第五話
「……はあぁ」
テーブルに突っ伏したまま、アディルは大きなため息を吐いた。
僅かに顔を上げると、いつもと変わらない見慣れた光景が視界に入ってくる。
自ら作成した家具も、若干の傾斜がある床も日常の風景として当然のようにそこにある。
ーー違うすれば、いつも騒いでいた娘たちの姿がないことくらいか。
それを再確認すると、アディルは力尽きたように視線を下げ、先ほどより大きなため息を吐くのであった。
――アリスとエイリスが学園に旅立って、今日でちょうど一週間になる。
二人が旅立った当初、アディルは清々しい開放感に包まれていた。
寂しい気持ちもあったが、もう会えなくなるわけではない。今度会うときには成長した姿を見せてくれるだろう。
そう割り切ると、なんだか肩の荷が下りたような、妙に力が湧いてくるような、そんな感覚に襲われたのだ。
その感覚に突き動かされるように、アディルは早速後回しにしていた家の修理に手をつけた。
今までは二人の喧嘩でまた壊されるのが分かっていたので大雑把に済ませていたのだが、その可能性が潰えた今回は丁寧に修繕していく。
それが終わると、今度は時間のかかる料理に挑戦してみた。こういう煮込み料理はアリスが出来上がるまで待てずに食べ始めるため、作る機会が少なかったのだ。
出来上がった料理の味は上々で、我ながら上手くできたと自画自賛する。
……しかし、そんな日が三・四日続くと、徐々にやることが無くなっていった。
時間を持て余してエイリスが置いていった本を読んでみたが、三十分もしないうちに止めてしまう。
ふと気づくと、何もしないまま時間だけが過ぎていたことも多くなった。
そして現在――アディルは最低限の家事だけ終わらせると、延々とため息を吐き続ける存在へと成り下がっていた。
――まさか、一人での生活がこんなに虚しく感じるとは思わなかった。
今となっては、あれほど煩わしいと感じていた二人の喧嘩ですら恋しい。
すっかり抜け殻のようになったアディルは、もう一つ直面している問題についても頭を悩ませる。
所持金が底をついたのだ。
ある程度まとまった金を生活費としてエイリスに――アリスは信用できなかったので、管理はエイリスに一任した――渡してあるが、五年という長い学園生活を過ごすには心許ない金額だ。
追加で送ると娘達には話しているが、実際には当てがまったく無い。
「どうしたもんかなぁ……」
魔術士として働けば大金を稼ぐ自信はある。
だが、できることならそれは避けたかった。
アディルは王の命令で魔族討伐の旅に出たが、『聖戦』後も帰国せずにそのままこの山に移り住でいる。
そんなアディルが魔術士として活躍し、それを母国が知ることになったら――最悪、強制的に連れ戻される可能性もある。
そうなってしまっては元も子もない。
そうなると大都市であるカルディアへ行き、一般的な仕事をするのが一番現実的な稼ぎ方になるが、特技も技術も無いアディルができる仕事の給料など高が知れているだろう。
そうなると残るは――
「……誰かから借りるか?」
この辺りでアディルの知り合いといえば麓の村人くらいだが、あの村は決して裕福ではないし、アディルも世話になった人たちに負担をかけたくはない。返せる当ても無いのだ。
いい案が思い浮かばず、アディルはまたため息をこぼす。
――こんな時、思い出すのは若い頃の失敗である。
金銭に無関心だったアディルは与えられた褒賞の金貨を、「荷物になるからいらん」と言って実家や仲間に押し付けていたのだ。
あの金貨の一割でもあれば、少なくとも金に困ることはなかっただろう。
その時、アディルの脳内に閃きが走り、素早く上体を起こした。
口端を吊り上げて邪悪な笑みを浮かべる。
――いる。金を貸してくれる余裕があり、尚且つ魔術士として働いても目立たないように細工できる人間が。
「あいつらがいるじゃないか……!」
頭に浮かんだのは、かつて共に戦った仲間たちの姿である。
十年前、彼らは総じて重要な役職に就いていたのだ。『聖戦』で功績あげたこともあり、今では更に大きな権力を持っているに違いない。
長い間一緒に旅をした自分達――特に男の仲間――の間には、お互いに弱みや隠し事を少なからず共有している。
立場の無い自分と、立場のある仲間達。公表すればどちらに大きなダメージが入るかは言うまでもないだろう。
共に命を懸けて戦った仲間の窮地なのだ、なんとしてでも助けてもらうとしよう。
黒い笑みを深めながら、アディルは計画を詰めていく。
「あいつらから強請る――じゃない、援助してもらうにしても、問題はこの近くに誰もいないことだな……」
アディルが住んでいるのは、大陸北部を治めるアースラ王国の西端である。
アースラ王国には誰も住んでいないので、必然的に他国へ向かわねばならない。
ここから比較的近い国は西部の『シルヴァリエ帝国』だが、ここにも誰もいないし、しかもアディルの出身国である。
下手に近づこうものなら厄介なことになるので、当然却下。
そうなると、残る選択肢は東と南の二つだ。
「南は人族の国だから馴染みやすそうだが……あいつがオレを助けてくれるとは思えん」
住んでいるのは魔術士の女だが、彼女はアディルとは馬が合わなかった。軽い冗談で殺されかけたこともある。
……まぁ、これに関しては女の仲間全員から罵りを受けたうえに私刑されたので、もしかしたら少しは非があったのかもしれない。
「となると、目的地は東だな」
大陸東部は人族以外の種族が統治している地域だ。
正直、人族への――特に魔術士への風当たりはあまり良くないのだが、この際文句は言っていられない。
東の地域には、かつての仲間が三人も住んでいる。
一人くらいは、いい返事がもらえるだろう。
――そうと決まれば膳は急げである。
どうせ家にいても暇を持て余しているのだから、さっそく旅の準備を始めることにした。
バッグを引っ張り出すと、簡単に荷造りを済ませる。
久しく着ていなかった外套――若干かび臭い――に袖を通し、最後に財布の中身を確認した。
銅貨が五枚。
国を越える旅の資金どころか、明日の生活すら厳しい金額だ。これでは旅の道中、食べることすら儘ならない。
アディルは軽い財布をバッグへ乱暴に詰め込むと、踵を返して家の奥へ向かう。
「ついにこの時がきたか……ワズエル、お前が託してくれた剣……無駄にはしないぞ……!」
仲間であった聖騎士に感謝の言葉を口にすると、アディルは地下の保管庫へと向かう。
……一応訂正しておくが、剣は託されたわけでもなんでもなく、別れ際に酔って寝ていたワズエルから無断で拝借したものである。
盗んだといってもいい。
それもアディルの中では些細な違いのようで、後ろめたい感情を一切見せずに保管庫の扉を開けると奥の方へと進んでいった。
「ん?」
剣を保管――というか放置――していた場所に近づくと、アディルは違和感を覚えた。
おかしい、ありえない光景が目の前にある。
目を擦り、もう一度見てみるが現実は変わらない。
…………剣が無かった。
その事実に、アディルの全身から冷たい汗が噴き出す。
「……いやいやいやいや、そんなはずは無い! 確かにここに置いていたぞ!?」
アディルが動揺して剣が保管してあった周辺を見回すと、そこに小さい紙切れが置いてあることに気づいた。
「…………」
そこに書かれている文字を見た瞬間、アディルの顔から一切の感情が消えた。
『おじさんへ。
やっぱり学園でいじめられたら必要になると思ったので、この剣持っていくね! アリスより』
膝から力が抜けていくのを感じる。
旅立つことを決意したアディル。
その決意は、旅立つ前に最愛の娘によってへし折られることとなった。