【9】
誰も追いかけて来ないことを確認しながら市街地へと疾走。何度も何度も振り返るが、追っ手はない。
海抜が下がり、広大な畑の先に民家と海が見えてくるとようやく緊張も解け、気持ちも軽くなり、だらーんと弛緩していると、ぐぅ、と腹が鳴った。昼が近づいていた。が、食堂を探すもそれらしきものはなく、「どうするどうする」なんて義太夫における『どうする連』のごとくおどけていると梶川が、例のホテルのロビーで打ち合わせがてら休もうというので、賛成。行ってみると、運良くロビーにカップラーメンが置いてあり、それを二個、昨日の姉ちゃんに差し出し、奥の食堂で湯を入れてもらい、三分待つ間に先ほど回したビデオをチェック。禿げのおっさんに「なに撮っとると?」と言われるまでがしっかりと撮れていたので梶川大喜び。
暇そうだったフロントの姉ちゃんが梶川の大騒ぎを聞いてやって来て、
「なにやってるとですか? 楽しそうですね!」
などと言うので、梶川、例の集落についてインタビューをすべく姉ちゃんにカメラを向ける。するとこの田舎っぺの姉ちゃんは、カメラに照れながらも手につばをペッと吐き、髪を撫でつけ、ニコッと笑い、何と勘違いしているのか知らんがこんなことを一人で喋り始める。
「ええっと、わたしぃ、早乙女かすみでぇす、ええっと、今年で二十一歳になりますぅ。上からぁ、九十一、五十五、八十九でぇす。経歴わぁ、おととしぃ『ミスきびなご』、去年わぁ、M島公民館主催のぉ『輝けM島の女神たち、M島カラオケ大会』でぇ、見事三位ぃ! きゃはっ、どうですかぁ? あなたたち、東京のプロダクションの人でしょ?」
早乙女かすみと名乗ったこの女の胸元のプラスティック板には「五反田富子」と書いてある。スリーサイズも嘘であることは間違いない。さすがに梶川も困惑の表情であろうと思ったが、やはり頭の壊れている者同士息が合うのかウホウホッと立ち上がって、何度も何度も飛び跳ねるのである。
麺が伸びてしまうことを危惧してラーメンを食い始めた自分をよそに、頭の壊れた二人はキャハキャハと騒いでいたのであるが、
「君、手縄村って知ってる?」
と梶川がさり気なく話を振ると、姉ちゃん、急に顔色を青く変え、恐れおののき、歯をカタカタと鳴らし始め、
「え? え? 知らない、富子、なんにも知らない……、手縄の祭りのことなんて、富子知らない、知らないもん……」
と。
恐怖の表情で立ち去る五反田富子を見た自分は、先ほどの密会の様子と気味の悪い祈りの声を思い出し食欲を失ってしまうのであるが、反対に梶川はやはり嬉しそうで、またしても「良いものが撮れた」を繰り返している。
しかし、富子のあの様子からしても手縄村という場所は島民からも恐れられているのは間違いなく、なにかある、というよりも、人を喰っている、と考える方が自然に思えてくる。ということは、梶川と自分は明日祭りに潜入取材するのであるから、身に危険が迫っていることは間違いない。取材班だとばれたら生きて東京に帰れる見込みも少ないと予見できる。しかも自分たちの方から危険の中に身を投げ入れるのだから、ヘッドライトに飛び込む田舎の蛾と大差のない低脳ぶりである。
この時点で自分は心からこの取材に同行したことを後悔し始めていた。なぜなら、弱気な心が、死の足音に気づいて警鐘をガンガン鳴らしていたからである。そこで自分は梶川に撤退を促すべく、五反田富子のあの様子からも手縄が危険な村であることは間違いない、またトゥクトゥクが派手でありすでに多数の目撃者がいる、現に手縄村の人間にも見られてしまった、今朝バンガローをうろうろしていた奴らは、きっと手縄村の祭りを守ろうとしている協力者であり、我々を警戒しているに違いなく、つまりは我々の潜伏先も奴らに知られているわけで、バンガローはもはや危険極まりない、などと懸案事項を話したが、梶川はもはや頭脳が完全に崩壊しており、大丈夫さ、ウッホッホ、を繰り返すばかりなのである。
「でもおっちゃん、拉致、殺害などされたら、仕事どころの話じゃねえよ」
「大丈夫大丈夫、僕は数々の修羅場をくぐり抜けてきたんだから、これぐらいどうってことないよ、まかせなさい、必ずうまく行くから」
こんな言葉、気休めにもならない。
梶川はコショウを借りるために食堂に向かっていったが、自分はコショウが毒であってほしいと心から願った。しかし梶川は旨そうにラーメンを食らい、苦しむ様子も死ぬ様子もない。自分の胸がどくんどくんと、毒を盛られたように激しく蠢いている。