表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

犯人はあいつだ証拠を探せ「赤と青」多々良刑事が動く

作者: カミング浅田

役場の用務員水桶善太郎は軽トラで書類を隣町まで届けることも用務の一つ。毎日定期的に決まった時刻に配達する。その道中に峠のカーブのところに工事現場がありそこには工事用信号機が据え付けられている。ある日その峠のカーブで対向車と正面衝突事故を起こして死亡する。警察は用務員の水桶善太郎の不注意による事故死として処理をしたが・・・。


  1 


 十月の(あお)い空はどこまでも澄んでいた。

 カラスが一羽(いちわ)間の抜けた鳴き声を上げて西の方角へ飛んでいく。

 水桶善太郎(みずおけぜんたろう)は五十五歳。辺鄙なまちの市職員だった。

 

 四方を高い山々に囲まれた寒村。乗り合いバスも一日に二回しか通らない。そんな片田舎の村出張所に勤めていた。

 村の中を流れる小さな川の土手には彼岸花が咲き乱れていた。花びらは赤い絵の具をまき散らしたようだ。土手一面が赤く燃え上がっている。

 

 

 水桶善太郎は隣の町役場との連絡係も兼務していた。もう退職前だったが小さな村のことでもありいろいろな仕事を任される。

 雑用の中でも毎日やらなければならないのが文書を配達する仕事だ。

 毎日二回、午前十時と午後四時には必ず本庁役場に書類を届けねばならない。本庁までは曲がりくねった道路を片道約十キロもある。往復二十キロ。へんぴな村なので町へ出るには時間がかかる。だから村の出張所にとっては善太郎の使丁(してい)(使い走り)としての往復の仕事は貴重だった。郵便配達に以上の値打ちがあった。

 

 この配達の時刻は午前十時と午後四時と決められている。役所の報告や伺い書、提出文書はこの時間帯がベストだからだ。この定時の往復を善太郎は合併以来もう十年もやっていた。

 

 善太郎の趣味は柄にも似合わず「音録(おとどり)」だ。小鳥のさえずりや小川のせせらぎ。そんなのを録音しては楽しんでいた。録音が最高の楽しみだった。同僚たちとの何気ない雑談や会話、宴会のにぎやかな会話、そんなものまでとって楽しんでいた。人の会話の録音も楽しくて仕方ない。

 

 けれど、ほんとうは善太郎が一番心が和むのは自然の音だ。野山に出なくても自分の家の前で雀やトンビやカラスが鳴く。そんなものが好きだ。

 秋の夜にはなんといっても虫の声。秋の深夜には家の前で虫たちが大合唱をしている。つい何気なく胸のポケットレコーダーのスイッチを入れてしまう。それをあとでうちに持って帰って自慢の高性能アンプと巨大スピーカーで再生する。大自然の息使いが居ながらにして楽しめる。

 

 善太郎は気弱な性格も災いして結婚相手もいなかった。

 けれども半年ほど前にそれでもやっと結婚した。相手は、二十五歳のフィリピン人だった。名前はアニーと言った。

 一昨年から、隣町にあるフィリピンパブに通い詰めて金を貢ぎ、ありとあらゆる手で口説き落とした。その末の結婚であった。周囲は驚いた。おおかた金目当てに女は善太郎のところに嫁に来たんだろうと噂しているのも善太郎はよく知っている。

     2       


  ある日の午後だった。タクシーが村役場の玄関に横付けされた。タクシーから降りてきたのは色黒で恰幅の良い中年の男だった。目付きはやや鋭く一見ヤクザ風でもある。この男は時々村役場にもやって来た。強面(こわおもて)の特徴のある顔つきなので善太郎は嫌でも顔を覚えていた。

 

 善太郎はその客にお茶を運んだあと、外で庭木のせん(てい)を始めることにした。日向で作業をしていると秋とはいえ汗ばんでくる。ひとしきり作業を終えるとぼつぼつ四時近くになっている。 本庁へ書類を届ける時刻だ。せん定の道具を片付け始めた。

 

 そこへ所長と男とが笑いながら玄関を出てきた。

 「あ、水桶君、悪いが、君が四時に本庁市役所へ行くときにこのお客さんをそこまで一緒に送って行ってもらえないか」

 所長は善太郎に言った。

 「この方は金村建設の総務部長の山盛(やまもり)さんだ」

 所長はそう言うと改めて男を紹介した。

 

 「はあ、わかりました。どうぞ乗ってください」

 善太郎はぺこりとお辞儀をした。

 役場にはマフラーから猛烈な黒煙を吐き出すボロの軽トラックがあった。唯一の公用車としてあてがわれている。アクセルを踏めばワンクッションおいて思い出したようにスピードが急に出る。かと思うと減速の時にはブレーキはあまり効かない。結構危なっかしい車だが、善太郎はもう慣れている。

 

 本庁市役所へ行くまでには二つの峠を越えなければならない。一つめの峠の中腹で道路工事をしている。昨年の台風で道路が崩れた。そこは大曲(おおまがり)の急カーブと呼ばれている場所だが、それ以来ずっとその箇所が片側通行になっていた。の工事は金村建設が請け負っている。その件もあって時々この男、山盛という男は村役場にも顔を出しているのだろう、善太郎はそう思った。

 

 工事区間の両端には旧式の赤と青の工事用信号が取り付けられていた。工事の信号というものは待つのが長く感じられるものだ。規則では待ち時間を表示することになっているらしいが、この田舎の事だ、車も少ないせいかそんな表示も無い。

 

 「どうぞ」

 善太郎は軽トラックの助手席を開けた。

 山盛は善太郎の顔をじっと値踏みするようにながめていた。眉をぴくりと動かして何か複雑な表情を見せた。そのあと遠慮無くものも言わずに車に乗り込んだ。乗り込んだ後はむすっとして黙って腕を組んだままだ。

 

 善太郎は、だんだん気詰まりしてきた。ぶすっとして嫌な感じの男だなと思った。居心地の悪い雰囲気を振り払うように善太郎は男にいろいろと話しかけた。

 

 「今日は十月の十一日ですね・・・」とか「去年の台風もちょうど十月の十何日だったか、この頃だったですかな」だの「あの台風にゃ参ったです」だの、とりとめの無い事を話しかけていた。気まずく黙っているのが嫌だった。

 相手は、「うん」、「そうだな」などと気の乗らない相槌(あいづち)を打つだけだった。 

 

 大曲のカーブに差し掛かった。向こうから定期バスがやってきた。いつもここでこうしてこの時刻に必ず出会う。バスはといえばこれも小型の旧式のマイクロバス。乗客はほとんどいない。マフラーからディーゼルの黒い煙を吐きながらそれでもけっこうなスピードで走っている。運転手とは顔なじみになっている。ずれ違いざまバスの運転手は笑いながらププッと合図を鳴らして通り過ぎた。善太郎も同じようにクラクションを鳴らした。

 

 善太郎は山盛という男の気まずい雰囲気を振り払おうとしゃべり続けていた。


 「あのバスとはいつもこのカーブでこの同じ時間に出会うんですよ。不思議なことにこの場所でね、でもよく考えてみたら向こうもこっちも同じ時刻に出発する定期便みたいなもんですからねえ・・・」

 無愛想なこの男は相変わらず腕を組んだまま黙っている。

 

 やがて工事信号は青に変わった。夕陽に信号がまぶしく反射して見にくかった。青になったことを確かめると善太郎はアクセルをふかした。駄々っ子が泣き叫ぶような音を上げて軽トラックは発進した。

車が段々畑に差し掛かった。

 

 その時に山盛という男はそれを見て始めて口を開いた。

 向こうの段々畑に目をやると、丘一面に彼岸花が咲き乱れていた。

 「おお、彼岸花が綺麗だな。すごいね。君、こないだ来た時はこんなじゃなかったのに。見事なもんだな・・・」

 山盛は軽トラの窓ガラスを開けて外を見入っている。善太郎は山盛がやっと口を開いたので少しほっとするような気持ちになった。

 

 「ええ彼岸花、綺麗でしょう。この辺りは彼岸花だけはたくさん咲くんですよ。でもねえ、山盛さんにはあれはきっと綺麗な花なんでしょうが、実はね・・・」


  3


 山盛を町まで送って行ったあと、村役場に戻るといつものようにもう退出時刻だった。西の山が真っ赤に焼けていた。

 家に帰ると例のごとくフィリピン妻のアニーが化粧台に向かっている。

 アニーは六時に出て行った。

 「今日はチョト遅くなるヨ」

 そう言って香水の匂いをまき散らしながら出て行った。

 

 遅くなるのはいつもの事だ。アニーは帰って来るのはたいてい朝方。外泊もしょっちゅうだ。

 結婚して半年経つがそんな調子だから夫婦の関係もろくすっぽ持っていない。ただ、アニーがほしいものは何でも買ってやっている。その時だけは「アリガト」と義理半分のキスをしてくれる。すぐにもとの黙阿弥(もくあみ)。またいつもの素っ気ない態度にもどる。だから善太郎はもうアニーとの夜の生活はあきらめていた。アニーは自分の稼ぐ安月給が目当てで結婚したのだという察しは善太郎にもついていた。

 

 適当に晩飯をすませると善太郎は猫の額ほどの自分の庭に出た。

 満天の空には星が輝いていた。庭のあちこちで虫が鳴いている。虫の音色は実にいいものだ。

 小さな高性能ICレコーダーと集音マイクを庭の垣根の中にセットした。これを再生するとけっこう緻密(ちみつ)に良い音がとれている。後で聞くのが楽しみだった。

 善太郎はセットを終えて家の中に入ると畳の上にごろりと横になった。

 ・・・・今日もまた一日が平穏に過ぎたな・・有り難い。有り難い・・・

 口の中で年寄りの念仏のような独り言を唱えるといつしかその場所に眠りこんでしまっていた。


    4

 

 その翌日、水桶善太郎は死んだ。

 隣町へ行く峠の道路工事現場で交通事故を起こした。場所は大曲の急カーブ。工事用信号機を少し過ぎたあたりだった。定期マイクロバスとの正面衝突事故だった。

 善太郎の軽トラックは無惨にもぺちゃんこに大破した。

 運転していた水桶善太郎は即死だった。相手方のバスの運転手は足首を骨折した。バスには町の病院に通っている老婆が一人だけ乗客として乗っていた。衝突の瞬間に座席から転げ落ちたが幸い怪我は無かった。

 

 近くには何人かの土木作業員が作業していた。凄まじい衝突音がしたと思って振り向いたらすでに軽トラックがバスの前部にめり込んでいたと言う。また、その内の一人は軽トラックもバスもどちらも減速せずにカーブの中に突っ込んで来たと言っている。

 

 市警察が綿密な現場検証を行ったことは言うまでもない。

 バスの運転手はもとより目撃者の作業員、バスの乗客だった老婆等への聴取を行った。

 どちらの車にもブレーキ痕は無い。双方いずれかの信号無視が原因だった。工事信号の故障が真っ先に考えられたが検証の結果それはなかった。信号は正常に作動していた。

 

 バスの運転手は言った。

 「私は、信号が青になるのを確認してから進みました。これは間違いありません」

 病室でギブスに固定された片足を投げ出したままバスの運転手は何度もそう言った。

 「確かに信号は青でしただよ。わたしゃ一番前の席に座ってたからちゃんと見てましただ」

 乗客の老婆もそう言った。その証言からもバスは青信号になってから進入したのは間違いなかった。信号を無視したのは公用車の軽トラックの方であることは事実のようだった。なぜ軽トラが信号を無視して進入したかという疑問は残るが、検証の結果からは事件の要素は全く得られなかった。

 

 当局の結論は交通事故による死亡ということで処理された。原因は、K市役所○○出張所の用務員使丁、水桶善太郎が赤信号にもかかわらず進入したためと記された。

 翌日の新聞の片隅にこの件は交通事故として小さく載った。


 5


 市の警察生活安全課の警部補、多々良一郎(たたらいちろう)は伸び放題に伸びた天然パーマの髪の毛を掻きむしった。いい加減に散髪しろと署長からは叱られているが面倒くさくて床屋にも行っていない。不潔にしているつもりはないがイライラすると頭が痒くなる。目尻の辺りに難しい皺を寄せた

 痩せこけた両方の頬、青白い細面(ほそおもて)の顔の中央に妙にエキゾチックな高い鼻が乗っている。

 大きな二重のドングリ(まなこ)が今日はやけにぎらついている。

 

 机の上に置かれた番茶をずるりと(すす)ると、目の前にいる半田太郎(はんだたろう)に話しかけた。

 半田は後輩の巡査部長だ。

 「どうにもわけがわからんよな。あの衝突事故」

 「またこだわりの多々良さんの悪いクセですか。何でも事件にしたがるんだから」

 半田は揶揄(やゆ)するように多々良の(しわ)くちゃの顔をちらりと見た。

 「赤信号で入るなんてのは自殺行為だからな。特に一方通行の工事信号なんかはなあ。これどう考えても不自然なんだよ」

 「あまり考えすぎない方がいいですよ、先輩」

 半田は机の上の書類に目を落としながら気乗りしない口調で言った。多々良は、小さく舌打ちするとその太い眉を手の平でごしごしこすった。興奮すると毛虫のようなその眉毛までもが痒くなってくる。 

 

 多々良はこの事故の件が心に引っかかっていた。市職員の善太郎という被害者は慣れているはずのあの道をなぜその日に限って赤信号で進入したのか。しかも、善太郎は運転免許照会の結果十年間無事故無違反の優良ドライバーだった。信号無視はどうも納得できない。

 検証の時にその事を口が酸っぱくなるほど署長にも言ったが結局取り上げてもらえなかった。

 

 多々良は、非番の日を選んで単独で調べることにした。この件には何か割り切れないものがある。そう思い出すとそれが気になって仕方がなかった。


  6


 多々良は役場の出張所の所長を訪ねた。善太郎の個人的な情報を掴みたかった。役場は古い木造で昔のままのがらんどうだが、職員を一人失った建物はいよいよ閑散としていた。

 

 「水桶善太郎さんはいつも精勤に毎日この十年間、確実に書類を配達してくれてましたよ。こんな事故を起こすなんてわたしには信じられません」

 所長は遠くを見るような目でそう言った。

 多々良は頷きながら、

 「彼は交通ルールなどは必ず守るタイプ人でしたかね」

 所長は大きく頷きながら、

 「ええ、もちろんです。神経質なぐらい実直で真面目な男でね、彼は時間をきちんと守ることと交通ルールを守る事では村でも定評がありました」

 「ほほう・・・。では最近彼は何か悩んでいるとか、そんな事はありませんでしたかな」

 やや上目遣いに多々良は訊いた。

 「そんな素振りを見せたことはありません。日々是好日こうしていつも仕事をさせてもらえることは有り難いと口癖のように言ってましたからね。有り難いという言葉が彼の口癖でした」

 多々良はなるほどと頷いた。

 

 善太郎は今年の春に若いフィリピン人と結婚している。事故調査の時に他の署員がその事は把握し多々良も報告は受けていた。担当者もそのフィリピン妻からも事情は当然聞いている。だが特に不審な点は無かったという報告だった。

 だが、若いフィリピン妻。というのが多々良にはぷんぷんとにおう。

 

 妻との年齢差がありすぎる。不自然な事はそれが何であれ多々良には頭の隅に引っかかるのだ。

 

 この妻には不審な点は無かったという報告だったが、ひょっとすると実はおそらく多額の保険金でもかけていたのではないか。

 この事は調べればすぐにわかるだろう。


  亭主に保険金をかけて殺害する事件は古今東西掃いて捨てるほどある。しかも女の犯罪の陰には必ず男がいるから不思議なものだ。

 「若い外国人と結婚していたそうですが、何かトラブルがあったような事は聞いてませんか」

 「いえ、そんなことは聞いてませんね。やっと結婚できて幸せだ、みたいなことを言ってましたからね」

 「なるほど」

 

相手が誰であれ新婚ほやほやだ。傍目(はため)にはいわば人生の一番楽しい時ではないか。

 そんな新婚さんが自殺をはかるわけがない。それに仮に自殺でも図ろうとしたのならば首を吊るなり他の確実な方法があるはずだ。今回の事故は少なくとも自殺などではない。

 また善太郎が覚醒剤などのヤクをやっていたような気配もない。

「若いフィリピン妻か・・・」

 多々良は頭をボリボリと掻いた。とにかく保険金のことを調べてみよう。

 多々良は車のイグニッションキーをゆっくりと回した。


    7


 日本人と結婚したとなれば妻には国籍の問題が出てくる。おそらく妻は国籍は取得していないだろう。なぜなら日本では取得するにはそのハードルが高いからだ。仮に日本国籍を取得していても夫が死ねばその資格を失う。資格を失えば日本にずっと滞在することは難しい。保険金は手に入るだろうが妻はフィリピンに帰らざるを得なくなる。これを逆手にとれば、合法的に保険金を手にして自分の生まれたフィリピンへ堂々と帰ることができるが。こんな都合の良い話は無い。


 保険会社を訪ねると担当者が出てきた。保険会社といってもこんな田舎では地元JA農協だ。

 ところが多々良の予想もしない返答だった。

 

 「水桶善太郎さんの場合は生命保険には加入されていません」

 「何ですと!入っていない?それは本当ですかな」

 多々良はまじまじと相手の顔を見た。

 「ええ。間違いありません・・・。ただ、自動車の任意保険には入ってますね。まあこれはたいてい車を運転する方は誰でも入りますから」

 「ふうむ・・・。車の任意保険ねえ」

 

 多々良は腕を組んだ。

 「ところで」

  多々良は得意の上目使いでじろりとその担当者を見つめた。

 「赤信号進入は当然道路交通法違反です。本人の自殺行為に等しいわけだが、あなたの会社ではその場合でも車の保険の補償金は出したわけですかね」

 

 担当者は唇をぴくりと動かした。

 「そこなんですが、うちの場合は契約内容が何種類かありましてね、いわゆる死因が不自然な場合は全く出ないものや、本人の何らかの過失があっても容認範囲内であれば何割かを出すというもの、あるいは交通違反による死亡の場合でも違反が悪質故意でない場合は出すとか、いろいろあります」

 「なるほど」

 

 「交通事故の場合は、保険契約に従ってすべて規定に基づいています。水桶善太郎さんの場合は警察の判断では信号無視。けれども保険金が支払われました」

 「ほほう」

 多々良は声を上げた。


   8


多々良が聞き込んだ中で判明したことはだいたい次の通りだった。

 

 水桶善太郎は任意保険と自賠責保険に加入していた。自賠責は車両取得の時には強制的に誰もが加入しなければならない。だがこれはあくまでも対人保険だ。この件ではバスの運転手の骨折補償対人で支払われたが、水桶自身には支払われない。


 ところが、多々良が注目したのは水桶善太郎は自損事故保険にも入っていたということだった。これは本人の過失の有無にかかわらず保険金が支払われる。本人死亡の場合は最大千五百万円が無条件で支払われる契約だ。過失の有無にかかわらず無条件でという所がミソだ。水桶善太郎の場合はこれに該当した。当然のことながら受け取り人は妻のアニーだった。

 

 「これだ」

 多々良の頭の中でピンという音が響いた。

 それにだいいち水桶死亡のあとのこの保険金の受け取り請求はいったい誰がしたのか。日本語もたどたどしいアニー自身がそんな小難しい手続きができるだろうか。その疑問が湧いた。 だがそれもすぐに判明した。代理人がいた。

 その代理人の名前は、山盛和夫という男だと判明した。金村建設総務部長。四十六歳。

 

  9


 「ラシャイマセエ」

 店に入ると例によって口々にラシャイマセが飛んでくる。多々良と半田は肩をそびやかすようにして奥の席についた。客として入ったが警察官だということはばれてもいい。そんな事はいずれすぐにわかるだろう。マネージャーに直接聞き込むという手もあるがまともに訊いてもしゃべってくれるはずも無い。

 

 席に付くとすぐに女が寄ってきた。半田はすかさず両手で二人の女の肩を抱きかかえると鼻の下を伸ばし始めた。

 多々良はビールを注文した。一息でコップに注がれたビールを飲み干すとエイミーと名乗る女が来た。エイミーは多々良の肩にしなだれかかると手を股ぐらに回してきた。

 

 多々良は水を向けた。

 「この店にアニーていうこがいるだろ。アニーは結婚してるだろう?ちょっときいてみるんだが結婚する前に好きな人はいたのかい」

 「ふーん。わからない」

 エイミーはわざとらしく首を傾げた。

 「アニーのところへよく来る客は? 」

 エイミーはしばらく考えていた。多々良の目をじっと見つめると

 「何でそんなコトきくの? 」と言った。

 「アニーを守るためだ。大丈夫だ。心配ない」

 多々良は財布から一万円札を取り出すとエイミーに渡した。


 エイミーはふうとため息をつくと、

 「ヤマちゃんよ」

 「ホントの名前は知らないけど、ヤマちゃん」と、おびえるような表情でそう答えた。

 それからエイミーは幸いにもぺらぺらとアニーと「ヤマちゃん」の関係をしゃべってくれた。


 ヤマちゃんこと山盛和夫というのはアニーが結婚するまでからしょっちゅう店に出入りしていたという。アニーのパトロンであることもわかった。

 「ありがとう」

 そう言うとエイミーはにこっと笑った。エイミーはコップにビールをなみなみと注いでくれた。  多々良は、また息もつがずに一気にそれを飲み干した。


10


 翌日、署に出勤すると半田がにたにたしながら「夕べはどうも」と頭を下げた。あれから結局三軒はしごをしたのだった。ちょっとまだアルコールが残っている。だがそれはお互いに言わない。警察官の酒気帯び運転はかっこうの新聞ダネになる。通勤時の事故が一番危ない。そういう場合は表沙汰にならないようにもみ消しを図るのがこの業界の常だ。

 

 多々良は今日は山盛和夫の土建現場と金村建設を当たろうと考えている。あの現場をもう一度当たり、最終的にはどうしても山盛本人に当たる必要がある。だが、そのためには正規の捜査任務として許可を取る必要があった。多々良は迷った。許可を取らずにこのまましばらく単独で捜査する方法もあるがそれはいつまでも続かない。


 この件は間違いなく殺人事件だ。その確信はある。それは多々良の刑事としての勘でもあり、すでにその動機となる背後関係が十分整っていたことがわかったのだ。犯人もほぼわかっている。

 犯人達は自ら手を下さずに水桶善太郎をして赤信号の中を進入させる何かの手段を用いた。それが何かは今はわからないが何か巧妙な手段を用いたのかもしれない。

 そのトリックは必ず暴いてみせる。

 

 多々良は目の前の半田に話しかけた。

 「この前の工事信号の事故だけどサ、ありゃ巧妙な殺人だよ」

 半田は、またかという顔をして多々良を見た。

 「俺あ、今からその件で署長に掛け合ってくるよ」

 多々良は拳を握りしめると、決心したように席を立った。半田はあきれたようにぽかんと口を開け首を振った。

 

 多々良の足は署長室に向かっていた。ドアを勢いよくノックすると中へ入っていった。

 それから約三十分後に多々良は署長室から出てきた。顔面が紅潮している。

 「どうでしたか、先輩」

 半田は心配顔をして多々良を覗き込んだ。

 多々良は難しい顔をしている。

 

 「県警本部にお伺いを立てるとよ。だが、それまで待っていられない。内々で出直し捜査をさせてくれと頼んだよ。押し問答をした」

 「で、オーケーでしたか」

 多々良はじろりと半田を見ると小さく頷いた。

 事故として報告済みだ。一旦事故としたものを覆して捜査のやり直しをするなどはよほどの証拠がそろわない限り難しい。署長はくどいほどそれを繰り返した。


 それを粘りに粘った。多々良は最終的には県警には内緒で市警察としてでなく、安全課担当部内だけの再捜査許可を取り付けたというわけだ。もちろん極秘であり失敗すれば署長もろとも処分を喰らう。

 「もしこれが事件として立件できなければおそらくオレは飛ばされるだろうよ。ヘマをしたらクビ、よくても服務規定違反で厳重処分だ。そうならないようにする。半田、お前も手伝え」

 有無を言わさぬものがその口調にはあった。半田はこっくりと頷いた。

 

 多々良は半田を自分のボロ車に乗せて事故の起きた工事現場に向かった。車の中でこの件について多々良が知りうる限りの情報を半田に与えた。

 犯人はすでにわかっている。

 問題は、その立件だ。立件には証拠がいる。

 

 保険金目当ての計画的殺人だと大手を振ったものの、この場合は動機はあっても凶器となるものが存在しない。またフィリピン妻にも山盛も現場にはいない。それぞれちゃんとしたアリバイがあるのだ。

 

 「なぜ、水桶善太郎は赤信号で突入したかですよね」

 車の中で半田は首をひねりながらその言葉を繰り返した。

 「それに赤信号で突入してバスと遭遇(そうぐう)しても必ずしも死ぬとは限らない。定期バスとは間違いなく時間的に遭遇している事実はあるが、衝突して死ぬかどうかは非常に不確定要素がある」

 ハンドルを握りながら多々良は付け加えた。


11  犯人はわかっている


 犯人はわかっている。あの男とあの女だ。だがじゅうぶんな動機はあっても犯行の証拠も凶器も存在しない。しかも、都合の悪いことにその二人にはアリバイだけはきちんとある。

 

 工事現場に着くと現場監督が出てきた。

 「この間の事故の件でもう一度現場を見せて欲しいんですが」

 警察手帳を見せながら多々良は言った。若い現場監督は快く応じた。


 「ここは大曲カーブと呼ばれていて普段でもよく事故が起きる所です。向こうから来る車が見えません。カーブの角度はおよそ百度ぐらいです。傾斜もきつく下りになっているためスピードも出ます。直角カーブなら双方が気を付けて減速するんでしょうがこれぐらいのカーブが一番油断するんですよね」

 現場監督は爽やかな調子で協力的によくしゃべった。

 

 半田はあちこちに移動しながら現場の写真をしきりに撮っている。

 「信号から信号までの距離は?」

 「だいたい三百メートルです。道が片側崩落したため二年越しの思わぬ長期の工事となって迷惑をかけてます」

 「この前の調査では信号は故障していないという事だが、それは間違いありませんかね」

 「ええ。それは絶対に間違いありません。なぜかというと、事故の日にちょうど新品の信号機に取り替えたところだったですから、これは確実に正常に作動してました」

 監督は誇らしげに新品の信号機を触りながら答えた。

 

 多々良は、おやと思った。新しい信号機に取り替えたという話は初めて聞く話だ。


 「ほほう。どうして事故の当日に新しい信号機と取り替えたんですか」

 「あ、それはですね、実はそれまであった信号はそれこそ少し老朽化していて、接続部が腐食してたんですよ。取替を要する状態だったんです。そんなんじゃいつ信号が消えてしまうかわからないですからね、急に信号が駄目になったんじゃそれこそ危ない。それで会社の上役には取り替えてくれってずっと要望してたんですよ。なかなか会社の事務所の方はカネが無いとか言って一向に取り替えてくれなかったけどね。やっとこの間取り替えてくれたって事ですよ」

 

 多々良と半田は目を見合わせた。

 「事故の当日って、何時頃に取り替えたんだ?」

 「えーと、昼休みに取り替えました」


 要するに、以前から何度も老朽化した信号機の取替を頼んでいたがなかなか本社の方は取り替えてくれなかった。

 ところが、どういう風の吹き回しか、本社から急に信号機を取り替えるとの連絡があったという。そこでこれは幸いとばかりに喜んで新しい信号機を本社へ受け取りに行ったという。それが事故当日の昼休みだったというのだ。

 

 「で、その古いほうの信号機は今、どこにありますかな」

 「ああ、あれはもう会社の倉庫に突っ込んであると思いますよ。まだ廃棄処分してなければね」

 「それは会社に行けばわかりますかね。見せていただきたいのだが」

 「本社の事務所に聞いてもらったらわかります。何なら連絡してみましょう」

 人の良さそうな笑顔を見せながら現場監督は携帯電話で事務所に問い合わせてくれた。

 「まだ会社の倉庫に入れてあるそうです。来ていただいたらわかるとの事です」

 二人は現場監督に礼を言うと会社に向かった。


 「今まで本社は信号機の取替をしぶってたのに、なぜ急に取り替える事になったんですかねえ。妙な事ですね」

 車の中で半田がポツリと言った。多々良はタバコに火をつけた。

 「臭いな。事故当日にわざわざ取り替えた。不自然だ」

 単なる偶然で取り替えたのかあるいは恣意的(しいてき)にか。いずれにしても取り替えたその日に事故は起きていることは事実だった。


   12


 金村建設に向かった。受付で案内を請うとすぐに係員が飛んで出てきた。総務部長の山盛和夫に会うのはもう少し後でいい。周辺状況をある程度調べてからでないとはぐらかされる恐れがある。それどころか下手をすると訴えられる。山盛が犯人であるという証拠はまったくつかんでいないのだ。慎重に行動する必要がある。

 

 「これが前に使っていた信号機です。この信号機は先の事故の時には警察の方も検証されてます。確かに老朽化はしていましたが故障していたというわけでは絶対にありません。正常に作動していました。それはその時に警察の方もお調べになってますから、その点は念のためご理解をくれぐれもよろしくお願いします」

 係員はその事を強調した。信号機のトラブルが原因だなどとされたら会社にとってとんでもないダメージになる。

 

 多々良は信号機を観察した。この信号機には確かにスタンドの真下の接続部に腐食の痕があった。新しい信号機より一回り小さい上にランプの色もくすんで見えた。

 電源を入れて作動させてみた。異常はなかった。二分間の交代信号だ。きちんと時間通りに青は赤へ、赤は青へ定刻に切り替わった。多々良は頭の毛をもじゃもじゃと掻いた。

 「おや、これは」

 多々良は、ふと首をかしげた。その信号ランプをじっと見つめていた。


  13


 「おい、半田。さっき現場で撮った新しい信号機の写真を見せろ」

 半田はデジカメの画像を多々良の目の前にかざした。

 「ぬぬ!」

 多々良はうなった。

 

 見ると信号の赤と青の位置が古いのと新しいのとでは正反対だった。信号機はいずれも赤青の上下二灯ランプ式だが、古い信号機は上のランプが青で下の方が赤だ。それに対して新しく据え付けた信号機は上が赤で下が青だ。

 これはどうした。なぜこんな事に気付かなかったのか。

 

 「これはどういう事だ。上下の赤と青のランプの位置が正反対だ」

 多々良は絞り出すように言った。

 「そうです。赤と青の取り付け位置が逆です。でも、これは特に規定が無いんですよ。この灯火配列については。工事の場合はね、一般道路と違って上下どちらを青にしても赤にしても問題はないんですよ」

 担当者はしたり顔で言った。

 

 「道路工事信号については、あくまでも補助信号ということなんですよ。道路交通法に定めたいわゆる信号機とは違いましてね、道路工事の場合は本来は交通誘導員を置く規定があるんですが交通量の少ない所では補助信号を設置して代替してもよいという規定があって、信号だけでできるんですよね」

 

 さらりと額の前髪をかき分けながら係員は説明を続けた。

 「でも、これはあくまでも補助ですから法的な拘束力はありません。ただし、そのことによって事故を起こした場合は通常の道路交通法が適用される事になりますがね、ですからこの間の衝突死亡事故は道交法が適用されましたね。しかし、この工事信号の灯火については規制がありません。一灯式のもあれば、→信号もあります。その配列についても赤と青の色指定以外に規定はありません」

 

 担当者は弁舌さわやかに説明をすると多々良の顔を見てにこりと笑った。

 多々良はぽかんとして担当者の顔をじっと穴のあくほど眺めていた。

 「うおっほん」

 ふと我に戻ったように多々良はわざとらしく咳き込むと

 「なあるほど」と頷いた。

 「なるほど、面白い事を聞いたよ。なかなか勉強になりますな」 眉毛を指で引っ張りながら多々良は言った。

 

 「ところで、この信号機の取替を発注する権限のある人は会社ではどなたになりますかな」

 「それは普通の会社と同じです。係長から課長、最終的には総務部長が決裁しますが、こんな事はたいていは庶務係どまりで決裁オーケーです」

 「なるほど。だが今回は、事故の当日に急に信号機が取り替えられた。これについてはいかがですかな。通常の決裁とは違うような事が何かありませんかね」

 

 担当者はしばらく考えていた。

 「はあ、そう言えば、思い出しました。今回の信号機取替については総務部長からの指示で下に降りてきましたので、急な発注をしました・・・」

 「ほほう」

 多々良は目を光らせた。

 「そういうケースはよくあるんですかね」

 「いえ、こんな事はあまりありません。信号機の発注などといういわば末端的な事は係長がすべて取り仕切り、形式的には決裁はすべて課長です。部長からの指示でこうした細かい事が指示として降りて来ることはまずありません」

 係員は当惑気味に答えた。

 「なるほど」

 多々良は満足げな表情で今度は眉毛を指でモジャモジャといじくり回し始めた。

 「で、おたくの総務部長さんというのは山盛部長ですね」

 多々良は念を押した。

 「はい、そうです」

 

 

 金村建設の本社を後にしながら半田が言った。

 「匂いますね」

 「ああ。今回に限り信号機取替を部長が直々に指示している。しかもその信号は赤と青の位置が逆だ。いよいよ犯人はやつだ。部長の山盛だ。」

 多々良はハンドルを握りながらうなづいた。

「赤と青の位置が違う信号に入れ替えた・・・。何なんだこれは。どういう意味だ」

多々良はそうつぶやくとアクセルを踏み込んだ。


    14


 署に帰ってから多々良は工事信号について調べた。信号機メーカーはいくつかある。最近の工事信号は無線制御のものが多い。交通誘導員が一人で自由自在に制御し交互交通の切り替えもできる。人件費も安くあがる。


 金村建設の担当者が言ったように工事信号というものはあくまでも補助信号だった。工事関係者は常識として道路工事関係の法令規則は頭に入れている。その辺りの事をよく知っているのは当然といえば当然だった。工事信号に関しては、要するに青がゴー、赤がストップなのであり、各都道府県によって標識はまちまちだ。いずれもそれぞれの都道府県の公安委員会がそれを取り決めている。

 

 製造元に問い合わせると、最近の二灯式信号は当局の指導により、上が赤、下が青が一般的だという。上下でなく左右の二灯式もある。

 当局というのは、総務省行政評価局だ。その中にある道路の維持管理に関する行政評価、監視を行う部署である。

 

 行政評価局の指導によれば、上下の二灯式工事信号には、灯火配列がまちまちなので統一することが望ましいという通知を各地域の道路公団にも最近出している。


 いずれにしても、今回のこの事故は信号機を取り替えた途端にこの死亡事故は起きている。

 毎日同じ時刻に十年間毎日きっちり安全に往復運転していた水桶善太郎。無事故無違反の優良ドライバーだ。それが信号機を入れ替えた途端に赤信号をノンストップで突入している。なぜ赤で進入したのか。その事への強い疑念は多々良の頭の中で益々(ふく)れ上がって来るのだった。

 

 この片田舎は十月も中旬を過ぎると夕方などはけっこう冷える。多々良は色褪せた古コートを羽織ると署をぶらりと出た。外にはすでに寒風が吹き始めていた。ぶるりと身体を震わせると両手をポケットの中に突っ込んだ。

 

 犯人はわかっている。その動機もわかっている。赤青の信号機の交替もわかっている。だが、証拠がない。

 水桶善太郎は、信号に差し掛かった時に急に心臓発作か、脳卒中を併発したのではないかとも考えた。それならば赤信号突入はわかる。だが、事故として処理したため司法解剖まではしていない。すでに遺体は灰になっている。

 水桶善太郎の検死をし死亡診断書を作成した医者に念のため当たってみよう。ふと多々良はそう思いついた。


   15


 検死は水桶善太郎が救急車で運ばれた隣町の病院の院長が行っていた。小さな町の病院のことでもあり緊急の場合は当然のことながら院長もスタッフの一員だ。

 「あの時には確かにわたしが調べましたが検査では心臓発作とか脳溢血、脳梗塞などの症状はまったくありませんでした。直接の死因は衝突による頸椎骨折です。首の骨が完全にねじ曲がって即死状態でした。頭蓋骨もひどく損傷していました。それだけ強い衝突の衝撃だった事を物語ってますね。おそらく上体が軽トラックのフロントガラスから飛び出てバスの前部に叩きつけられたような感じでしょう。顔面もぺしゃんこの状態でした」

 

 院長は淡々とした口ぶりで説明した。

 「ふうーむ」

 多々良は長いため息を吐いた。

 

 事故調査によると、相手のバスはその時には時速四十キロのスピードでカーブに入っている。軽トラックの方は下り坂でもありもっとスピードが出ていたに違いない。軽トラックの場合はボンネットも無い。双方がそれだけのスピードで正面衝突すれば大きな衝撃を受けぺちゃんこになるのは想像に難くない。

 

 「善太郎さんのそのほかの健康状態はどうだったんだろうな、視力が弱いとか難聴気味だとか・・。定期の健康診断などはやはり受けていたんでしょうね。一応は公務員なので定期検診は義務づけられていると思うんですがね」

 「はい。毎年一回、この病院は市の公務員共済の指定病院なのでここで受けています」

 「恐れ入りますがね、本人死亡ということですから個人情報公開のご容赦を願って今までの彼のデータを見せていただけませんか」

 院長はしばらく考えていた。

 「そうですね。何かの参考になるのならばけっこうです。一緒に来てください」

 

 院長は、スリッパの音を立てて健康管理室に向かった。

 「指定の定期健康診断にはご承知かもしれませんが、決められたチェック項目があります。それ以外の項目についてはオプションになります」

 パソコンを叩き出しながら院長は言った。やがて、部屋の奥に消えると一冊のファイルを出してきた。

 

 「これですね。水桶善太郎氏のデータ控です」

 多々良はそれを受け取ると椅子に腰を下ろして仔細に眺め始めた。

 心臓異常なし、胃炎の兆候あり、肝臓機能は要精密検査、コレステロール高い要経過観察、聴力は異常なし、視力両眼一・五。

 

 「ん? 」

 多々良はふと視力の備考欄に目を止めた。ずっと以前のデータだがその備考欄には一カ所だけ色覚障害(赤緑色盲)と書かれている。 多々良はじっとそれを見つめていた。一分間ほどそれを眺めていた。眉がぴくりと動いたと思うとやがて多々良の目付きが変わってきた。爛々と燃えるような目付きをしている。

 

 「院長先生、この色覚障害、赤緑色盲というのは何ですか。よく聞くことはあるんですが」

 太い眉毛を手の平でじりじりこすりながら多々良は尋ねた。

 

 「あ、それは人によって程度の違いはありますが、いわゆる赤と青の識別がしにくい、またはまったく区別がつかない状態なんですよね。先天的な遺伝によるものです。男性に一定の割合で出ます。水桶さんは、ずっと以前にオプションで色覚検査を受けてらっしゃいますね」

 

 「赤と青の識別がつかない? といいますと、信号などは? 」

 「おそらく色ははっきりとは見えてないと思います。ただし、ランプが点いていることは認識できます。ランプの濃淡がちがいますから」

 

 多々良は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。なるほど、これだ。

 多々良は激しく頭を掻きむしった。

 「では、例えば工事用の赤と青の二灯信号などは? 」

 「色の区別はわかりませんが、どっちのランプがついているかはこれも濃淡でわかりますから、右か左、上か下どっちが赤であるかをその信号の位置を覚えておけば支障ありません」

 

 「では、急に赤と青の位置配列が変わった信号機を設置したとしたら? 」

 院長は不思議そうな顔をした。

 顔にとまどいの色を表しながら、

 「ううむ。まあ、そうですね、その場合は当然、本人は上が赤だとそれまでの学習によって覚えていたならば、上のランプがついていれば赤だと思うでしょうね、当然のことながら。色別ができないんですから。まあ、これも繰り返しますが見え方には個人差がありますが」

 

 「先生、善太郎さんの場合はどうだったんでしょうかね。まったく色の区別ができなかったタイプだと思われますか」

 「それは、色覚検査を担当したものでないとわかりません。その色覚異常の程度までを検査し記録する事はなかなか難しい面があります。個人差が激しいのです」

 「例えば」と院長は言葉を続けた。

 

 「例えば、登山のオリエンテーリングで目印に分かれ道などの木や草に赤いテープを結びつけていたところ、それが全く認識できすに遭難したという事例もあります。子どもに山の絵を描かたところ山の色をすべて肌色で塗ったとか、黒いカバンが深い緑色に見える、追い越し禁止のオレンジのセンターラインが薄い緑に見える等々、人によって見え方はいろいろです」

 「面白いものですな」

 多々良は感心しながら唇を丸めた。

 

 「確か警察も運転免許取得の場合は色覚検査はしてませんよね。視力だけを重視してますから。二灯式は明度差でわかりますが、赤と青が同じ一灯式の工事信号は人によってはまったく識別できないことが起こりえます。これはある意味こわいですね」

 「あー。そう言われればそうですな。日本警察を代表してそのご助言、感謝します」

 苦笑しながら多々良は軽く敬礼をしてみせた。もやが少し晴れて来たような気分になった。

 だが暗雲はたれ込めたままだ。山盛にもアニーにも犯行の証拠は何もない。


16  まだまだ殺意証明はできない


 病院を辞すると多々良は急いで本署へ戻った。

 信号が赤なのになぜ水桶善太郎は進入したか。それは彼が色覚異常だったためだ。

 信号を取り替えたために赤と青を間違えたんだ。誰かが、水桶善太郎が色覚異常であることを知り、故意に信号機をしかも、赤、青の配列が逆な信号機を予告無しにすえ付けた。事故の原因はそれだ。

 

 だが、誰が一番に水桶善太郎が色覚異常であることを知り得るか。それは水桶に最も近い配偶者、アニーに他ならない。そのことを山盛は何かで知った。だから山盛は突然信号機を取り替えた。だが、あくまでもこれはすべて状況推測でしかないのだ。どこにもこの二人が殺人を行ったという証拠がない。

 

 任意の事情聴取で署に呼び出すか。だが、それも署長の決裁が降りない。県警に内密の調査ということもある。だいいち山盛にしてみれば、以前から信号は老朽化していた、部下からも取り替えの要望があった、だから善は急げでその日に急きょ取り替えました、という主張になるだろう。これ自体は何の問題もない。

 「誰が水桶善太郎に事故を起こさせるために取り替えましたと言うかね。何かしっぽをつかまないとどうすることもできんよ」

 署長は渋い顔でそう言った。

 多々良は署長のしわがれ声を思い出しながらタバコの煙を吐き出した。ため息を吐いて天井をながめた。

 「問題は殺意の証明だ。これは事故であり事故でない。どちらにでも転ぶ」

 多々良は目を細めると軽く掌で額を叩いた。

 

 「とにかく決定的なものが要りますね」

 番茶を啜りながら半田はそう言った。

 「とにかく動いてみるしかないわナ・・・」

 多々良はお手上げするような格好で両手を広げた。 


17 現場へ現場へ


 それまでの内偵の結果、山盛和夫とアニーとの仲は三年前からやはり深い関係にあることがわかった。山盛は前妻と三年前に離婚していた。ちょうどその前後からアニーとほとんど内縁関係にあることが判明した。アニーも前夫とはすでに離婚していた。アニーには子どもはいない。山盛には二人の子どもがいた。山盛は自分の子の相続のことも考えてかアニーとは入籍まではしていない。が、ずっと内縁関係を続け、内緒でアニーにアパートの一室を与えそこをねぐらに半同棲のような生活をしていた。アニーは三ヶ月毎にフィリピンへ帰国している。


 一方、水桶善太郎とアニーは、確かに結婚し入籍もすませていた。アニーはだから、山盛という内縁の夫がありながら水桶善太郎と結婚していたことになる。山盛から与えられたアパートがアニーの実際の自分の本宅だった。これは偽装結婚に近い。結婚詐欺罪にもあたる。

 

 その頃になってやっと県警の重い腰が動き始めた。

 保険金が支払われたという事実とその状況の不自然さがやっと県警のお偉方にもわかりだして来たと見える。

 再捜査を内々で進めても良し、とする正式許可がやっと県警を通してK市警察に降りてきた。

 口が酸っぱくなるほど署長に進言した甲斐(かい)があったというものだ。

 

 が、実際の捜査は暗礁に乗り上げかけていた。会議の結果、山盛を未必の故意の線で任意で事情を聞こうという話になった。山盛が信号機を新しく入れ替えた時に水桶善太郎がひょっとして事故を起こすかもしれない、そのことを知っていたのではないか。そのいわゆる「未必の故意」の線での事情聴取だ。何の確証もない。だが手をこまねいていたのでは何も状況は動かない。

 

 その夜、山盛が帰宅したのを見計らって多々良と半田は山盛の自宅のドアホーンを鳴らした。

 「何ですか」

 山盛はそのいかつい目を光らせて太い声を出した。

 警察手帳を出しながら多々良は質問を始めた。さっそく本題から入る。

 水桶善太郎の事故当日に信号機を取り替えた件についてたずねた。

 

 山盛はハガネのような目つきで多々良を見ながら平然として答えた。

「現場から信号を取り替えてくれというのでね。私がそれを聞いたのは事故の前日ぐらいでした。老朽化してるって。そんな信号機は危ないからね、思わず課長を叱りつけましたよ。なぜもっと早く取り替えなかったんだとね。その時言いわけしたりもたもたしている課長を差し置いて、やむなく私が急きょ信号取り替えを指示したというわけなんですよ」

 

 臆する様子はみじんにもなかった。

 「山盛さん、そのあたりの事をもうちょっと詳しくお聞きしたいんですが、・・・。ちょっと署まで一緒に来ていただきお話を聞かせてもらえませんかね」

 多々良は遠慮がちにそう言った。すると山盛は急に憮然として、

 「それはお断りします。こうみえても私も大学は法学部出身でしてね、任意同行ってやつ、これは刑事訴訟法では完全に拒否できるんですよ。刑事さん、それわかってんでしょ。なんでわたしが署まで行く必要があるんですか」

 

 多々良のドングリ眼が三白眼になった。

 「山盛さん、警察をなめちゃいけませんぜ。一つ教えてあげましょうか。いいですかい、任意であっても求めに応じない場合は拘束することもできるんですぜ」

 山盛は大声で笑った。

 「ほう。そんなことがどこに書いてあるんですか。そんなことができるならやってもらおうじゃないか。できっこないよ!」

 

 多々良は山盛を睨み付けた。

 「そのうちに警察に来てもらうことになるよ。楽しみに待っていてくれたまえ」

 多々良と半田は署に帰った。負け犬の気分だ。証拠がない限りとことん山盛は殺意を否定してくるだろう。

 

 「悔しいすね。まったく証拠が無いですからね。その事をあいつは見透かしてるんですよ」

 ため息まじりで半田が言った。

 「石でも抱かせて拷問にかけるか」

  多々良はそう言うとタバコの煙を大きく吸い込んだ。明日もう一度工事現場を訪れてみようと思った。あれから何度も現場に足を運んではいた。行けばまた何か見つかるかもしれない。何度も何度も現場へ足を運べ。初任の頃に先輩刑事から教わった言葉だ。

 


    18 拾われた宝物


 翌日は小春日和の穏やかな日だった。工事現場は休憩時間だった。作業員達がめいめいに腰を下ろして一服していた。モズがけたたましく鳴いて飛び去った。


 「やあ、刑事さん、ご苦労様です」

 現場監督がにこやかに手を振ってくれた。

 「また来ましたぜ。あの件についてもう少し調べたいと思ってね」

 事故現場には花が供えられていたが、それももう枯れてしまって いる。しなびた葉が泥にまみれて惨めな姿を呈していた。

 多々良はそっとその萎れた花束に手を合わせると現場監督の方に向き直った。


 「何か変わった事はありませんかねえ」

 多々良は辺りを見回しながら決まり文句を言った。

 変わった事は、と言われても相変わらずのこんな山の中だ。そうそうあるわけもなかろう。


 「刑事さん、実は午前中はあそこの大曲のカーブで作業してたんですがね、山側の人工仕切り塀の隙間(すきま)にこんなものが落ちてたんですよ。作業していた者が見つけましてね」

 現場監督は胸ポケットから太い万年筆のようなものを取り出した。

 多々良は受け取るとしげしげとそれを見つめた。土で可成り汚れているがそれは小型の録音機のようなものだった。

 

 「ICボイスレコーダーですよ、これは」

 現場監督は言った。

 「最近、流行の流線型スタイルの高性能ナントカってやつです。事故現場近くだったので後で届けようと思ってました。ひょっとして運転手さんの私物かなと思って」

 「ほほう」

 多々良は口元を丸めながらいつまでもその小さな物体に見入っていた。

 

 すぐに本署に帰った。多々良は興奮した気持ちを抑えながら半田を呼んだ。

 半田はさっそくパソコンのスピーカーに繋いでそれを再生してくれた。

 雑音ばかりが入っていて何も音声は出て来ない。

 「やっぱり駄目か。何日も外に放りっぱなしだったからな」

 多々良があきらめ顔でつぶやいた時、半田が無言で掌を向けて多々良の言葉あを制した。聞こえるか聞こえないかぐらいの蚊のなくような音声がかすかに入っていた。

 

 「お、何か聞こえますね」

 半田は奥にあったスピーカーの拡大システムを持ってきてそれをパソコンに接続した。すると意外に大きな音量で音声が流れてきた。

 

 車のエンジンの音。それがずっと続いていた。

 突然、甲高い男の声ともう一人ドスのきいた男の声が聞こえてきた。

甲高い声    「今日は十月の十一日ですね・・・」

 ドスのきいた声 「・・・うん」

 エンジンの音・・・・・・・

 甲高い声    「去年の台風もちょうど十月の十何日だったか、この頃だったですかな」

 ドスのきいた声 「ああ、そうだな・・・」

 エンジンの音・・・・・・・

甲高い声    「あの台風にゃ参ったです」 

 エンジンの音がずっと続く。

 

 クラクションの音。それに呼応するこちらの車のクラクション。

 甲高い声 「あのバスとはいつもこのカーブでこの同じ時間に出会うんです     よ。不思議なことにこの場所でね、でもよく考えてみたら向こうもこっちも同じ時刻に出発する定期便みたいなもんですからねえ・・・」

 エンジンの音・・・・・・・

 

 車はいったん停止してしばらく信号待ちをしている気配。しばらくするとエンジンをふかすてスタートするような音。

 またエンジンの音が響く・・・・・

 

 ドスのきいた声 「おお、彼岸花が綺麗だな。すごいね。君、こないだ来た時はこんなじゃ          なかったのに。見事なもんだな・・・」

 甲高い声    「ええ彼岸花、綺麗でしょう。この辺りは彼岸花だけはたくさん咲くんで          すよ。でもねえ、山盛さんにはあれはきっと綺麗な花なんでしょうが、実は          ね・・・」

 エンジンの音。

 

 甲高い声    「実はね、山盛さん。オラにはあれが見えないんですよ」

 ドスのきいた声 「見えない?」 

 甲高い声    「へへへへ。どうしてかって、オラ色盲でしてな」

 ドスのきいた声 「ほう。それじゃ、信号なんかは見えるのかい」

 甲高い声    「それなんですが、実はオラには見えねえんです」

 ドスのきいた声 「何だって。おいおい。大丈夫か」

 甲高い声    「なあに。大丈夫すよ。ちゃんとわかります。まあ見ててください」

 ・・・・沈黙。・・・・軽トラックのアクセルをふかす音がまた聞こえる。二サイクルエンジンのウンウン唸る音。しばらくするとまた音声が入った。

 

 甲高い声    「ほら、あそこに見えて来たのが大曲の工事信号ですよね。         ここの信号は縦並びの二色灯だからね・・・。ここの信号 は上が青で、下が赤なんですよ」

 ドスのきいた声 「ほう、確かにね」

 ドスのきいた声 「ねえ、二つのランプを較べて見てくださいな。濃くなってる(ほう)と薄くなってる方がある。濃くなっている方が ほら 今ランプが()いてるってことなんですよ」

 ドスのきいた声 「おう、確かにランプが点いてると色は濃くなる」

 甲高い声    「そうです。ほら、今は上のランプが濃く下が薄い。だから信号は青だ。青は          進 めだ。ま、こんなわけサ。色は見えなくても濃さでわかるわけすよ。こん          な風に見分けるんですよ、おらのような色盲者はね」

 

 エンジンの音 ・・・・ここでまたエンジンのけたたましい音が入ってい         る。しばらくすると、

 ドスのきいた声 「ほほうー。なるほどナ。でも、一番最初にこの信号が設置された時には、上          の ランプが青という色だって事はどうして わかるんだい」 

 甲高い声    「あー、それはわかんないす。だから、工事信号の場合は 最初だけは、誰か         その辺にいる人に聞かなきゃわかんない ね。でも、一般道路の信号は赤・黄・          青 と決まってるから これはいいけどサ。最初は車止めて工事作業の人に上           下のどっちが青なのか、聞いただよ」

         

        やがて合間を置いてから、

 甲高い声    「いつもここで隣町の麓から上がってくる定期バスに出会うんすよ。ランプが          一つだけの灯式の工事信号の場合は、赤青わかんないからバスなんかと鉢合わ          せした場合は、ちょ いと困るけどね。二灯式の場合は今言ったように区別           が付くから大丈夫」

 エンジンの音  ・・・・・・       

 

甲高い声    「いつも必ず、あのバスとはこの工事信号で出会うんですよ。毎日、オラ、電車        の時刻表みてえに精勤に四時かっきりに役場を出発しますからねえ。これがオラ         の毎日の自慢の日課ですよ、ふへへ」

 エンジンの音  ・・・・・・・

 

 それ以後ずっとエンジンの音が響く。ドスのきいた声が、面白いね、それは面白い、を何度も繰り返していた。

 

 多々良は興奮した。

 宝の山を掘り当てたような興奮だった。はやる気持ちを抑えながらゆっくりと巻き戻して聴きなおした。時々早送りをしながら再生を繰り返す。また巻き戻す。そして耳をそばだてながら何か入ってないか聴く。さきほどの会話の前にはなにやらカラスの鳴き声が入っていたり、川の水音が入っていたりする。

 

 突然、録音の音声が途切れた。それ以後は何も入っていない。半田は首をかしげながら少しずつ早送りを繰り返しながら再生ボタンを押した。何も入っていない。

 今度はどんどん最初の方に巻き戻して再生させてみた。すると急に虫の声がかしましく入ってきた。うるさいほどの虫の音が長時間入っている。

 

 多々良は興奮していた。さっきの会話以外にも何かがこの中に入っているはずだという強い予感を感じている。半田は巻き戻しと再生を何度も繰り返しながら慎重に聞き耳をたてた。

 

 また突然、虫の音に混じってかすかな男と女の声が入ってきた。 それは最大にボリュームを上げてやっと聞き取れるかどうかというぐらいの遠いかすかな音声だった。 


男  「アニー、いよいよ今日やるからな。ゼンタローともこれでお別れだ」

女  「ヤマちゃん、チョトこわいヨ。ダイジョぶ?」

男  「心配するな。ゼンタローは今日の四時に交通事故で死ぬということになってんだ。俺      たちはナニもしてない。証拠がない」

女  「ゼッタイ、だいジョぶ?」

男  「大丈夫だ。おカネもたくさん入るぜ。ふふふ・・」

女  「ああ、ヤマちゃん、ステキ。もう一度キスして・・・」

  ・・・・・・・・ 

 その後、急に静かになった。わずかに何か男女のつぶやく音声が時々聞こえるが、うるさいほどの虫の音に掻き消されていた。リンリンという鈴虫の鳴き声ばかりが響いていた。


 多々良はいよいよ興奮して頭を掻きむしった。ちぎれそうなほど眉毛を指で引っ張った。

 「やりましたね、先輩」

 半田はガッツポーズをして笑った。

 多々良はレコーダーを握りしめると急いで署長室に駆け込んだ。


 19 反転攻勢


 緊急の捜査会議が開かれた。

 このレコーダーの出現によって水桶善太郎の事故はすべてが根本的に見直された。これはまさに有力な証拠品だった。

 おそらく激しい衝突の衝撃によって善太郎の胸ポケットから飛び出たものに違いない。

 

 声紋分析により男の声は山盛和夫、女の声はアニーに間違いないことがわかった。

 水桶善太郎は、人の会話や雑談、自然の音、カラスの鳴き声、虫の音などを隠し撮りする趣味があったこともわかった。

 

 おそらくこの日も善太郎は虫の音を取ろうとしてICレコーダーを庭の植え込みの中に一晩中セットしていたのだろう。それを翌朝取り出して自分の胸ポケットに入れて出勤した。

 

 山盛和夫は、十月十一日に所用で役場を訪れ、その帰りに善太郎の軽トラックに乗った。これは所長もそう証言している。

 善太郎は、日頃から人との会話を録音するのが趣味だった。この録音癖のためポケットの中のレコーダーのスイッチを入れて軽トラックに乗り込んだ。山盛は偶然にもその軽トラックの車内で山盛和夫は善太郎が色盲であることを知った。まさかそのやりとりが録音されているとは山盛自身は夢にも思っていなかった。

 善太郎が色盲であることを知った山盛和夫は信号機を取り替えて事故を起こさせる事を思いつく。そのために急きょ翌日に新しい信号機に取り替えさせた。それも赤青の配列が上下正反対のものをだ。

 

 ただし、その事によって善太郎が死亡するかどうかはわからない。怪我はするかもしれないが死ぬとは限らない。だが山盛和夫はそれでもいいと考えた。衝突によって死ねば一番良し。駄目もとなのだった

 

 仮に、失敗して善太郎が死なずに怪我だけに終わっても、それはもともとだ。その事故について信号が前のと替わっていたから赤とは思わなかったと善太郎は言うだろうが、どんな事を言おうとも第三者には山盛和夫の作為であるとは、まさかわからない。

 赤で進入した善太郎が悪いことになる。

 

 善太郎はアニーと山盛和夫がそんな仲であることにはまったく気付いていないため、そうである限り山盛和夫を疑うことはしないはずだった。

 ただ、山盛和夫には一つだけ誤算があった。

 

 善太郎にこんな録音癖の趣味があることまではわからなかったということだ。

 それが命取りになった。

 たまたま事故前夜に録音していた善太郎のこの虫の音の録音は山盛和夫を落とすに十分な証拠となった。

 

 アニーの店の送り迎えは通常は従業員がワゴンで行うが、この夜は店がひけたあとアニーは山盛和夫のところに行っていたという。

 その夜は山盛和夫がアニーを水桶善太郎の家まで送った。

 車を降りて玄関近くの垣根のあたりで二人で別れを惜しんでいるその睦言がレコーダーに入っていたというわけだ。もちろんそれは善太郎が虫の音を録音しようとして庭に置いていたそのICレコーダーであった事は言うまでもない。

 

 その夜山盛と別れたあとアニーはそのまま水桶善太郎の家の中に入り自分のベッドで眠ったという。

 そしてその日の数時間後、善太郎が午前十時の配達を終えたあと、昼休みに新しい信号機が据え付けられた。

 午後四時には善太郎はここを通る。その時にはバスも通る。当然の事ながら山盛和夫は衝突事故を想定していた。

 

 「今日やるからな。今日の四時にゼンタローは交通事故で死ぬということになってるんだ」

 これがレコーダーに入っていたことは決定的だった。殺意が無かったとは言わせない。

 この会話が録音されていたことにより、山盛和夫は観念してすべてを自白した。

 当初は「今日やるからな・・・大丈夫だ。お金も入る」の言葉の意味を、「あれは競馬の事だ」などとしらばくれていたが、結局泥を吐いた。殺意は証明された。

 二人は水桶善太郎に対する殺人容疑で起訴された。


  



善意の用務員、水桶善太郎はささやかな自分の趣味によってその死後に自らの潔白を証明した。のみならず真犯人を特定し逮捕に至らしめることができたのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ