第1話 赤いアザ
12時になった。もうすぐ店に行かなければ・・・庭の景色に遊ばせていた美菜の目が、仕事のモードに入った。客が来る前にやることは、たくさんあった。急いで身支度をし、ルンバに、「ちゃんとお留守番していてね。ママは、お仕事に行ってくるからね。」と言って頭をなでた。ルンバは、淋しがってくんくん鳴いたが、じきに、好きにすれば、僕を置いていけばいいや、とでも言いたげにそっぽを向いて寝てしまった。苦笑いをして、美菜はじゃあね、と言って玄関を閉めた。
雨の中、車を走らせていると、美菜の脳裏に女性の泣き叫ぶ声と、ある思いが走り抜けた。
「行かないでーっ」
それはとても悲しい思いだった。こんなことはめずらしかった。客が店に向かっているときの想念が、美菜にぶつかってきたのだ。
(きょうのお客さんは、ちょっと頑張ろうかな!)
美菜は、身が引き締まる思いがした。雨が激しくなってきた。その雨を蹴散らしながら、美菜は店へと向かった。
店に着くと、軽い掃除をし、一連の支度をした。ランプをつけ、ローソクに火を灯した。薄暗い部屋に、ランプとローソクの灯りが浮かび上がり、美菜の影をゆらゆらと揺らした。ヒーリングミュージックをかけた。水が流れるような静かな音楽が部屋を満たした。
(きょうの香りは、何にしようかな。)
何十種類もあるアロマオイルの中から、哀しみを癒すラベンダーに、ほっとするカモミールを混ぜ、アロマポットに垂らした。香りは、下に置かれているローソクに炙られて、小さい部屋いっぱいに広がっていった。あとは客が来るのを待つだけだ。美菜は、客が近付いてくるのを感じた。哀しみの想念が近付いてきたのだ。その想念が、扉を叩いた。
トントン
美菜はゆっくりと玄関に向かい、静かに扉を開いた。そこには、30代半ば位のふっくらした面長の女性が立っていて、美菜を見ると、
「はじめまして、上月蜜子です。よろしくお願いします。」
と、落ち着いた声で言い、ゆっくり頭を下げた。美菜は、微笑みながら、
「どうぞこちらへ」
と中へ促した。その蜜子という客は、中へ入ると、うっとりするような顔で部屋の中を見渡した。そして信頼するまなざしで美菜を見つめた。美菜のモスグリーン色のユニフォーム姿がラベンダーの香りの部屋と一体となり、もうすでに客を癒し始めていたのだ。
客をベッドにいざなうと、美菜は、
「きょうはようこそいらっしゃいました。どうぞ気をお楽になさってください。まず服を全てお脱ぎになって、この紙パンツをはいていただけますか。そしてこのバスタオルを身体にかけ、ベッドにうつ伏せに寝てください。用意ができ次第、お声をかけていただけますか。」
と説明した。客は、はい、はいとうなずき、美菜がアジアン風の緑色の厚手の生地に竹やらくじゃくやら森の風景が描かれているカーテンを閉めると、着替えを始めた。
上月蜜子と名乗った客は、アロママッサージは今日がはじめてだった。風のうわさで、ここのマッサージはとても気持ちがいいということを聞き、肩こりがつらいので、予約をしたのだ。蜜子は、少し肌寒いので着てきた黒のカーディガンを脱ぎ、淡いブルーのブラウスのボタンを外した。黒のフレアースカートを脱ぎ、ブラジャーもパンティもみんな脱ぎ、まとめて近くに置いてあったかごの中に入れた。そして紺の紙パンツを窮屈そうにはき終えると、大判のバスタオルをからだに巻きつけ、ベッドにうつ伏せになり、顔のところに空いている穴に顔をうずめた。ラベンダーの香りが鼻をくすぐった。一通り支度が終わると、
「できました」
と、美菜に声をかけた。はい、と美菜はカーテンを開けると、蜜子のもとに歩み寄り、優しく身体に巻きつけたバスタオルを掛けなおした。
「苦しくないですか」
「はい、大丈夫です」
美菜はゆっくりと蜜子の頭の方に行き、オイルを手に取りながら言った。
「わたしのお店では、最初のカウンセリングは行いません。なぜなら、お客様は、ご自分の心と身体の表層しか見えないからです。わたしの手が、お客様のお体に触れ、そしてお客様の問題点を探ります。だからお客様は、ゆったりと寝ていらっしゃってください。アロマオイルも、お客様の身体の状態を判断してから加えます。では、始めさせていただきます」
蜜子は、川の流れるような音楽に乗って、美菜の声が遠くのもやの中から聞こえてくるような気がした。少しドキドキしていた気持ちもなくなり、ベッドと美菜に自分の身体をあずけた。
月の浜辺にたゆたう波音 月の光が照らすものは何?
ただ一匹跳ねるイルカよ、お前は何を思う
月の光が気持ちいいのか そうなのだね
月の光を浴びていると、何もかも忘れてしまえるのだね
そうか、イルカよ
お前は群れに戻らなくてもいいのかい?
もう少しここにいたいのだね
ここは、何も心配することのない場所だからね
何をそんなに悲しんでいるのかね
お前の瞳にこぼれた涙を、隠さなくてもいいんだよ
いいんだ、隠さなくても
悲しいときには、泣けばいいんだよ
お前の哀しみは、月の光が癒してくれる
しばらく、ここにいなさい、イルカよ
しばらく、ここにいなさい、イルカよ
ヒーリングミュージックに合わせるように、美菜の口から言葉が流れ出てきた。それは歌うような声だった。蜜子は、最初びっくりしたが、美菜の柔らかな温かい手に触れられながら、その不思議な言葉を聞いていると、なんだか心の底から落ち着けるような気がした。そして、なぜだか、自分の目にも涙が浮かんでいたのだ。そしてその涙は、次第にぽろぽろとこぼれ始め、顔の下に置いてある水に浮かべた一輪のプルメリアの花に一粒、一粒かかった。
「痛かったらおっしゃってくださいね」
「はい、大丈夫です」
美菜は、マッサージを続けた。蜜子の身体は、筋肉がこわばって、凝っていた。それをもみほぐしながら、美菜の頭には、あるビジョンが現れ始めていた。