5.覆うぬくもり
辿り着いた村は、小さく、そして穏やかだった。
石畳はところどころ欠け、家々は古びている。だが、軒先には干された服が揺れ、畑には麦や野菜が整然と並んでいた。裕福ではない。それでも、人の暮らしの温もりがそこにあった。
子供たちの笑い声が風に乗る。
「まてー!」
「つかまらないよー!」
無邪気な足音が近づいてくる。
その一人が、オルビスにぶつかった。
小さな体が反動でのけぞる。
オルビスは息を呑んだ。咄嗟に闇に覆われた左腕を背に隠す。
こんなものを、見せるわけにはいかなかった。
黒く歪んだ腕。
人のものではないそれを見れば、きっと怯えられる。怖がらせる。
それは、分かりきっていることだった。恐怖されることだって、ぜんぶ受け入れてきた。なのに、
――どうして今更それを拒むの?
胸の奥で、答えにならない何かが揺れた。けれどそれが何なのか、まだ言葉にならなかった。
尻餅をついた子供を助けようと伸ばしかけた右手が、宙で止まる。触れていいのか、分からないまま。
「大丈夫?」
先に駆け寄ったのはルナだった。
彼女は子供の前にしゃがみ、優しく手を取って起こす。
「けがはない?」
「う、うん……」
子供は頷き、オルビスをちらりと見上げた。その視線に、彼はわずかに肩を強張らせる。
だが、子供は何も言わず、また友達のもとへ駆けていった。
微笑んで子供を見送ると、ルナが振り返る。
「行きましょう」
「…でも」
「大丈夫」
そう言ってルナは微笑むと、右手をとって手を繋いだ。空いた左腕は服の黒を握って溶け込んでいた。
村の中心近くに、小さな仕立て屋があった。
木の扉を開けると、布と糸の匂いがふわりと広がる。壁には色とりどりの反物が掛けられ、棚には仕立て途中の服が整然と並んでいた。窓際では、柔らかな光の中で針が静かに休んでいる。
「すみません、外套を探していて」
ルナが声をかけると、奥から恰幅のいい女性が顔を出した。
「旅の方かい? この季節は冷えるからねぇ」
彼女は二人を見比べ、棚からいくつか外套を取り出す。
厚手の羊毛、素朴な麻布、裏地に毛皮を使ったもの。ルナは一つ一つ手触りを確かめ、縫い目を覗き込む。
「これは暖かそう……こっちもとても綺麗」
「ゆっくり選んでおいき」
会話は穏やかで、どこか母娘のようだった。
やがてルナは、深い黒色の外套を手に取る。ポンチョのようにゆったりとした形で、裾には細い銀糸が静かに輝いていた。目立たぬ装飾のひとつひとつに、仕立てた者の丁寧な手仕事が宿っている。
(これ、オルビスに似合いそう)
ルナはもう一着、藍色の外套を選んだ。足元まで届く長さのそれは、深い夜の色を湛え、縁に施された刺繍が星のように淡く光っている。
「これなら、長く使えそうですね」
「大切に使ってくれるなら、その外套も嬉しいだろうさ」
と二人は微笑んだ。
その時――
外から悲鳴が響いた。
「魔だ!」
「子供がっ!」
店の外へ飛び出すと、先ほどオルビスとぶつかっていた子供が尻餅をついていた。
その目前に、黒い影。歪な四肢、裂けた口、濁った眼。
魔が、今まさに飛びかかろうとしていた。
子供の喉が引き攣る。
誰かが叫んだ気がした。
風が止まり、世界が張り詰める。
ルナの身体は動いていた。子供の方へ。
けれど間に合わないことも分かっている。それでもと手を伸ばす表情を、オルビスは見た。
――瞬間。
ルナの目の前にいたオルビスの姿が消えたように見えた。
黒い爪が振り下ろされる、その軌道にすでに彼はいた。
衝撃が弾けるより先に、闇によって肥大化した左腕がそれを受け止めている。
闇が軋み、魔の力を絡め取る。
瞬きの瞬間よりも疾く、影が魔を貫いた。
穢れた核の悲鳴さえ、誰の耳にも届かなかった。
気づいたときには、黒い粒子が空気に溶け、吸い込まれるように左腕へ収束していた。
風が戻る。
誰も、彼がいつ動いたのか分からなかった。
ただの一瞬に、すべてが終わっていた。
訳も分からず子供の震える呼吸だけが残る。
オルビスは、ゆっくりと左腕を下ろした。隠しきれない黒が露わになると、怯えた視線が向けられる。
――ああ、やっぱりおれは人のそばに居られない。
子供とは真逆の方向へ足を動かした時。
「オルビス!」
駆け寄ってきたのはルナだった。
彼女は彼の前に立ち、まっすぐに目を見て言う。
「ありがとう」
オルビスには分からなかった。分からないことだらけだ。
守ったのは子供。ルナではない。
それでも。
感謝された。
胸の奥が、わずかに温かくなる。
こんな感覚になったのは初めてだったのに、とても心地が良かった。
仕立て屋の女性が慌てて外へ出てくる。
「大丈夫かい……!?」
どうやら、子供の母親だったらしい。彼女は子供を抱きしめ、何度も礼を言った。
――――
「ゆっくりしていきな。」
仕立て屋の二階に建てられた自宅に二人を招き入れた。温かいお茶まで用意するだけでは足りないようで、忙しなく階段を登り降りする様子に、ルナはじっとしていられなかった。
「お代なんていらないよ。これ、持っていきな」
そう言って差し出したのは、先ほど選んでいた外套だった。
「ですが……」
「命を助けてもらったんだ。安いもんさ」
押し切られる形で、二人は外套を受け取った。
仕立て屋の婦人は、先ほどルナが選んでいた黒の外套をオルビスに羽織らせる。
布が肩から流れ、左腕の闇を完全に隠した。
彼はその感触を確かめるように、静かに布をめくっては腕が隠れるのを見ていた。
それだけで、胸の奥のざわめきが少し遠のいた気がした。
ルナにも藍の外套を羽織らせれば、満足そうに笑っていた。
「ありがとうございます」
ルナは頭を下げる。
オルビスは一瞬迷い、そして真似るように頭を下げた。ぎこちない仕草だったが、女性は優しく微笑んだ。
「もう日も暮れる。よければ泊まっていきな」
西の空は、すでに群青へと沈みかけていた。子供たちの声も静まり、村には夕餉の匂いが広がる。
オルビスはルナを見る。
彼女は穏やかに頷いた。
「お言葉に甘えます」
二人は、静かな村で一夜を過ごすことになった。
外套は左腕の闇を隠し、ひとのかたちを保つ。
ルナと、子を持つ家族に囲まれて。
胸の奥には、これまで知らなかった温もりが、確かに残っていた。




