1.モールラガードでの一夜 06
風呂に入る前は閑散としていた食堂件ロビーには、今は人が溢れかえり、大賑わいだ。
商人や用心棒の男達が大半で、エールの入った大きな木製のジョッキ片手に、湯気の立つ芳しい料理に舌鼓を打っている。
そんな中、宿泊室の鍵を管理するカウンターのそばのテーブル席に三人は陣取っていた。
「さっきの方が可愛かったのに」
少女の右隣でテーブルに顎肘をついた女は、不機嫌にむうと唇を尖らせる。
「お前の審美眼は腐ってるから、これでいいんだ」
細かく白い泡が表面を覆うエールを口にしてから、長身は満足そうに左隣に座る少女を見た。
顔を隠すほど長かった前髪は眉毛の少し上で綺麗に切り揃えられていた。ざんばらだった後ろの髪も腰の辺りで切り揃えられている。
そのままでは食事の邪魔だろうと、左右に均等に二つに分けられた髪は綺麗に三つ編みにされていた。その先を飾るリボンは几帳面な蝶結びだ。
「ススキの穂が突き刺さってたみてぇだったのが嘘みたいだな!」
と、宿の親父からも褒められた。
「あんた、ほんっと、こういうの器用よね。髭だってお洒落な剃り方してるし。女子か!?」
「女子に整える髭はねぇっつの。なあ、こいつ、めんどくせぇ女だろ?」
二人の間で、少し足の長い椅子に座ったまま俯いている少女はまったく反応しない。目の前に並べられている細く切って揚げたじゃが芋にも、搾ったばかりの甘い木の実のジュースにも手をつけてはいない。
机についていた肘を軸にぐいっと上体を動かして、女は少女の頭を撫でた。
「おなかすいてないの? 喉だって乾いてそうだったけど……じゃが芋嫌い?」
「……じゃが……い、も……?」
気の荒そうな酔っぱらい達の喧噪に消え入りそうな、かさかさの声だった。
だが、それをしっかりと聞いた二人は、少女に顔を寄せる。
「そうだ。これはじゃが芋を油で揚げたものだ。じゃが芋は好きか? 食べてみるか?」
「……これ、じゃがいも……ちがう……」
そう言って、少女はまた黙り込む。
「知ってるじゃが芋じゃないってことかな?」
女の質問に少女はゆっくり微かに頷いた。
「どんなじゃが芋なら知ってるんだ?」
「おなべのそこで……ちいさいの……」
男の質問に、少女はぎこちなく答える。
煮たか茹でたものなら知っているということらしい、と、二人は判断した。
「それならたべていいって……水車小屋の旦那が……」
「ん~……もしかして、残飯のじゃが芋なら知ってるってことか?」
「しかも、それしか食べたことがないって様子ね。あと……知ってる言葉には反応するっぽい?」
「料理の仕方が違うけど、これもお前さんが知ってるじゃが芋だ。食べていいぞ。ほら」
男は少女の手にフォークを掴ませた。
少女はそれをじっと見たまま動かない。
「それはフォークっていうの。食べ物を食べるのに使うものよ。こうして刺して……」
女はフォークを握る少女の手を取って、揚げたじゃが芋を一切れ刺した。
「はい、口を開けて。あーん」
言われたとおり、少女は口をぱかんと開ける。
女が揚げたじゃが芋を近づける。
「はい、お口閉じて、食べてみて」
少女は口を閉じた。
じゃが芋の半分が口の中におさまる。
咀嚼していた少女の目が大きく見開かれ、きらきらと煌めいた。
「ははは、美味いか?」
返事をすることなく、少女は夢中で芋を頬張る。フォークを使うのがもどかしくなったのか、手掴みで食べだした。
痩せこけた頬がぷっくり膨らんだところでピタリと動きが止まる。今度は戸惑いに目が見開かれる。ふるふると小さく震えだした。
「ああ、喉に詰まったのか。ほら、これを飲むんだ。甘くて美味いぞ。ゆっくりだ」
長身は少女の唇にコップの縁を宛がった。
ゆっくりと傾けてジュースを少量、口に滑らせる。
細い喉が一度動くと、小さな手は長身の手ごとコップを掴み、これもごくごくと勢いをつけ喉の奥へと流し落とした。
飲み終え、ごふごふと咳いている小さな背中をさすり、女は軽快に笑った。
「美味しかった? じゃあ、次はもっと美味しいかもよ」
「これのことかい? ほいよ、お待たせ!」
丁度良いタイミングで、店主が件の料理を運んできた。
とんとんとんとリズミカルにテーブルに置かれた丸い深めの器の中には、大きめに切られたごろごろの野菜数種とスープが満たされている。
少女は器に顔を近づけ、くんくんと鼻を動かした。
その小動物めいた仕草に、女はくすりと笑って言う。
「これはクゥリっていうの。ここのはまあ……普通かな? あたしが作った方が美味しいわよ」
「バカ言うな。お前みたいに香辛料大量に使ったクゥリなんざ、料金を今の十倍は貰わなきゃ商売にならねぇっての。うちじゃこれが精一杯だよ。いらねぇなら……」
「あー、食べる食べる。ていうか、どうしてあたしのだけ下げようとすんのさ、親父さん、意地悪だなー、もー」
「お前が失礼なこと言うからだろ」
長身は女を叱った後、スプーンを手にしてすぐさま表情を緩め、少女に語りかけた。
「こいつはスプーンっていうんだ、これで食べるんだぞ。こうして……」
少女に見本を示すよう、クゥリを掬い、ふーふーと冷ましてから口に運んだ。
「うん、今日のはよく煮込んである。いつもより美味い」
「マジ? ラッキー。こないだはできたてでサラサラすぎてイマイチだったんだよねー。いっただっきまーす」
女もわざと男と同じようにクゥリを冷まして食べる。
熱さで少女が火傷しないようにする為だ。
「ほんと、美味しい。さ、やってみて」
少女はスプーンをぐっと逆手で掴み、ぎこちなくクゥリを掬う。
スープとじゃが芋が載ったそれを、二人を真似てふーふーと息を吹きかけてから、ゆっくり口に運んだ。
ずずずと大きな音をたてスープをすすり、じゃが芋を咀嚼する。
揚げたじゃが芋の時とは違い、複雑な表情で飲み込んだ。
「……口の中がひりひりする……」
男はジュースの入ったコップを少女に持たせ、言った。
「ちょっと辛かったか。これを飲むとひりひりがなくなるぞ。辛いのはクゥリに入ってる香辛料のせいだ」
「こうしんりょ……う?」
少女の疑問に女が答える。
「食べ物を美味しくする為の材料の名前よ」
次から次に出てくる知らぬ単語に、少女は首を傾げる。
「なまえって……?」
「物につけられている。フォークとかスプーンとかみたいにな」
男は親指で自分を指して、言った。
「俺達にも名前がある。ネフリティ・バルートだ」
「あたしは、フォルティア・ワルトローザ」
「呼びにくかったらネフとフォルでいいぞ。で、お前さんの名前は?」
少女は俯いた。
何かを思い出そうとしている。
二人はエールを飲みながら、少女が口を開くのを待つ。
小さな声が響いた。
「おい」
意外な答えに、二人は互いの顔を見合わせる。
「こら。何やってる。来い。グズ。のろま。役立たず。無駄飯食い」
「ちょっと待って。それってあんたの名前なの?」
「水車小屋の旦那が言ってた」
エールを一口飲んで、ネフが小さく息をついた。
「名前もつけられないでこき使われてたってことか」
「じゃあ、あたしが名前つけてあげよっと。クゥリってどうかしら?」
褒めろという表情のフォルに、ネフは鼻に皺を寄せた。
「おい待てこら、この単純バカ。いくらなんでもそれはないだろ。拾った犬にももっとマシな名前つけるだろ、普通」
「え? いいじゃない、クゥリ。美味しいし」
「そういう意味じゃない! 俺がつけるから黙ってろ」
「駄目! あたしがつけるんだからネフこそ黙ってなさいよ!」
「やかましい! お前に任せたら禄なことにならねぇ! 俺が可憐なのをつけてやる。うーん、そうだなぁ……」
「エール!」
目を三角にしたネフは、無言でフォルの口に山盛りの揚げた芋を押し込んだ。
「もががっっっっ!!」
「何言ってるかわかんねーよ。ばかばーか。つか、俺がつけるつってんだろ! さっさとメシ食って寝ろ! ばーーーーーーーか」
喧嘩をしている二人に挟まれた少女に、店主が優しく声をかけた。
「こいつら、いつもこんな調子だから気にすんな。ん~、この辺りじゃ見かけたことのない顔だな。お嬢ちゃんはどっから来たんだ? 住んでたとこは?」
「住む……?」
「寝たり起きたりしてたとこだ。水車小屋の旦那って人のとこか? どこにいるんだ?」
少女が指さした方角に店主が眉を顰めた。
「そっちに水車小屋なんかあったかなぁ?」
「この街じゃないのかもな」
ネフの言葉に店主はぽんと掌を打つ。
「じゃあ、あれかな。十日くらい前だったかなぁ。森の向こうにある小さな村が夜盗か何かに全滅させられてたって言ってた調査隊の学者様がいてな。そこで休憩するつもりだったのにできなかったらしい。もしかして、この子、そこの生き残りかもな」
「学者の調査隊……そういえば、最近よく見かけるわね。何調べてるのかしら?」
「元老会議からの依頼で動いてるらしいんだけど、依頼内容は黙っとく契約なんだとさ」
「で、水車小屋の旦那はどうしたんだ? 一緒じゃないのか?」
ネフの言葉に、少女は平坦に呟いた。
「水車小屋の旦那……動かなくなった……みんな、動かなくなった……薪を集める時間になったから森に行った……」
「もしかして、その森であのガキンチョの一団に会ったのかしら?」
フォルの推測に店主が反応する。
「街の孤児達のことか? そういや森に食いもんを探しに行く奴らもいるって聞いたことあるぞ」
「それで、かっぱらいの囮にする為に連れてこられて、見捨てられたと……」
考えながら顎髭を手遊びするネフに、店主が問う。
「で、この子、どうすんだ? まさか、このまま引き取るってのかい? お前達が」
ネフとフォルは互いを見た。
「どうするか考えないとね」
どことなく無機質な響きのフォルの声に、ネフは僅かに目を伏せた。