もしも
「もしも、さ」
「もしも?」
「おれの目が見えなくても、母さんはきっちり化粧をするだろう、とさ」
「はあ?」
いきなり、瑞樹は語りだした。
「だから、おれが母親のことでからかわれないように、化粧もばっちりするんだと」
県立病院の一室、大部屋の一番隅。ここには水野悠平という少年が入院している。というか、僕のことだ。そして、僕の隣のベッドにいるのが横山瑞樹。僕の大親友。同じころ、この病院に入り、それからは離れることなくずっと一緒にいる。
「いきなり、なに。バカなの」
「バカって――!答えてやってるんだ、続きもきちんと聞けよ」
からかいではなく、真剣に語っているのか。
「お、おう」
「もしもおれの耳が聞こえなくても、母さんはおれに、何でも話すだろうとさ」
「なんで」
「家族のことを知ることができないと、おれが不安になるから」
そして、なぜこんな話になったのか。
約二時間前のことだ。僕は母さんと喧嘩をした。僕の、体のことについて。
僕の足は動かせない。病気のために何ヶ月も寝たきりになったせいだ。今は病気の治療と平行して、リハビリも行っているが、すぐにはよくならず。
「なあ、これが僕の転院話とどういう関係があるんだ?」
「はいはい、いい子だから話を聞きなさい」
僕の病気を治すのに、いい病院が見つかったのだ。そこはリハビリ用の器具も充実している。すぐにでも飛びつきたい話だが。
僕は、転院したくない。……転院してしまうと、瑞樹と離れてしまうではないか。
「もしもおれの声が出なくても、母さんは絶対におれの言葉を聞き漏らさないだろうとさ」
「なんで」
「おれのことを知ることができなくなるから」
もしも、を続ける瑞樹。僕はそっぽを向いて、考えを読まれぬよう、目を合わせないようにした。
瑞樹といたいと思うのは、子供っぽい考え方だろうか。あの約束を守ろうとするのは、いけないのだろうか。
「もしも今まで言ったように、目が見えなくて、耳が聞こえなくて、口が利けなくても、母さんはおれのことを愛しているだろう、とさ」
「――なんで」
「そりゃあ、母親だから。子供を愛さない親は、いないから」
なるほど、僕から母さんに謝らせようという魂胆か。瑞樹のほうをまっすぐ向く。
「それで?子供の心配してる親のために、僕が折れろって?」
「そうじゃなくてさあ。おれは、親っていうのはいつも子供のことを考えているんだって言いたいんだよ」
「ふうん」
冷たくあしらうと。
「あ、悠平、おれのことバカにしてるな」
「してないよ」
むくれたふりをして布団をかぶる瑞樹。
そのおどけた仕草に、思わず笑う。
「瑞樹、寝すぎ。もう昼だぞ、バカ」
揺り起こそうとする僕を布団の端から出した目で見て、瑞樹も笑った。
「やっと笑った」
などと言ったりして。
「は?」
「だってよ、悠平、前からあんまり笑わなかったからさ。無理してるんじゃないかって、ちょっと心配してたんだぜ」
安心したよ、と瑞樹は笑う。僕は苦笑して彼を小突いた。いつもこうだ。僕の元気がないとき、瑞樹は僕を笑わせようとしてくれる。
瑞樹は僕にとって家族と同じくらい、もしかしたら、それ以上に大切な存在だった。それもそうだ。朝から晩まで、家族よりも長い時間を過ごしているのだから。
「……分かったよ、母さんには僕から謝る。でもな、転院は絶対にしない」
「なんで」
「瑞樹、寂しくなるだろ」
彼は大きく目を開き、笑った。
哀しそうな、何かを抱えているような笑顔。
このごろ、瑞樹はよくこんな笑い方をしている。それが瑞樹らしくなくて、僕は嫌いだった。元気に笑ってほしかった。
「そんなこと言って、悠平が寂しいだけじゃなかろうな。お前、ホームシックになりそうな性格してるし」
すぐにいつも通り、にやりといたずらっぽい笑みを浮かべる瑞樹に、少しの安堵を覚え。
「病院がホームっていう僕らもどうかと思わないか?」
笑って茶化し返した。
何も、なにも知らずに。
次の日の朝だった。僕は妙に早くに起きた。暇だ。僕は瑞樹の顔を覗こうと隣のカーテンを引いた。確かこのごろ新しい治療をはじめ、疲れやすいとぼやいていたのを覚えている。きっと、まだ寝ているだろう。できたら顔に落書きでもしてやろうか。
シャッ、と軽い音を立てて瑞樹のカーテンを引く。
「……え」
「よう。早いな、悠平」
しかし、瑞樹は起きていた。
「お前こそ、早いんだな。何してるんだ」
全てを包むような笑みに、不安が募った。
「いや、別に。ただ目が覚めただけ。……あ、そうだ、ちょっと話さないか」
そう言って瑞樹は、僕にタオルケットを放り投げる。ありがたく僕はひざにかけた。
「おれさあ、思ったんだ」
「またいきなり、なにを」
「もしもおれの隣に悠平がいなかったら、人生つまらなかっただろうなと」
「また『もしも』か?このごろ多いな、それ」
「まあまあ。お前は?おれが隣にいなかったら、人生どうなってたと思う」
「そんなこと、考えたこともないな」
「考えてみろよ」
もしも、隣に瑞樹がいなかったら。
「んー、僕には、分からない。瑞樹が隣にいるっていうのが、僕の人生だったから」
「――そうか。じゃあさ、もしもおれが、明日死ぬって言われたら、どうする」
「はあ?」
縁起でもないことを言ってきた。
「……ほら、よくあるだろ?ベタなドラマの展開でさ。主人公の周りの人が死んじゃうっていうパターン」
「本当にありがちだな。もし、瑞樹が明日死んじゃうとしたら?……ん、まあ、泣く。尋常じゃないくらい泣く。泣いて、そして」
「そして?」
「生きる目的見失うな。瑞樹がいること自体が僕の生きてる目的になるから」
いぶかしげな顔をする瑞樹。僕は盛大に笑ってやり、落ち着いて、また続けた。
「昔約束しただろう?いつか二人で病気を治して、ずっと二人一緒に生きていくって。小さいころの僕はさ、それだけを支えにして生きてたんだよ。だからいつの間にか、瑞樹の隣にいることが生きる目的になった」
真面目に言い切った僕。
「……はは」
脱力したように瑞樹は笑って、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜ回す。
「ちょ、やめろよ」
「――な」
「え、何か言ったか」
「――ごめん」
「何が」
「約束、守れない」
僕は、意味が分からなかった。
「一ヶ月だ」
「は?」
「だから、余命一ヶ月」
「僕が?」
「何でだよ、おれがに決まってるだろ」
「僕を騙そうっていうのか」
「嘘じゃねえよ。本当のことだ」
肩をすくめて話す瑞樹。しばらくの沈黙の後、僕の肩にそれはのしかかってきた。
現実という、重い、重い荷が。
「…何そんなに落ち着いてるんだよ、ばか」
そのときの僕の顔は、地獄を見たときよりもひどかっただろう。飄々とした態度である瑞樹とは、確実に正反対だった。
「落ち着いちゃいないさ。これでもびっくりしてるぜ、半年前から」
「……半年前から?」
「黙ってて悪いとは思ってたけど、そうしていたかったんだ。もしもおれが打ち明けてたら、悠平、おれに気をつかうだろ」
悔しいが、正しい。もし打ち明けられていたら、僕はそうした。断言できる。
「悠平とはずっと変わらずにいたい。だってよお」
とたんに弱気な声が流れ出す。
「――何だよ」
「はじめて人が死んだのを見たとき、覚えてるか」
「――覚えてる」
あれは僕たちが五歳かそこらの、小児病棟にいたときだった。瑞樹の向かい側のベッドにいた子供が、突然死んだ。
「あの子のベッド、次の日の昼には綺麗になってたんだよ」
「そうだったな」
それも、覚えている。そこには元々誰もいなかったかのように、綺麗になったベッドを見て、あのとき僕たちはショックを受けた。
「たぶん、おれが死んだときもそうなんだろうな、と思ってさ」
「――え」
「次の日の昼には空っぽになって、おれがいたなんて痕跡はひとつもないんだろうなと思ったら、なんかむなしくなってな。どうせなら片付けをてこずらせてやろうと。ほら、生活感あふれるところって、片付けづらいだろ。おれの生活は、悠平と遊んで、悠平と笑って、悠平の隣にいること。だから、今までと変わらずに、悠平の隣で笑っていたかった」
自嘲気味に、瑞樹は笑う。
「無駄な悪あがきだけどな。病院だってプロなんだし。おれがどれだけ鮮やかに色を落としていっても、すぐ真っ白にする。そしておれのベッドは、次の日の午後には空っぽ。まっさら。おれの色なんてはじめからなかったみたいに、また次の患者が真っ白になったこのベッドに入るんだ」
僕は、何も言えなかった。
空っぽにならないと断言する自信がなかった。
「なんてな。あーっ、暗い話はこれでおしまい!遊ぼうぜ、悠平。今そっちのベッドに」
「でも瑞樹、少しでも休まないと」
「いいのいいの。な、遊ぼうぜ」
きっと僕がなんと言おうと、瑞樹は僕と遊ぶのだろう。だったら。
「バカ、僕が瑞樹のベッドに行けばいいだけの話だろ。待ってろよ、何か持ってくる」
「おう、ありがとな」
そう言って笑う瑞樹。僕は、鼻の奥がつうんと痛むのを感じた。
なぜか瑞樹が、泣いているように見えたから。
そのときを境にして、僕と瑞樹が会う機会はめっきり減った。僕は僕でリハビリに精一杯。瑞樹は瑞樹で治療の苦痛に耐えるのに必死。
「会えるのは飯のときだけか、つまんないの。おれの作戦どうしてくれるんだ」
そう言って頬を膨らます瑞樹は、日に日にやつれていくようで、分かっているはずの不安が僕を襲った。
「瑞樹」
「ん?なんだ」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だって。心配性だな、まったく」
そう言って笑った瑞樹。
でも、僕は知っていた。
「っ、つう」
毎夜のように苦しみに耐え、うめく、瑞樹の声を。
どんなに苦しくてもナースコールを押さない、瑞樹の姿を。
「……瑞樹」
僕がカーテンを引き呼びかけると、瑞樹はびくりと肩を揺らし、息を整え僕に言った。
「これじゃあ、一ヶ月も持たねえよな」
そうだろう。瑞樹は一ヶ月もせずに死んでしまうだろう。
僕はショックを受けた。僕の中の何かが、冷徹にその答えをはじき出したことに。
「あーあ、もうすこし生きられると思ってたんだがな」
「生きろよ。何でも気持ち次第だろ」
口先だけの言葉。それに気づいたかどうか、瑞樹は笑った。
そして、最後に。
「なあ、もしも、の話覚えてるか」
「え」
「あれな、おれの母さんが、おれが余命宣告を受けたときに話してくれたことなんだ。もしもおれがどんな状態になったとしても、おれを愛するからって意味でさ。だから、おれも言うぞ。これが最後だ。おれはもう、言うべきことはすべて言ったから」
「もしも、悠平の目が見えなくても、おれは変わらずにお前の隣にいるよ」
「もしも、悠平の耳が聞こえなくても、おれはずっとお前の隣にいるよ」
「もしも、悠平の声が出なくても、おれは絶対お前の隣にいるよ」
「もしも、悠平の目が見えなくて、耳が聞こえなくて、声が出なくても、おれはお前のそばで笑っててやるよ」
瑞樹は言いきった。
これが最後。そのとおり。
瑞樹の容態が急変した。
夜明け前の、薄闇の中のことだった。
眠るように死んでいく生き物なんていない。
人も同じ。
瑞樹も、同じだった。
「瑞樹くん」
「瑞樹!」
「先生、脈が――」
瑞樹を助けようと、必死になって治療を行う先生たち。
無事を祈るしかない、瑞樹の家族。
あわただしい、瑞樹のベッド。
僕はそのどれも見ずに、ただ、瑞樹を見ていた。それが自分の役目でもあるかのように真剣に、目を逸らさずに、瑞樹を見ていた。
いつも緩やかに弧を描いている口は、苦しみに歪められていた。
開けられた胸元からは何本もの線が延びていた。
瑞樹の身体は、かなしいほどやせていた。
起きろ、そう願い続ける。もう一度、起きてくれ。
願いは、届いたのかもしれない。
「瑞樹!」
僕は車椅子を傾け、倒れるようにして瑞樹のベッドに突っ込む。車椅子が、大きな音をたてて倒れる。倒れそうな体を支えるため、手に思い切り力をこめ、足にも力を入れた。
瑞樹の意識が戻った。
目を、開けた。
瑞樹は震えるまぶたを開けてすぐに。
「みずき、みずきっ」
同じように瑞樹に駆け寄った両親より先に。
まるでそれしか知らない子のように瑞樹の名を呼ぶ僕を見て。
何か呟いて。
瑞樹はいつもの、僕が大好きな、満面の笑みを浮かべて。
そして、瑞樹は。
覚悟はできていた、はずだった。
「嘘だろ。冗談やめろって」
「悠平くん」
遠くで甲高い電子音が鳴り続けている。
「だって、瑞樹は昔僕に言ったんですよ!いつか二人とも病気を治して、ずっと一緒に、一緒にいるって。……約束したんです」
分かっていたはずだ。その約束は守られないこと。そんなことくらい。だって、瑞樹自身が言っていたのだから。
だから、もう覚悟はできていたはず。
でも。
「起きろよ、ばか。起きて僕に、もう一回笑顔を見せてくれよ。『うっかり寝ちゃった』って。みんなが集まっているのを見てびっくりしろよ。こんなに泣いてる僕を『何泣いてるんだよ』とか言って背中を叩いてくれよ。そして、またずっと、ずっと隣にいてくれよ……なあ、起きろよ。瑞樹」
居たい。他の何を引き換えにしてもいいから、後悔なんてしないから、瑞樹の隣に。
「瑞樹、なあ、起きろよう。さっさといくなよ、ばか。隣にいるって、約束したじゃないか。約束破るなんて、許さないからな」
瑞樹のことが何より大切で、好きなのだ。血を分けた兄弟よりも。自分を生んでくれ、こんな体でもちゃんと面倒を見てくれる両親よりも。
何よりも瑞樹のことが。
しかし、僕の一番大切なものは、もう二度と、僕に笑顔を向けることはない。
朝日が差し込む。
「瑞樹――もう、朝だぞ」
次の日の午後には、瑞樹のベッドは空っぽになっていた。瑞樹の言うとおりに。
僕は、空っぽになってしまったベッドを見ていた。横山瑞樹なんて少年はいなかったかのように整然としているまっさらなベッドを、見ていた。
夜になると、否応なしに瑞樹のことを思い出す。瑞樹の声が思い出される。
『次の日の昼には空っぽになって、おれがいたなんて痕跡はひとつもないんだろうな』
『だから、おれも言うぞ。これが最後だ。これでもう、言わなきゃいけないことはすべて言ったことになるから』
『もしも、悠平の目が見えなくても、おれは変わらずにお前の隣にいるよ』
『もしも、悠平の耳が聞こえなくても、おれはずっとお前の隣にいるよ』
『もしも、悠平の声が出なくても、おれは絶対お前の隣にいるよ』
『もしも、悠平の目が見えなくて、耳が聞こえなくて、声が出なくても、おれはお前のそばで笑っててやるよ』
ここには、瑞樹がいた痕跡はもうない。
それでも、確かに、いた。
ここには、横山瑞樹という少年がいた。
病と闘いながらも、必死に生きていた。
「――ばかやろう」
僕は瑞樹に、それしか言えない。
その言葉も、夜明け前の静寂に呑まれる。
しばらくの間、呑まれそうな静寂に耳を傾けて。
僕は車椅子でなく、リハビリ用の杖に手を伸ばす。
病室に朝日が差し込んだ。
『立てるじゃん』
ずっと一緒にいたから、分かる。
瑞樹は最後に、そう呟いたのだ。
僕は、立って歩く。
瑞樹が隣にいると信じて。
もしも、また瑞樹に会うときが来たら。
笑って僕はこう言うだろう。
「寝すぎなんだよ、ばか」