数分後、マギーとDを乗せたレンジローバーが林の中から飛び出した。だが、まだ二人は逃走に成功したわけではなかった。
泥をかき上げ、車体を前後左右に揺らし、草木をかき分けながら獣道を猛進するレンジローバー。その後方から、四台のジープが追いかけてきていた。ジープの車内には、武装した傭兵たちが分乗している。彼らの目的は言うまでもなく、マギーとDの確保、あるいは殺害だった。
先頭を行くグレーのレンジローバー。運転手であるマギーは、バックミラーを何度となく見ながらも、速度をゆるめずに林の中を突き進み続けた。彼女には――いや、彼女たちには、もはや戻る術はなかったのだ。マギーに残された決断はふたつ。ここで捕まって、消されるか。それとも少年とともに脱出するかだ。
マギーの黒い瞳は、バックミラーから助手席に移された。一瞬、彼女は助手席に座る少年に一瞥をくれ、それからまたフロントウィンドウに目を戻した。
いま、レンジローバーの助手席には髪の長い少年が座っている。肩より長い黒髪に、少女のように生白い肌。しかし彼のその容貌には、温室育ちというよりも、実験動物というような印象を受けた。その原因は、彼が着ている緑色の患者衣にあるのだが。しかし、実験動物というイメージは正しかった。
少年はまばたきもせず、またマギーに目を向けることもなく、ただじっと前を見つめていた。
「D、この林で追っ手をまいたら、あなたをしかるべき場所に移送させる。バイロンが証拠をもみ消す前に。いいわね?」
マギーは暴れるステアリングを腕力でねじ伏せながら言った。
Dと呼ばれた助手席の少年。彼は小さくうなずき、それから蚊の鳴くような声で「わかった」と答えた。
「じゃあ、それまでは我慢してね……クソッ!」
発砲音。
バックミラーに移るジープのうち、接近してきた二台から傭兵が車外に身を乗り出した。一両に付き二人ずつ。計四人。彼らはその手に自動小銃を備えていた。
――バイロン社の私設部隊。闇の火消し屋か……。
マギーは内心で毒づきながら、アクセルペダルにかける力を強める。だが、もう限界だ。
銃撃にリアウィンドウが破壊された。飛散したガラスの一部が、その衝撃で運転席まで転がってきた。
「D、頭を低く! 隠れて!」
言って、マギーはステアリングを大きく右へ切った。
レンジローバーを蛇行運転させつつ、マギーは左手で自身のこめかみに触れた。そこには皮下に増設されたニューロ・ジャックがあり、現在そこにはヘッドセットのようなものが挿し込まれていた。
それは、無人機との交信ユニットだった。彼女の部下にあたる――人間ではないが――機体と相互通信を行い、また脳波コントロールによる指令も可能なコントロール・ユニット。彼女はそれに神経を集中させると、無言のうちにドローンと通信した。
《こちらマギー。〈トータス〉、いまどこにいる? 合流まであとどれぐらい?》
《もうまもなく。予想到着時間、あと三秒。攻撃目標は確認済み。射撃許可を》
《許可する。以後、各機射撃自由。目標を攪乱した後、光学迷彩を展開。安全が確認できしだい、再度合流する。いいわね》
《イエス、マム》
その直後だ。
先刻、銃撃を敢行してきた二台のジープ。それが急加速をはじめ、マギーたちに急接近したのだ。
だが、それもつかの間だった。
加速の途中、再装填を終えた射手が再びジープから顔をだし、発砲を開始した。だが、その銃撃はすべてレンジローバーにまで届かなかった。放たれた銃弾は、どれも中空で止まったのだ。
それからまもなく、接近していたジープ二台も同じ箇所でなにかに衝突して停止。後続していた二台も玉突き事故を起こしてひっくり返り、停止した。
一瞬の事故だった。そして、その事故を起こした正体は雷光をまとわせながらゆっくりと姿を現した。
電磁迷彩によって姿を消していた四つ足の多脚戦車。都市迷彩に塗装されたボディに、カニのような多脚。そして中央に配置された五五口径一二〇ミリ電磁加速砲。その砲塔は、いま体勢を立て直そうとするジープに向けられていた。
あとは一瞬だった。
電磁加速砲の甲高いチャージ音。その直後に発射された砲弾。着弾するや、それは地面に大穴を穿ち、ジープははるか後方へと吹き飛ばした。
――これで追っ手はまいたわね。
その一部始終をバックミラー越しに見ていたマギーは、ほっと息をついた。
彼女はバックミラーからトータス多脚無人戦車が消えていくのを見ながら、クルマを進ませた。いまはとにかく逃げなければならなかった。
助手席をちらりと見る。そこにいるのは少女のように美しい少年。これだけの戦闘があっても、眉一つ動かさず、平然としている。いや、というよりも彼は何も感じていないようだった。感情を失い、何にも心動かされることなくなったように。しかし、たしかに少年の心には茨があり、また陰があるのだ。
マギーは、彼――Dを守りきらなければならない。だが、自分一人には無理だとマギーにはわかっていた。Dの出自を知ってしまった今、そしてバイロン社の機密の一端に触れてしまった今、もはやこの一件は、マギー一人でどうにかできる問題ではなくなってしまった。あるいは、CIAにすら手に負えないものに。
レンジローバーはようやく林を抜け、獣道を脱した。林道に入ると、さすがにいくらか一般車両も見えてきた。キャンプの帰りか何かだろう、ワンボックスカーに乗った家族連れが走り抜けていく。
ようやくマギーは一息つくことができた。クルマも速度を落とし、法定速度内に。
それから山道を下って、広い幹線道路に出た。ここまでくれば傭兵も追ってこないだろう。操縦を自動巡航モードに変更。ステアリングから手を離す。
すると、マギーは首からさげているネックレスに触れた。
彼女は普段から認識票とは別にネックレスを身につけている。もっとも、それもドッグタグのようなチェーンに指輪を通しただけのものなのだが。しかし、彼女は肌身離さず身につけていた。
彼女はその指輪に触れると、その内側に刻まれた文字に目を落とした。
――やっぱり、こうなった以上、彼女を捜し出すしかないのね。……オリジナルを見つけだすしか。
指輪を握りしめながら、マギーは心のなかで小さくつぶやく。
指輪の裏には、釘か何かで削ったような文字でこう記されていた。
〈マギーへ。ルビー・チューズデイを探せ。〉
その晩、マギーは幹線道路脇の駐車場にクルマを停めた。それから二人はレンジローバーから降りたのだが、再び乗り込むことはなかった。レンジローバーはそこに捨て、新しくクルマを乗り換えたのだ。それもすべて追っ手をまくためだった。
二人が次に乗り込んだのは、同じ駐車場に停められていた古式のキャンピングカーだった。マギーは電子錠を解錠すると、早々に出発した。
そのキャンピングカーは、おそらくつい先ほどまで使っていたところなのだろう。車内のカセットコンロや蛇口には使用した痕跡があり、シンクにはコーヒー渋の着いたマグカップまでもが残されていた。
マギーはそれらをそのまま置いて、クルマを出した。ハイウェイに戻り、ひたすら遠くを目指した。
クルマはハイウェイを巡航モードで走った。アクセルを踏んだまま、人気のない夜の高速道路を進む。
そんななか、マギーはいったんステアリングから手を離し、左のこめかみに触れた。皮下のジャックに差し込まれた通信端末。彼女は円形をしたそれに触れると、手前へ向けてワン・クリック回転。カチリ、と音がしたところで止めた。通信相手を部下から上司に変更したのだった。
発信後、何度かコール音がして、接続した。脳裏に声が響く。
《わたしです、〈ビルフィッシュ〉。目標を一名確保。作戦地域から脱出しました》
《確認している。しかし、予定時刻から大きくズレこんだな》
――梶木鮪。
マギーがそう呼んだ相手は、ひどくノイズのかかった声をしていた。どうにも男の声らしいが、人為的に歪ませられている。
《はい。バイロンの傭兵に感づかれまして。……目標を一名取り逃がしました。おそらく、そちらのほうが件の《《コピー》》かと。確保に成功したのは、その仮定で作られた実験体だと思われます》
マギーは後部座席を見やった。
Dは疲れて、ソファーで寝ていた。リビングルームのように広がる空間に、合皮張りのソファー。彼はそこに横たわり、すうすうと寝息を立てていた。
《無力化には?》
《残念ながら、失敗しました。確保できたのは、実験体だけです。……それで、バイロンのほうの出方はどうでしょうか》
《まだ何とも言えんが、もう時間はないと見ていいだろう。やつらも火消しに必死なはずだ。すでに国防総省と電話会談を行ったという話もある。……マギー、君は俺の部下として独自の行動が認められているが、しかし表向きにはCIAの取り決めには従わなければならない。バイロンが取引に出れば、すぐにこの任務は破棄されるだろう。……そうなれば、やつらを野に放つことになる》
《わかっています。……ビルフィッシュ、だからわたしは、この件を外部に委託しようと思っているんです。それで、ルビー・チューズデイを見つけ出そうかと》
《正気か?》
《はい。外部の傭兵へ極秘に委託すれば、表向きにはわたしたちがやったことにはならない……。それはビルフィッシュ、あなたが過去数十年やってきたことのはずです》
《そうだな。……だが彼女は、二十年前に失踪したぞ》
《ええ。でも、CIAは――いえ、あなたたちは、それでも彼女を追っていたはずです。情報も残っていますよね?》
マギーの言葉に、ビルフィッシュはうめきのようなため息を漏らした。それから、静かに応えた。
《……わかったよ。こちらで把握している情報のすべてを君に送る。だがマギー、君はこの件のすべてを外部に委託しだい、すぐにラングレーに戻るんだ。いいな? それと、この件は他言無用だ。あらゆるデータは削除しろ》
《了解しました。……では、そのとおりに》
通信切断。
脳裏から消えたビルフィッシュの声に、マギーは少しだけ安堵していた。と同時、不安を覚えていた。
この件は、やはりあの女に依頼するしかない。だが……。