第三話
「よ~し、じゃあ私から逃げ切れたらみんなの勝ちだよ! はい、スタート!」
掛け声と同時に、アリスは魔力を足に集中させ、残像すら生み出しかねない速度で走り出した。
追いかけられているのは、五歳から十歳に満たないような小さな子供たちだ。光を纏って追いかけてくるアリスを視界に捕らえると、一様に驚いた表情を浮かべる。
「はえぇ!」
「わぁ、捕まった!?」
「アリスねぇちゃん、魔術は反則だろ!?」
口々に文句を言う子供たちに、アリスは腰に手を当てて堂々と言い放つ。
「本気で相手するのが礼儀ってもんでしょ! なにより、負けたらくやしいじゃない!!」
「「「おとなげない!!!」」」
「はっはっはっ、さぁ、逃げきってみせなさい!」
アリスは両手を広げて、――やたらとハイテンションで――村の子供たちを容赦なく追い掛け回す。
そんなアリスに関わらないように距離をとり、エイリスは木陰で本を広げて、女の子に本を読み聞かせていた。
――ここは、アディル達が暮らす山の麓にある小さな村だ。これといった特徴も無く、住人の殆どが農作業に従事するこの村は、のどかという言葉がしっくりくる。
この村で過ごしていると、時間さえゆっくりと流れているような、そんな気さえしてくるから不思議だ。
そんなことを考えながらアディルが子供たちの様子を遠くから眺めていると、後ろから人の気配が近づいてくる。
「相変わらずだな、アリスは」
声を掛けてきたのは、五十半ばになるこの村の村長だった。
しわの刻まれた顔に柔和な笑みを浮かべた村長は、アディルに並び子供たちを微笑ましそうにみつめる。
「エイリスも元気そうだ。助かるよ、子供たちの面倒をみてくれて」
「面倒をみているのか、みられているのか……あれじゃよく分からんがな」
苦笑交じりに告げるアディルに、村長はアリスの方に視線を戻すと、「確かに」と笑う。
「……早いものだな。お前たちがこの村に顔を見せるようになって、もう十年か」
村長には先ほど、来週からアリスとエイリスがカルディアの街で暮らすと伝えてある。アリスとエイリスをよく気に掛けてくれていた彼からすれば、二人の旅立ちには感慨深いものがあるのだろう。
「感謝しているよ、村の人たちには。随分助けられた」
「それはこちらの台詞だよ。覚えておるか、お前さん達が初めてこの村に来たときのことを?」
「……ああ。あまり、いいタイミングではなかったな」
アディルがこの村を訪れたとき、その風景は現在とはまったく違うものだった。
響き渡る人々の悲鳴。
火の手が上がる家屋。
そして――それをあざ笑うかのように君臨していた、黒い獣。
「あの頃はこの辺りでも《影の獣》(シャドウ・ビースト)が頻繁に出現して、村にも大きな被害が出ていた」
二十年前、突如として出現した魔族と呼ばれる知性を持った異形の者たちと、それを統べる『魔王』とよばれる存在。
彼らは北の大地より大群を率いて南下し、人類に対して侵略を始めた。
そして『魔王』が生み出し、魔族たちが使役していたものこそ、《影の獣》(シャドウ・ビースト)と呼ばれる存在であった。
多種多様の姿をしていた《影の獣》(シャドウ・ビースト)たちには二つの共通点があった。
影のような黒い外皮。そして、魔術が使えること。
この世界で人族の魔術士だけが扱える、魔術。その力を、『魔王』や魔族、そして《影の獣》(シャドウ・ビースト)も持っていたのだ。
魔物に匹敵する強靭な体と魔術を併せ持つ《影の獣》(シャドウ・ビースト)は多くの人々を食らい、『勇者』が『魔王』を封印した『聖戦』と呼ばれる戦いから十年の時を経た今でも、その恐怖は色褪せることなく語り継がれている。
「国も『聖戦』の影響で弱っていたからの。騎士団に頼れず、冒険者に依頼する金も無く途方に暮れていたこの村を救ってくれたのは、アディル、間違いなくお前さんだよ」
村長の脳裏に浮かぶのは、アディル達がこの村に初めて現れたときのことだった。
十年前、この村は《影の獣》(シャドウ・ビースト)の襲撃を受けていた。
体長が四メートルもある狼のような外見をした《影の獣》(シャドウ・ビースト)は、その鋭い牙と魔術による炎で村を蹂躙していった。
果敢に立ち向かっていった村の男達はその牙によって食いちぎられ、逃げ惑う人にも《影の獣》(シャドウ・ビースト)は容赦なく襲い掛かった。
村長は《影の獣》(シャドウ・ビースト)に吹き飛ばされた際に折れた右足をかかえ、その地獄のような光景をただ眺めることしかできなかった。
そんな絶望の中に現れたのは、黒装束を纏った赤髪赤眼の男だった。
男――まだ二十歳で若さと覇気にあふれていた頃のアディル――は村の惨状を一瞥すると、眼光を鋭くして《影の獣》(シャドウ・ビースト)のほうへ歩き出していった。
《影の獣》(シャドウ・ビースト)は近づいてくる新たな獲物の気配に振り返り、口を大きく開け飛び掛かる。
男が無残に噛み殺される光景が頭をよぎった村長は、「逃げろ!」と叫んだが――次の瞬間、目に映ったのは想像とはまったく違う光景だった。
――一撃。《影の獣》(シャドウ・ビースト)の側面に一瞬で移動した男は、炎を纏った抜き手をその横腹に突き刺し――体内から燃やし尽くしたのだ。《影の獣》(シャドウ・ビースト)は断末魔を上げる時間さえ与えられず、灰となって消滅した。
あまりにもあっけない絶望の終結に村長はポカンと口をあけ、しばらくの間動けずにいた。
「あの時は驚いたよ。こんな田舎じゃ魔術なんてものはお目に掛かれないからな、お前さんの魔術を見た瞬間、《影の獣》(シャドウ・ビースト)の仲間かと思ったくらいだ」
「……まぁ、魔族どもが現れてから、魔術士は魔族の手先であるとか、色々と言われたからな」
アディルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。魔術士にとっては面白くない話だが、そういう考えを持つ人間は今でも残っているのだ。
「それに、魔術士様がわざわざこんな辺鄙な村に移住したい、というのも怪しかったしのぉ」
「確かに」とアディルは他人事のように同意する。
十年前といえば、『聖戦』で多くの魔術士が倒れ、どこの国でも魔術士が不足していたのだ。《影の獣》(シャドウ・ビースト)を一瞬で屠るほどの実力があるアディルなら、大金を払ってでも雇いたいと考える人間は多くいただろう。
「誰かの命令で力を振るうのは性に合わなくてね。……それに、オレにはあいつらがいたからな」
アディルの視線の先には、子供たちを全員捕まえてドヤ顔をかますアリスと、いつのまにか木陰で子供と一緒に昼寝をしているエイリスの姿があった。
「……あの子らもいい笑顔をするようになった」
村長は眩しいものを見るように、優しく目を細めた。
とある事情で、幼い頃のアリスとエイリスは人を極端に恐れていた。
アディルに対してはそんなことは無かったが、それこそ、他の人間に対しては視界に入るだけで恐慌状態に陥るほどだった。
そんな事情もあって、村で暮らすことを諦めアディルは山の中腹に居を構えることになった。村で暮らせば人が視界に入らないようにすることなど不可能だったからだ。
それでも村に比較的近い山に家を建てたのは、定期的に村に連れて行き、少しずつ人と触れ合っていくことで、徐々に恐怖心を薄れさせていこうと考えたからだ。
これには時間がかかったが、今の二人を見れば結果として良かったのだろう。
そんな二人の様子を知っている村長は、しばらく孫を見るような暖かい目で見守っていたが、ふと、思い出したように隣の男に話しかける。
「そういえば、お前さんはこれからどうするのだ、アディルよ?」
「ん?」
質問の意図が分からず聞き返すアディルに、村長はあきれを含んだ表情を浮かべた。
「ん? ではない。あの子らは学園の寮に入るのだろう? カルディアで一緒に暮らすわけでもないだろうし、もう山に住む必要もあるまい」
「言われてみれば、そうだな……」
そもそも、山に移り住んだのはアリスとエイリスの為だ。目的が無いのであれば、山暮らしというのは不便でしかない。
「この村に移住してくるか? お前さんのことは皆信用しておるし、なにより腕の立つものが居るというのは安心につながる」
『魔王』がいなくなって十年、新しく生まれることのなくなった《影の獣》(シャドウ・ビースト)は数を減らし、この辺りでは姿を見なくなった。
この世界に遥か昔から存在している魔物に関しては、生息している山に近づかなければ問題ない。
目に見える危険は無くなったが、やはり力のある魔術士がいるとなると安心なのだろう。それが《影の獣》(シャドウ・ビースト)を圧倒する魔術士なら、尚更だ。
「まぁ、お前さんほどの魔術士なら都市に出れば稼ぎようなどいくらでもあるだろう。それでも、候補の一つとして考えてみてくれ」
「そうだな、考えておく」
それから二人は、はしゃぐ子供たちのほうへ視線を戻していった。