元の世界に戻るには。
ピシュ、シュル―、ピシュ、シュル―。
オールで水をかき分ける音が遠くから聞こえて来た。遠くの暗闇の中に小さなボートが見える。
ピシュ、シュル―、ピシュ、シュル―。
音がだんだん大きくなる。すぐ近くまで来て、水面に浮かんでいる小さな木製のボートが見えた。
「そこにいるの、阿美ちゃん?」
小さな声。その低温に聞き覚えがある。ボートの帆先にいるのは、さっきアパートで挨拶したばかりの大学生・山田だ。
「はい」
阿美は小さな声で答えようとしたが、声が上ずり音が大きくなってしまう。阿美の声は水路の中でこだまする。
「シー」
山田がより小さな声を出し、阿美に手を振った。
木製ボートが水中で漂う阿美のすぐ隣でとまる。いつのまにか、ぐざふぁんの姿は消えている。
「早く」
ボートの中から玲子の声がして、阿美の前に手が伸びてくる。阿美はその手をつかんでボートに乗り込んだ。ぐらっとボートが揺れる。阿美が乗り込んだことでボート内がふわっと明るくなった。
「便利だけど、怖いね」
玲子は顔につけていた暗視ゴーグルを外しながら、
「どこにいるか、すぐにわかっちゃう」
阿美にタオルを差し出す。
「うッ、なんですか、その服?」
阿美は二人を見て小さな声を上げる。
「静かにっていったでしょ、何がいるか、わかんないだから」
「だって…」
ほのかな明かりの中で浮かび上がる二人の姿は、アニメで見る戦士そのもの。玲子は黒のボディスーツを着て、その上に鎖帷子のようなベストを着ている。頭からは黒のフードコート。手元には盾と剣がおいてある。
「阿美ちゃんのもあるの。あとで説明してから渡そうと思っていたのに。渡す前に落っこちゃったから」
ゆっくりボードは川の流れに乗って動き出す。
「かなり流されてるから、このあたりだと…」
山田がスマホを取り出し、地図を見ている。玲子に比べると山田の恰好はシンプルだが、それでも普通の服装ではない。黒のシャツは近くで見ると、小さな文様が入っている。
「どうする?ここで出る?千駄ヶ谷。公園の近くに河岸がある」
「少し遠いけど、そこは前に使ったことがある」
「安心かな」
二人は周囲を気にしながら、スマホの地図を確認している。山田は地図を頼りに、水路を大きく左に曲がる。
「どこに水が流れているかは、見た目じゃわからなんだ。地図と勘、それがすべて」
しばらく流れに乗るうちに暗闇に目が慣れてくる。水路の周囲には葦が生えている。
やっとボートは河岸のようなところにたどり着いた。
山田はボートを船着き場に括り付けると、周りを見回す。
「阿美ちゃんが明るいからね、ゴブリンが集まってる」
山田は阿美にマントをかける。周囲が急に暗くなる。玲子が剣を前に構えて、つぶやく。
「今は戦いたくない。ゴブリンはやっかいものだけど悪意はないの。だから、いい、ボードを降りたら階段を駆け上がって!」
山田はボートを降りるときに、ポケットから煙玉を取り出し、水面の投げつけた。
あたりが灰色の煙に覆われる。
「急いで!」
山田の掛け声で3人は階段を駆け上がった。
階段の先は小さな小屋のボイラ―室だった。
窓から外に出ると緑の芝生が広がる公園。ずぶぬれの阿美とアニメから抜け出してきたような黒ずくめの戦士ファッションの山田と玲子。普通なら人目を惹く組み合わせだが、台風が来ていることもあり、周囲に人の気配はない。雨はピークを過ぎて小降りになっている。
「だいたい何かのコスプレだと思ってるから」
玲子はすたすたと公園の中を歩きだした。
「堂々としてればたいていのことは大丈夫。さ、帰るわよ」
「僕たちのコートは防水なんだ、当然だけどね」
山田が来ていたコートの裾を振ると、水滴が弾け落ちた。
「すぐに乾くんだ、すごいよ」
三人はその服装のままタクシーを捕まえ乗り込む。台風が来ているからか、タクシーの中にはタイルがあり、座席はビニルでカバーがしてあった。
「ふう」
阿美はため息をつく。胸元を見ると、水色ブラの間にシロがいびきをかいて寝ているのが見えた。
「ポケットに入ればいいのに」
阿美はそのまますぐに隣に座る玲子に持たれ寝てしまった。
疲れた。
葉山アパートの入り口にタクシーが付いたのは、阿美が寝息を立てて眠っている時だった。雨はまた激しくなっている。と、雄一が走り出してきた。
「どう?」
タクシーの中から玲子が聞く。
「変わってるよ、急がないと!」
雄一は寝ている阿美の肩をゆすり、腕をつかんでタクシーから無理やり下す。
「疲れてると思うけど、復活の泉で泳がないと」
「泳ぐ?」
「これから?こんなに寒いのに?どこで?」
「そう、泳がないと体の汚れが染みつくよ」
阿美は雄一の顔を見て、懐かしいと思った。
「また会えてよかった」
「俺もだよ。戻ってこないかと思った」
雄一は阿美をアパートの共同ふろ場に連れて行った。
阿美の部屋にもユニットバスがあるが、ここはそれよりもずっと古く見える。
小さな足を曲げないと入れない浴槽が見える。
「ここ?泳ぐ?」
泳げるとこなど、どこにもない。
「そう、とにかく入って」
雄一は阿美をお風呂場に押し込んで、自分は外に出る。
「入ればわかるから、泳げるから」
復活の泉と看板がつけられた古びたタイル張りの浴槽からは、あたたかな湯気が出ている。阿美は言われた通り、脱衣所でぬれた服を脱いで、浴室に入る。浴槽に身を沈める。
あとは想像通り。浴槽は地下に繋がっていた。
「ゆっくり泳ぐだ、わかったね」
外から雄一が叫んだときには、浴槽から阿美の姿は消えていた。
玲子はシシドカフカ、山田はお気に入りのイケメン俳優さんを想像して。竹内涼真、三浦春馬、坂口健太郎あたりイメージです。