第一章 消えた少年5
天守咲耶は布団に入り、すでに眠りについていた。
咲耶は日本式が好みらしく、和室を自分の部屋として使用している。
お風呂にも入り、寝間着である浴衣にも着替え、気持ちよく寝ていた。それなのに。
隣のリビングのさらに隣、奏真の部屋から聞こえてくる騒音で目を覚ましてしまった。
「……うるさいなぁ……」
初めはまた奏真が何かしてるんだろうと思い、寝直すことにした。だが、騒音は一向に収まらない。しかも、どんどん大きくなっている。
「あぁ、もう!」
いい加減注意しなければと、掛け布団をはねのけた、その時だった。
奏真の悲鳴が聞こえた。
「!?」
あの子の身に何かが起きた! と思うよりも先に、咲耶の体は動いていた。キッチンを通り、奏真の部屋の前に立つ。このまま入ってしまおうか、と考えたが一応ノックをしてみる。
「奏真? どうしたの?」
返事はない。念のためもう一度、今度は少し強めに扉を叩いた。
「奏真ー?」
声も先程よりか幾分、大きくしてみたがやはり反応はなかった。
悪い予感がする。どうしようか迷ったが、ここはもう意を決して、咲耶は中へ入ってみることにした。
「奏真、入るわよ。いいわね?」
ドアのノブを捻り、ゆっくりと開けてゆく。
「何これ……」
半分開けたところで、中の様子がチラッと見えて、つい口からこぼれ落ちてしまった。咲耶はその場に固まり、ノブを離したが、ドアはそのまま開いていった。
「奏真……?」
奏真がいない。まるで神隠しにでも遭ったかのように忽然と消えている。
加えてこの部屋の状況。
ぐちゃぐちゃに荒れているのだ。奏真の部屋はいつも汚くて、何度片付けなさいと言っても聞かないが、そんなレベルを遥かに超えている。テーブルはひっくり返り、本棚は前のめりに倒れ、クローゼットに掛けてあった服は部屋のあちこちに散らばっている。まるで、この空間にだけ台風がやってきたのか、と思うぐらい乱雑な光景だった。
咲耶は自分が寝てる間に強盗が入り込んだのか、と考えた。しかし、それはないとすぐに却下する。この部屋にベランダは無いし、小さい窓はあるが割られていない。
一応と思い、玄関のドアも確認しに行ってみる。鍵はちゃんとかかっている。
人が侵入した形跡はどこにも見当たらない。ならば奏真はどこに行ったのか。あの部屋で何が起きたのか。
咲耶は再び奏真の部屋に戻り、腕組みしながら頭を巡らせる。
強盗でなければなんなのか。まさか奏真が何かに腹を立てて、暴れて、家を飛び出してしまったのか。さっき聞こえたのは悲鳴ではなくて、怒号だったのだろうか。
(もしかして、今日やりすぎちゃったのかしら……)
咲耶は昨晩のことを思い出し、少しだけ反省した。
いや、ならばわざわざ鍵をかけて家出するのはおかしい。
とりあえず部屋の中に入ってみることにした。散乱しているものを踏まないように注意しながら歩いてゆく。
中央に差し掛かったところで、咲耶はピクッと反応した。
そこは丁度、あの黒い渦が発生した場所である。
(これは……まさか……)
立ち止まったまま、神経を集中させる。そして、確信した。
(もうだいぶ空気中に溶けているけど……。紛れもない、魔力だわ。しかも超高密度の……)
部屋中をよく観察すると、自分の立っている位置を中心として物が集まっていることに気づく。
そこから咲耶の行動は早かった。部屋にある全ての物品に次々と触れていったのだ。触っては放り投げて、触っては放り投げてを繰り返して。何かを探し続けるように。
(これじゃない……これも違う……)
そしてある物に触れた途端、ピタッ! と咲耶の動きが止まった。
ベッドだ。シーツはぐちゃぐちゃで枕はどこかにいってしまっているが、ある一角だけ、まだ生暖かい。
「見つけた!」
咲耶が探していたのは奏真がどこにいて、何をしていたのか、という痕跡。奏真はここに座っていて、何かに巻き込まれたに違いない。
温もりが残っている場所に、咲耶は腰を下ろした。背筋をピンと伸ばし、顎を少し持ち上げ気味に、両手を胸の前で組み、足をきちんと揃えて、目を閉じた。あたかもその姿は、神に祈りを捧げるシスターのようだ。
――静寂。部屋を暖めているエアコンの静かな風の音だけが、BGMとして流れている。
しばらくそのままじっとしていた後、咲耶はほとんど唇を動かさずボソボソと何かを呟いた。おそらくそれは仮に人が近くにいても聞き取れないだろう。それぐらい、小さい。
咲耶の全身から光が生まれた。色は青白。やんわりと咲耶を包み込み、ゆっくりと明滅するオーラとなる。
そして、光は咲耶の脳裏にある映像を映し出す。
数分前にこの部屋で起きた出来事が、バーチャルシミュレータのように咲耶の主観が奏真の主観となり、シンクロして再生される。
突然目の前に現れた黒い渦に、様々な物が次々と吸い込まれてゆく。マンガを取りに行った奏真が、咲耶の体から抜け出し、飲み込まれた。
そして黒い渦は徐々に縮小していき、消滅した。まるで役目を終えたといわんばかりに。
(なるほどね……)
咲耶は納得すると、深く長く息を吐いた。体の力も自然と抜けていく。薄く目を開けると、光のオーラは空中に小さな粒となって霧散していった。
「う……ッ」
咲耶は軽い目眩に襲われ、体がよろめいた。頭を押さえながら苦しそうに、
(さすがに遡及魔法は精神の消耗が激しい……。しかもこんな、何も得られない世界じゃ……。それなのに、あんなものをこの世に生み出すなんて。さすがは……)
とそこへ、咲耶の脳にザザッと短いノイズが走る。次に聞こえたのは声だ。
『ついに動き始めたようだな』
五十、いや六十ぐらいだろうか。低温の老人の声で、しゃがれている。だからといって弱々しいわけではなく、無骨で、聞く者に威圧感を与える感じだ。
脳に直接響いてくるその声に、咲耶の表情は僅かながら歪む。唇を一切開かず、心の中で男の言葉に答えた。
『……監視……していたのかしら?』
『当然だ。あの重罪人がいつ動くか分からないからな。我々、“エリオスの代行者”はあの“失敗作”を常に見張ってなくてはならん』
『……ご苦労なことね』
咲耶の口調からは明らかな不満が含まれていた。それを感じ取った男は、
『何を苛立っている? 一番身近な監視役は貴様であろう?』
『だからこそよ。私が信用できないの?』
『我々も状況を把握したいだけだ。……それで分かったことだが、ここ最近の貴様の言動は目に余るな』
『……どういうこと?』
『まるで今の生活を楽しんでいるようではないか。残忍で冷酷無比で知られるあの“万能の剣”が。なんだ、腑抜けたのか? それともほだされでもしたか?』
『…………』
舌打ちが無意識に出てしまった。こいつはなんだ、わざわざ嫌みでも言いにきたのか。と、脳内の会話とは別のチャンネルに器用に切り替えて咲耶はそう思った。
『冗談言わないで。いい加減、あの子を飼うのにうんざりしていたところよ』
『あの子……か』
『何よ?』
『いや……何でもない』
相手の表情は見えない。だが、声色に嘲りが混じっているのが丸分かりだった。この野郎……と、咲耶は唇を噛んだ。
『ひとまず貴様の任務は終了だ。一度こちらに帰還しろ』
『……そうね。ここの処理が済んだらすぐに向かうわ』
『うむ。……それはそうと、貴様は上の者に対する口の利き方というものが一向に直らんな。“万能の剣”よ』
咲耶はその“二つ名”で呼ばれる度、顔をしかめた。それで私を呼ぶな、と言わんばかりに。
『私はあなたを一度も上司と思ったことなんかないわ、“圧殺の管理”。そもそも私達“エリオスの代行者”に上下関係など存在しない。並列にして、同列。仲間意識も無ければ、お互いに干渉しない。あるのは断罪という共通思想に基づく行動だけだわ』
向こうの空気が変わったように感じられた。それでも咲耶はお構い無しに、
『加えて言えば年功序列でもないわ。もしランク付けするとしたら個々の実力じゃないかしら?』
言いながら咲耶の口角が少し持ち上がった。その笑みには、いつも奏真に向ける時の優しさ、無邪気さなどは微塵もない。妖艶な表情から生まれる冷笑そのものだった。
咲耶は感じ取っている。“圧殺の管理”も咲耶が何を言いたいのかを理解していることに。だから何も言い返してこない。
咲耶は敢えて畳み掛けるように続けた。
『純粋な実力はあなたよりも私の方が上な筈、よね? 口の利き方に気を付けるのは“圧殺の管理”、あなたではなくて?』
『…………ッ』
今度は“圧殺の管理”が舌打ちした。
『何を苛立っているのかしら? 私は真実を述べたまでだけど?』
立場が完全に逆転している。ばつが悪くなったのか、“圧殺の管理”は、
『……フン! 貴様の帰りが遅ければ儂が奴を裁いてもいいのだからな! よく覚えておくことだ!!』
ガキィッ! と乱暴な音と共に通信は切れた。キーンと隣で大声を出されたときのような耳鳴りに、咲耶はクラクラしながら、
「あのジジィはいつまで経っても変わらないわね……」
しばらくして治まると咲耶は、ふぅ……とため息を吐いた。
「さて……と」
咲耶が立ち上がった瞬間、ある物が目に止まった。
木製の枠で組まれた小さな写真立てである。拾い上げてみると中には、奏真と咲耶のツーショット写真が収められていた。満面の笑みで咲耶が奏真の背後から抱きつき、奏真は苦笑い気味だが、カメラ目線でピースを決めている。
これは確か……、と咲耶は思い出した。
去年、二人で温泉旅行に行ったときのことだ。海の見える高台でこの写真を撮った。ただ、もう夏も終わりで夕方も近かったことから、風が少し冷たかったのを今でも鮮明に覚えている。
「あのときは楽しかったなー。そうそう、奏真ったら旅館で浴衣が着れなくてあわあわしてたっけ。それに……」
写真を眺めながら、クスクス笑いながら、咲耶は思い出にしばらく浸っていた。
「懐かしい……」
そんな思い出がたくさん詰まった写真に亀裂が入ってしまっている。ちょうど、二人の間を裂くようにして。風で飛ばされて、どこかにぶつかって割れてしまったのだろう。
咲耶は目を細め、写真をなぞった。まるで、いとおしいものを愛でるように。
「私も……変わったわね……」
もうその微笑みはいつもの優しく、穏やかなものに戻っていた。
「奏真……」
だが突然、フッと笑顔が消え、悲しみを帯びたものへと変わる。
写真立てを掲げて、
「……奏真」
咲耶は呻いた。苦しげに眉をしかめながら、見つめて、頭を振った。
惜別を絶たなければ、というように。
指先に力を込める。バシュッ、と写真立ては一瞬で原型を留めることなく、砂と化した。粉々に砕いたわけではない。まさしく、物質が全く別の物質へと変化したのだ。
白い粉末となった、かつて写真立てだったものは、サラサラと咲耶の手のひらから滑り落ちていく。
咲耶は手のひらに残った少量の砂粒をバッと払うと、スタスタと歩き出し、部屋を後にした。
その背中にもう、迷いはなかった。
――それから数時間後。
この地に住む人間の記憶の中から、誰一人として疑念を持つことすらなく、天守奏真という少年と、天守咲耶という女性の存在が消去されることとなる。
小さなマンションの屋上で、得体の知れぬ光を発する人影が目撃されたが、それが何なのか、誰にも知る由がなかった。