6.月明かりの向こう
月が昇るより少し前、村の広場にはまだ人の気配が残っていた。
外套を纏ったルナは、呼び止められるたびに足を止め、祈り、言葉を紡ぎ、差し出された手をそっと包み込む。まだ月の光は届かないというのに、人々は忙しなく勤しむ彼女の中にすでに光を見ているかのようだった。
「月の巫女さま、どうかこの子が健やかに育ちますように」
「畑がうまく実るよう、祈っていただけませんか」
「おまじないを…」
それが効力のない、ただの気休めに過ぎないとしても、人々は救いを求めるように頭を垂れる。
ルナは一度も断らなかった。小さく頷き、柔らかな声で応え、そのたびに誰かの表情がほどけていく。
「ありがとうね」
人々は感謝の意を述べ、路銀の足しにしてくれとお金を渡したり、パンなどの食材を分け与えた。
「こちらこそ、こんなに頂いてしまって…」
いいんだよ、というやり取りをオルビスは遠目で見ていた。
やがて日が落ち、空が群青に沈むころ、彼女はようやく二人が借りている部屋へ戻ってきた。
もらった荷物を棚に置けば、ほんのわずかに肩が落ちる。
その変化はごく微かなものだったが、オルビスは見逃さなかった。
人は「月の巫女」を求めてばかりいるけれど、それでいいのだろうか。
誰がルナの心を見るの?
誰がルナを助けるの?
せっかく自由になったはずなのに。
どうして、また縛られる場所に立つのだろう。
考えても答えは出ない。感情があれば分かったのかな、なんて思いながら息をついた。
分からないことが、胸の奥に重く沈んでいく。
「オルビス……気分が悪いの?」
ベッドに腰をかけて身体を沈ませていると、心配そうに覗き込むルナの声に、わずかに目を伏せた。
違う、と言う代わりに、胸の奥に引っかかっていた疑問がそのまま口をついて出る。
「……どうして、月の巫女になったの?」
ルナは一瞬だけ目を瞬かせ、それから、ほんの少し困ったように微笑んだ。
オルビスから疑問が飛んでくることに少し驚いたのかもしれない。何もないと思っていたけれど、彼はちゃんと存在している。オルビスの隣に座ると、問いの奥にあるものを、静かに汲み取るように言葉を探した。
「月は、誰にでも平等に光を注ぐでしょう?」
オルビスは黙ったままルナを見る。
平等。
その言葉は、どこか遠く響いていた。
――平等じゃない。
もし本当に月がすべてを照らすのなら、
光を与える側には、誰の光が届くのだろう。
彼女は、誰に照らされるのだろう。
納得できない沈黙を感じ取ったのか、ルナは小さく息をつき、少しだけ本音を混ぜる。
「本当は……誰だってなれたの。特別に選ばれたわけじゃない。ただ、月の石が、私の手元に落ちてきただけ」
静かな声だった。
「使命感、もあったのだと思う。誰かがやらなければいけない気がして……それに、人はだんだん、私を神格化していったから。今さら後には引けなくて」
言葉は穏やかだが、その奥に積み重なった重みが滲んでいる。当時の重圧は今もきっと、ルナの心を押しつぶさんとしているのかもしれない。それでも。
「自由はなかったけれど……誰かの心が軽くなるのを見るのは、嬉しいと思えたの」
その響きは柔らかく、それでいて、どこか遠い。
勝手に神だと崇められて、きっと誰も"ルナ"のことなんて見てこなかった。
それなのに、嬉しいと思えるの?
「……分からない」
小さくこぼれた言葉に、ルナは一瞬驚いたように目を見開き、それから困ったように笑った。
ルナだって人間だ。
穢れに触れ続けていれば、心が蝕まれることだってある。
むしろ、日頃から穢れに向き合う彼女こそ、一番危うい場所に立っているのではないか。
もし、ルナの心が穢れてしまったら。
誰が助けるのだろう。
月明かりの向こうを、誰も見ようとしない。
――誰か、ではなく。
その問いは、静かに形を持つ。
自分が、守りたい。
自分が、理解したい。
言葉にしなくても、胸の奥で確かに灯る想いがあった。
「オルビスこそ、ちゃんと心があるじゃない」
「え?」
心のない人はそんな少女のことなんてきっと気にも留めない。それに、彼が持つ疑問はどれも温かく思えたから。
「きっと忘れてしまっているだけ」
いつか必ず見つけましょう。
ルナはただ穏やかに微笑んでいる。
その微笑みを、月明かりがそっと縁取った。
心がある。
そう言われても、どこにあるのか分からない。触れられるわけでも、形があるわけでもない。ただ、胸の奥に灯ったものが、消えずに残っている。
それが何なのか、名前を知らない。
「……もし」
声は静かだった。
「もし、ルナが穢れたら、おれは……」
ルナは目を瞬かせる。
「おれは……」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
月の巫女に向けるには、あまりに不敬で、残酷な問いだと言われるだろう。それでもルナは顔を曇らせることなく、ゆっくりと首を横に振る。
「穢れることは、悪いことだけじゃないわ」
その言葉は、予想とは違っていた。
「人の心は、揺れるものだもの。悲しみも、怒りも、嫉妬も……全部、心がある証でしょう?」
オルビスは黙って聞いている。
「もし私が迷ったら、そのときは」
少しだけ言葉を探し、ルナは柔らかく笑った。
「隣にいてほしいかな」
祓うのではなく、裁くのでもなく、ただ隣にいること。それは、彼がこれまで与えられたどんな役割とも違っていた。
守るでも、壊すでも、祓うでもない。
ただ、在ること。
胸の奥の灯りが、わずかに揺れる。
「……わからない」
同じ言葉なのに、先ほどとは少しだけ響きが違っていた。
分からないから、知りたい。
分からないから、離れたくない。
ルナはその変化に気づいたのか、そっと立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。月はすでに高く昇り、静かな光を村へと注いでいた。
「月はね、照らしているつもりなんてないの」
振り返らずに言う。
「ただそこにあって、受け止めた光を返しているだけ。それでも、人は救われるの」
オルビスはベッドに座ったまま、立ち上がって外を眺める彼女を見つめていた。
窓の外には、昼間祈りを捧げた人々の家々がある。小さな灯りがぽつぽつと瞬き、誰かの生活が続いていることを静かに伝えていた。
優しい目が、外からの光を映している。
ルナは月のようだ。
望んでそうなったわけではない。
誰かに命じられたわけでもない。
ただそこに在り、光を求められ、照らし続けている。
なら、
月を照らすものがなくても、夜は終わらないのだろうか。
答えは出ない。
それでも、隣にある温もりが、確かにそこにあった。
「……ルナ」
「なあに?」
呼んだだけで、次の言葉は出てこない。
ルナは急かさず、ただ待っている。
やがてオルビスは小さく首を振り、立ち上がって窓の外を眺めた。
「……なんでもない」
けれどその声は、どこか以前よりも柔らかかった。
月光がふたりの影を床に並べて落とす。
重なることはない。
離れもしない。
月明かりの向こうを知るのは自分だけでもいいと思った。
静かな夜が、ゆっくりと更けていった。




