苦い紅茶の、その先で ~王子の婚約者ですが騎士様に恋してます ~
王子の婚約者なのに、どうしても好きになれない。
だって好きなのは、その後ろにいる騎士様だから。
そんなちょっと不器用な恋のお話です。ハッピーエンドです。
美しく花々が咲き誇る、王城の中庭。その中心でティーカップ片手に談笑しているのは侯爵と、私、そして。
「さあ、ニアス殿下にご挨拶を」
光に煌めいて眩しいくらいの髪と瞳で微笑む第一王子。その視線を受けながら、頭の先から爪の先まで叩きこまれた、最敬礼のカーテシーをしてみせる。
「……カティエ・ゴルウィンと申します。ニアス殿下」
「うん。これから、よろしくね」
そう、これは婚約のための両家の顔合わせ。私は誕生日を迎えた今日から、王子の婚約者となる。令嬢の憧れを一身に集めるその甘いマスクで微笑む王子を見ながら、私は──。
(ぜんっぜん好みじゃね----!!!!)
内心、大暴れしていた。
(本当に婚約するのか──、はー。)
王子の手前、余所行きの鉄壁営業スマイルを崩さないまま深呼吸と見せかけたため息をつく。
(面倒でしかないし、王子は全然好みじゃないし……。)
私の好みはこういう、誰にでも同じ笑顔を振りまくような器用なタイプじゃなくて。例えば愚直に使命に励むような、そんなお堅い感じの。
(……リュー様、みたいな。)
心の中でそう呟いて、王子の後ろに控える騎士然とした男の姿を盗み見る。リューディガー・ルティンス。勝手にリュー様、なんて呼んでいることは私だけの秘密だ。
(ああ、今日も素敵……!)
表情が乏しいなんて言われているけれど、本当に嬉しい時は柔らかく微笑んでくれることを知っている。なんて言ったってその笑顔に心を奪われたのだ。無駄のない動き、筋肉の付いた身体。護衛として剣の鍛錬も欠かさない姿勢。
(ああ、もう一度こちらを見てはいただけないしら……!)
庭の花々を見るふりをして、堂々とリュー様を見るくらいには好きだった。あの時から、ずっと目で追ってきた。
(でも、もう私は王子の婚約者、だものね。)
視線を動かしていると、リュー様とふいに目が合った。冷静な青い瞳がこちらを見る。
(っ!!)
全身の温度が上がったかのように、顔がほてる。たかが一瞬、されど一瞬。私を見てくれたことが嬉しくて、作り物でない笑顔が漏れた。偶然視線が合ったかのように装って、軽く会釈までしてしまう。リュー様も軽く礼を返してくれた。黒髪がさらりと揺れて、一枚の絵画のよう。誰かにこの一瞬を絵にしてほしい。王城の花々とリュー様。素敵。
でもすぐに視線は外れて、どこか遠くを見るようなリュー様。それでも良かった。だって、この心はもう消してしまわないといけないから。
瞬きを一つ、そしてティーカップに口を付ける。膨れ上がる感情を飲み干して、苦くなった心から目を逸らした。
「紅茶は口に合うかい?」
王子の言葉に、にっこりと笑って見せる。これでも女ですもの、演技くらい、お手の物。
「ええ。とても」
笑いながら談笑する私と王子を、両親はすべてが順調だと信じて満足そうに眺めている。ああ、なんて。
(とても、苦い。)
最後にもう一度、もう一度だけリュー様の笑顔を見たかった。
▽▽▽▽▽▽▽
私と王子の婚約はすぐに国中に発表された。色んな家から祝いの言葉とやっかみをもらって、それらを全部笑顔で流す。大喜びの両親と、家の者たち。メイドから何回おめでとうと声をかけられたことだろう。
「はあ……」
やっとの思いで自室に籠り、背中を丸める。コルセットで丸められなくて、ただ首を曲げただけになった。
「リュー様……」
そう小さく呟いて、瞼を閉じる。脳裏に描くのは、信念を第一に動く彼の姿。
「ええ」
彼に恥じないような、そんな妃になろう。彼のいるこの国のために、尽力しよう。そうしたら、きっと。
「また、笑っていただけるかしら」
そうしたら、この恋心も報われるわ。
すっと背筋を伸ばして、笑顔を作ってみせる。
「わたくしは、今度はあなたの力になるわ」
王子には悪いけれど、リュー様のために。
涙は、流さなかった。
▽▽▽▽▽▽▽▽
婚約が発表されて、初めての夜会。上質なドレスに身を包んで、王子の迎えを家で待つ。ずしりと重いドレスに装飾が、責任の大きさを分からせてくる。椅子に座って待つ間、ぼうっと考えるのはリュー様のこと。
(今日も護衛でいらっしゃるのかしら。)
どんな正装で来るのだろう。騎士服でもきっと似合う。まだ学生だから騎士ではないが。護衛の例と称して少しくらい話してもいいだろうか。いや、ただこの心が苦しくなるだけかもしれない。そんなことを考えていると、王子の来訪を執事が告げる。
「今行くわ」
客間には煌びやかで華やかな王子と、シックにまとめられたリュー様の姿。
(なんって素敵!)
もちろんリュー様のことである。二人が近い場所に立っていてくれて良かった。ついリュー様だけを見つめてしまった。
「カティエ、とても素敵だよ」
「ありがとうございます」
ほんわりと頬を染めた私を見て、周りは王子に見惚れたと思っただろう。それでいい。
「ニアス殿下も。とても、素敵です」
リュー様も。いやリュー様が、素敵です。叶うならそう叫んでやりたいくらいにリュー様は素敵だった。黒を基調としたかっちりとしたスタイルで、腰にはいつもの相棒の剣。
(ああ……例えるなら月明かりが映えるような、夜の騎士様……。)
リュー様を直接は見ずに、さっき見た姿を思い返してうっとりと呆ける。王子は明るい色合いで目に眩しいくらい。その背後に控えるリュー様に、不自然でないようににこりと微笑む。
「リューディガー様も素敵ですわ」
「……ありがとうございます」
温度の低い声色で礼が返ってくる。このくらいの会話なら大丈夫だろう。むしろしないほうが不自然だ。
お声が聞けた、今日はそれだけで頑張れる。つい素の笑顔で笑みを浮かべた私を、王子がいつもと変わらぬ笑みで見つめていた。
夜会の会場では王子と私への挨拶がひっきりなしで、その対応でいっぱいいっぱいだった。といっても私は微笑んでいることが仕事で、たまに会話に混ざるくらい。皆王子に話しかけるから、まあ楽でいい。
時間もそれなりに立ち、やっと挨拶ラッシュが落ち着いたころ。執事が何処からともなく現れて、王子に耳打ちする。
「ごめんね、少し席を外すよ」
「ええ、いってらっしゃいませ」
何か急ぎの用事でも出来たのだろうか。王子がいないことはどうでもいいのだが、問題は。
(リュー様が私の護衛をしている!?)
王子と一緒に行くのかと思ったら、私の横で動きを止めた。そしてそのままここにいる。これはなんて幸運なんだろう! リュー様と二人だなんて!
「カティエ嬢は」
「は、はい」
しかも急に声をかけられて、返事が上ずってしまった。んん、と軽く喉を整えるふりをして、なんでもないように笑って見せる。リュー様は言葉を選ぶように視線を迷わせていた。
「俺が護衛で、嫌ではありませんか」
「な、なんでですか!?」
リュー様を前にした緊張とか胸の高鳴りとか、そういうのが全部吹っ飛んでしまった。な、なんで嫌なんてことに!? 慌ててリュー様に詰め寄る。
「わ、わたくしが何が失礼を!?」
「そうではなく、その。……以前のことを思い出すのではと」
あ、と口を開けてしまった。リュー様は、以前のことを覚えていらっしゃる! そのことが嬉しい気持ちと、誤解を解かなければという気持ち。ごくりと喉を鳴らす。
「嫌だなんて! 助けていただいた感謝こそあれ、そのようなこと微塵もありませんわ!」
「であれば、いいのですが」
少ししゅんとして見えるのは気のせいだろうか。ああ、なんて素敵な人。私が嫌な思いをしないかが心配だったのですね。
「それに以前のは未遂で怪我一つありませんでしたし。これもリュー様のお蔭です」
「そう言っていただけると、……リュー様?」
「……」
(し、しまったああああああああ!!!!)
つい内心で呼んでいた愛称でリュー様と口に出してしまった。赤くなっていいのか青くなっていいのか分からない。冷や汗をかきながら、なんとか弁明をしようとする。
「も、申し訳ございません! あの、その、護衛として頼りにしていまして、その」
何一つ弁明になっていない。未来の妃がこれでは国の将来が心配だ。だって仕方がないじゃないか! 想い人に勝手に愛称を付けていたことがバレただなんて、恋する乙女には事件にもほどがある。
口をパクパクとさせている私を見て、リュー様は少し固まった後……吹き出した。
「ふっ」
「!?!?!?」
わ、笑った!? リュー様が!? あのリュー様が!?
信じられないものを見る目で見ていると、リュー様はすぐまた元の真顔に戻った。
「すみません、つい」
「い、いえ、こちらこそ失礼しました」
何も誤魔化せていないし、どうしてリュー様が笑ったのかも分からない。でも、私の頭はリュー様の笑顔でいっぱいで、それ以上何も考えられなかった。
「思ったよりも、可愛らしいお方だ」
リュー様が何か呟いたことにも気が付かないくらい。
しばらくして、王子が戻ってきた。リュー様と何か言葉を交わして、王子は私の隣に並ぶ。
「待たせてしまってごめんね」
「いえ」
大変有意義な時間でした。にっこりと上機嫌な私を見て何度か瞬きをした王子は、リュー様と私を交互に見る。そして少し黙ってから、にっこりと笑った。
「ちょうどダンスの時間だね。行こうか」
「ええ、殿下」
二人で手を取り合って、中央のホールへと進む。どんどん離れていくリュ-様との距離に、高ぶっていた心が落ち着いてくる。
(そうよ、私は殿下の婚約者。)
殿下のリードに合わせて、足を踏まないようにステップを踏む。さすがの王族なだけあって、ダンスもお手の物なようだ。これなら足を踏む心配もなさそうだ。くるくるとホールを回りながら、王子と一緒に微笑んでみせる。
(……リュー様はダンスはお得意なのかしら。)
護衛中だから、きっと誰とも踊らないだろうけれど。それが少し救いだった。誰かと踊る姿を見たら、きっと笑顔も崩れてしまう。
(まだまだね、わたくしも。)
もっと鉄壁の笑顔を身につけなければ。例えば、リュー様に婚約者ができても大丈夫なくらいに。
そう考えただけで、一瞬口元がひくついた。いけない。今は、考えないようにしよう。
難なくダンスを踊り切って、拍手を浴びながらホールを下りた。
▽▽▽▽▽▽▽▽
夜会の喧騒は続いているというのに、私の中だけが妙に静かだった。
先ほどのダンスの余韻か、それとも——。
(……リュー様。)
無意識に視線を探してしまう。すぐに見つかったその姿は、先ほどと同じように王子の少し後ろ、けれど。
(……あれ?)
ほんのわずかに、距離が遠い。
先ほどまでは、もっと近くにいた気がする。手を伸ばせば届きそうなほどに。けれど今は、一歩、いや半歩ほど引いた位置で、まるで壁のように控えている。こちらを見て、近づきかけて止めたようにも見えた。
(気のせい、かしら。)
そう思おうとして、やめた。気のせいではない。あれは——意図的な距離だ。
胸の奥が、きゅっと小さく縮む。あのときは、あんなに近くにいてくれたのに。名前を呼んでしまって、笑ってくれて。
(……楽しかった、のに。)
自分だけだったのだろうか。ふいに、王子がこちらを振り返る。
「少し休もうか。向こうに席を用意させてある」
「はい」
促されるまま歩き出す。隣に並ぶ王子、その後ろに——リュー様。けれどやはり、近くはない。席に着き、軽く会話を交わす。王子は相変わらず穏やかで、完璧な笑顔を崩さない。それに応じながら、どうしても意識が後ろへ引かれてしまう。
耐えきれず、ほんの少しだけ振り返った。
「——リューディガー様」
呼んでから、しまったと思う。けれどもう遅い。青い瞳がこちらを向く。ただし、それは。
(……遠い。)
先ほど見たそれとは、まるで違っていた。
「何でしょうか、カティエ嬢」
声音は丁寧で、隙がない。まるで最初からずっと、こうであったかのように。胸が、ちくりと痛む。
「あの……先ほどは、その……ありがとうございました」
何に対しての礼かも曖昧なまま、言葉を絞り出す。
「務めですので」
短く、それだけ。それ以上は続かない。続けさせない、とでもいうように。言葉が途切れる。空気も、止まる。
(……ああ。)
理解してしまった。あれは、間違いだったのだ。ほんの一瞬、緩んでしまっただけ。笑ったのも、近づいたのも、全部。
(戻った、だけよね。)
本来あるべき距離に。婚約者と、その護衛。それ以上でも、それ以下でもない。
「……そう、ですよね」
うまく笑えているだろうか。少しだけ視線を落として、カップに口をつける。もう、さっきみたいに甘くは感じなかった。
ふと、王子が静かに口を開く。
「——カティエ」
「はい?」
顔を上げると、いつもの笑顔。けれど、ほんの一瞬だけ。
その視線が、後ろを——リュー様をかすめた気がした。
「疲れてはいないかい」
「ええ、大丈夫です」
にこりと笑って返す。完璧な、婚約者の顔で。
(……これでいいのよ。)
さっきのことは、忘れなさい。あれはただの、気の迷い。
私も、リュー様も。
だから——。
(これ以上、望んではいけない。)
▽▽▽▽▽▽▽▽
帰りの馬車。王子と二人で向かい合って座る。踊って、立ちっぱなしで、全身が疲れている。しかし帰るまでが夜会である。なんとか笑顔を保っていると、王子が完璧な笑顔で口を開く。
「君は、よく笑うね」
その言葉に、ぱちりと瞬きをする。今も笑顔を作ってはいるけれど。
「ありがとうございます……?」
私は褒め言葉なのか、真意をつかみかねていた。どこか引っかかるような物言いに、次の言葉を待つ。
「その笑顔は、本心かな?」
「っ」
ぴく、と口元が引きつる。どこまで気が付いているのか、でも。
「失礼いたしました、どうも緊張してしまいまして」
ふふ、と微笑んで見せる。王子は変わらぬ笑みでこちらを見ていた。一体何を考えているのか分からず、ごくりと喉を鳴らす。
「いやね、君を責めるつもりはないよ」
どうやらお叱りではないようだ。ほう、と安堵の息をつく。しかし思ったよりもこの王子、底が見えない。
「家柄とか、色々考えて婚約者は選んだらしい」
急に何か語り始めた王子は、どこか遠くを見つめている。
「もちろん人柄も調査の一部だ。君はとても優秀だった」
「あ、ありがとうございます」
一体どんな調査だったのか、今度こそ冷や汗をかきそうになる。王子は何を知って、今何を伝えようとしているのか。
「優秀な人には、よりよい環境で頑張ってもらいたいよね」
「……?」
妃よりも高い地位なんて存在しないが、王子は何を言っているんだろう。まさか私に王を目指せなんて冗談を言うような質でもあるまい。
「ふふ、大丈夫。悪いようにはしないから」
「はあ……」
つい気の抜けた返事をしてしまったが、王子は気にも留めていない。そのまま家までたわいもない会話をしたのだった。
▽▽▽▽▽▽▽▽
次の日。我が家に激震が走る。
「王子の婚約者がまだ三人いるだと!?」
「どういうことですの!?」
「……え?」
大騒ぎしている両親に、執事、メイドたち。大騒ぎの渦中に、訪問者が現れる。
「やあ」
「で、殿下!?」
今日は長い一日になりそうだ。
騒ぎも収まらぬい家の客間で、優雅に紅茶を飲んでいるのは第一王子。そして、後ろに控えているリュー様。リュー様は眉間に皺を寄せている。何故かこちらをリュー様が見ているような気がして、そちらを向けばぱっと視線を逸らされた。
「……?」
よく分からず、首をひねるしかない。その横で、両親は王子に詰め寄らんばかりに質問を飛ばしている。
「カティエ以外にも婚約者がいるとは本当ですか!」
「うん、そうだよ」
「カ、カティエではご不満だと!?」
顔を真っ赤にしている両親に対して、王子はどこ吹く風だ。紅茶を一口飲んで、ゆったりと答える。
「婚約者候補の子が誕生日を迎えるまで発表できなくてね、少し勘違いさせてしまったようだ」
「な、な……!」
両親は歯を食いしばって血管を額に浮かべている。家のためか、娘のためかは分からないが怒り心頭のようだ。執事やメイドも私のことを気遣うような目でこちらを見てくる。それもそうだ、婚約者で確定かと思ったら、他にもいると急に告げられたのだから。
「……?」
私は正直そんな事よりも、リュー様のことが気がかりでしょうがなかった。いや一大事ではあるのだが。リュー様はそわそわとこちらを見ては、唇を噛んでいる。私が婚約者でなくなるかもしれないことが、リュー様に何か関係あるのだろうか。
そちらに思考を取られて、うまく現状を飲み込めない。その間にも両親と殿下の会話は続いていく。
「まあこれは王命だからね、仕方がないと思ってもらって」
「ぐ、く」
「ああ、もし」
王子はくいっと紅茶を飲みほした。そしてにっこりといつもの完璧な笑みを浮かべる。
「妃に選ばれなかったとしても、いい縁談をこちらで用意するよ」
「ほ、本当ですか!?」
この両親は娘のことではなく、家のことで怒っていたらしい。明らかにほっとする両親を少し白い目で見ながら、続けて王子を見る。王子は食えない笑みで私に微笑んでいた。
大騒動の後、殿下の帰りを見送る。もうこの人が何を考えているのかが全く分からない。殿下は馬車に向かう直前、こう囁いた。
「誰かを想っている顔をしている人を、隣に置く趣味はないよ」
「なっ」
王子はそのままさっさと馬車に乗ってしまった。残された私は、口をぽかんと開けて動けない。
いつから、気が付いていたんだろう。いや、どこまで気が付いているんだろう。相手がリュー様というのも知っているんだろうか。
一人ぽつんと立ち尽くしていると、背後から声がかけられる。
「カティエ嬢」
「っ!?」
リュー様。私が聞き間違うわけもない。耳に響く低温に、鼓動を高鳴らせながらゆっくりと振り返る。
リュー様はどこか緊張したような面持ちで、ゆっくりと歩いてくる。
リュー様は、数歩手前で足を止めた。いつも通りの距離——のはずなのに、今はそれがひどく遠く感じる。
「先ほどの、殿下の言葉ですが」
低く、抑えた声。けれどわずかに滲む迷いが、耳に残る。
「……聞いておりました」
「……そう、ですか」
何をどう返せばいいのか分からない。否定も、肯定も、どちらも選べない。
沈黙が落ちる。風が吹いて、庭の木々が揺れた。それでもリュー様は動かない。
(……何か、言わなきゃ)
そう思うのに、言葉が出てこない。口を開きかけて、閉じる。その逡巡を断ち切るように。
「本来であれば」
リュー様が、口を開いた。
「私はこれ以上、あなたに関わるべきではありません」
「……っ」
胸が、ひどく冷える。
やっぱり。そう思ったのと同時に、どこかで納得してしまう自分がいた。
婚約者ではなくなるかもしれないとしても。だからといって——距離が縮まる理由にはならない。
「殿下の騎士として」
続く言葉は、あまりにも正しい。
「軽率な行動は許されません」
知っている。そんなことは、ずっと前から。
だから私は、笑う。
「ええ、もちろんですわ」
いつものように。何もなかったように。
「これまで通りで——」
「ですが」
遮るように、声が落ちた。
初めてだった。リュー様が、私の言葉を止めたのは。思わず顔を上げる。
青い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。逃げることなく、逸らすこともなく。
「……昨日、あなたに名を呼ばれたとき」
息が止まる。
「嬉しいと、思いました」
「……え」
思考が、追いつかない。リュー様はほんのわずかに視線を伏せて、そして。
「笑ってしまったのも、そのためです」
静かに、言った。
あの一瞬の理由を。
「……本来なら、あってはならない感情です」
自分を律するような声音。けれどその奥に、確かに熱がある。胸の奥が、じわりと熱を持つ。
「ですが」
再び視線が上がる。
「殿下の言葉を聞いて——」
一歩、近づいた。
ほんの一歩なのに、それだけで距離が変わる。
「もう、見ないふりはできないと判断しました」
「……っ」
心臓がうるさい。
こんな音、絶対に聞こえてしまう。
「あなたが誰を想っているかなど、本来なら知るべきではない」
低く、はっきりと。
「ですが——」
一瞬、言葉が途切れる。それでも、逃げない。
「私が、その相手であるなら」
空気が、止まった。
「これ以上、何も言わないという選択は」
ほんのわずかに、声が揺れる。
「……できません」
▽▽▽▽▽▽▽▽▽
「……できません」
その言葉が落ちた瞬間、世界が静まり返ったように感じた。何かを言わなければならないのに、言葉が出てこない。胸の奥が熱くて、苦しくて——でも。
「……リューディガー様」
やっとのことで、名前を呼ぶ。さっきとは違う。誤魔化しでも、うっかりでもない。ちゃんと、意識して。
「私は——」
言いかけて、止まる。頭の中に浮かぶのは、両親の顔。家のこと。立場。婚約者としての責任。それから。つい先ほどまで、自分で決めたばかりの“諦め”。
「……私は、殿下の婚約者、です」
絞り出した言葉は、ひどく頼りなかった。分かっている。それがもう揺らいでいることくらい。それでも、そう言うしかなかった。
リュー様は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「はい」
短い肯定。否定も、強引な言葉もない。それが逆に、胸に刺さる。
「ですから」
続けようとした、そのとき。
「——もうすぐ、違います」
「……え?」
顔を上げる。リュー様は、まっすぐこちらを見ていた。
「殿下は、あなたを選びません」
「……!」
驚きで、言葉を失う。
「先ほどのやり取りで、確信しました」
淡々と、けれど確かな声音で。
「殿下は——あなたを手放すつもりです」
それは、予想していたはずの未来。なのに、こうして言葉にされると、どこか現実味がなかった。
「……それでも」
リュー様が、一歩近づく。
「あなたが望むなら」
低く、はっきりと。
「私は何も言いません」
選択を、委ねるように。
「ですが」
ほんのわずか、声が柔らぐ。
「あなたが、少しでも——」
言葉を選ぶように、間が落ちる。
「ご自身の気持ちを優先するのであれば」
その瞳が、逃がさないように私を捉える。
「私は、その選択を支えます」
強くもなく、甘くもなく。ただ、誠実な言葉だった。だからこそ——逃げられない。胸の奥に押し込めていたものが、じわじわと浮かび上がってくる。見ないふりをしていた感情が、形を持ち始める。
「……ずるいです」
ぽつりと、零れた。
「そんなこと、言われたら」
笑おうとして、うまくいかない。
「もう、戻れないじゃないですか」
リュー様は、何も言わない。ただ、静かにそこにいる。逃げ場を塞ぐように。でも、決して押し付けはしない。
(……ああ)
分かってしまった。最初から、私は。何を選びたかったのか。
ゆっくりと、息を吸う。震える指先を、ぎゅっと握りしめて。
「……少しだけ」
顔を上げる。
「少しだけでいいので」
自分でも驚くくらい、素直な声だった。
「自分の気持ちを、優先してもいいですか」
リュー様の目が、わずかに見開かれる。そして。
「——はい」
今までで一番、やわらかな声で答えた。
▽▽▽▽▽▽▽
それから数日後。
婚約は正式に解消された。
あれほど騒いでいた両親も、王家から新たな縁談の話が出たことで、最終的には納得したらしい。私はというと、ようやく肩の力を抜いて過ごせるようになっていた。
——そして。
王城の中庭。あの日と同じように、花々が咲き誇る中でティーカップを手にする。
違うのは、隣に立つ人だけ。
「……カティエ」
「はい」
自然に呼ばれた名前に、ほんの少しだけ胸が高鳴る。以前なら、こんなふうに呼ばれることはなかった。顔を上げると、すぐそこにリューディガーの姿。視線が合っても、もう逸らされることはない。
「紅茶は、口に合いますか」
どこかぎこちない問いかけ。それでも、以前よりほんの少しだけ柔らかい声音。思わず、くすりと笑ってしまう。
「ええ、とても」
カップに口をつける。あのときと同じ、はずなのに。
(……あれ)
ふわりと広がる味に、瞬きをする。胸の奥に落ちる感覚が、まるで違う。苦さはもう、どこにもなかった。代わりに残るのは、ほんのりとした温かさ。カップを持つ手を、そっと下ろす。
「……少しだけ」
ぽつりと、零す。
「少しだけ、甘い気がします」
顔を上げると、リューディガーが一瞬だけ目を見開いた。それから、ほんのわずかに。あのときと同じように——いや、今度ははっきりと。
やわらかく、微笑んだ。
▽▽▽▽▽▽▽▽
中庭を後にして、しばらく歩いた回廊の先。柱の影に寄りかかるようにして、ニアスは足を止めていた。
「……行ったか」
視線の先には、まだ花の咲く庭。小さく笑う声までは届かないが、雰囲気だけで十分だった。軽く息を吐いて、肩の力を抜く。
「ずいぶんと回りくどいことをなさいますね」
背後からの声に、振り返りもせずに応じる。
「そういう役回りなんだよ、僕は」
柱の陰から現れたのは、見慣れた黒髪の騎士。リューディガーはいつもの無表情に戻っているが、その目元はわずかに緩んでいる。
「殿下があそこまで踏み込むとは、思っておりませんでした」
「踏み込まなければ、一生あのままだっただろう?」
くすり、と小さく笑う。
「特に君は」
「……」
リューディガーは答えない。ただ、ほんのわずかに視線を逸らす。
「まあいいさ」
ニアスは再び庭へと目を向ける。
「優秀な人材には、適した場所で働いてもらわないとね」
軽い調子で言いながら、その視線はどこか穏やかだった。
「それに」
一拍置いて、少しだけ声を落とす。
「ちゃんと笑える顔の方が、見ていて気持ちがいい」
リューディガーは何も言わない。ただ静かに、その言葉を受け止める。やがて。
「……ありがとうございます」
短く、しかしはっきりと。
ニアスは肩をすくめる。
「礼を言われる筋合いはないよ。僕は僕の都合で動いただけだ」
そう言って、踵を返す。
「ほら、行くよ。君も忙しくなるだろう?」
「はい」
二人は並んで歩き出す。その背後で。
中庭には、変わらず柔らかな光が降り注いでいた。
最初は苦かった紅茶が、最後には少し甘くなるような、
そんな恋を書きたいと思っていました。
カティエとリューディガーのこれからが、少しでも温かいものに感じていただけたら嬉しいです。
読んでくださってありがとうございました。




