4."orbis"
やわらかな風が、草を揺らしていた。
どこか懐かしい匂いのする森の中。木々の隙間から差し込む光は穏やかで、遠くで小鳥がさえずっている。
ここには争いの気配も、魔の濁りもない。ただ、時間だけが静かに積もっている。
かつて町があったのだと分かる痕跡だけが、静かに残されていた。
崩れた石壁。半ば土に埋もれた井戸。人の営みの名残は、自然に抱かれるように溶け込んでいる。
草むらの上に、ルナは寝そべっていた。
頬を撫でる風が心地よくて、まぶたが重たい。空はどこまでも青く、雲はゆっくりと流れていく。こんなにも穏やかな時間が、この世界にあったのだと不思議に思う。
「いつまで寝ているの?」
名前を呼ぶ声に、まぶたをゆっくりと開く。
逆光の中、ひとつの影が覗き込んでいた。
背後から差す光を背負い、輪郭だけが淡く輝いている。顔ははっきりと見えないのに、その存在を、ルナはずっと前から知っていた。
自然と、微笑みがこぼれる。
彼は、夢の中で何度も出会ってきた青年だった。助言をくれたり、他愛のない話をしたり、ただ隣に座って空を眺めたりするだけのこともある。
けれど、その時間はいつも穏やかで、安心できた。
ただの夢なのかもしれない。けれどルナは、そう思いたくなかった。
柔らかな声だった。どこか遠くを見ているようで、それでいて、確かにルナへ向けられている。
青年はルナの隣に腰を下ろす。草が揺れ、かすかな音を立てた。
ルナは起き上がり、膝を抱えるように座った。
「私、自由になったの」
その言葉は、思ったよりも静かに零れた。
ずっと望んでいたはずの自由。けれど、それは歓喜というより、戸惑いに似た響きを帯びていた。
「月の巫女として、ずっと閉じ込められていた場所を離れて……今は、どこへでも行ける」
草を撫でる指先が、わずかに震える。
「でもね、不思議なの。嬉しいはずなのに、まだ、夢みたいで」
青年は何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。
「それでね……魔に満ちた少年と出会ったの」
その瞬間、青年の呼吸がわずかに止まった。
ほんの一瞬。けれど確かに、言葉を選ぶような間があった。
「……魔の、少年」
「うん。でも、」
ルナは首を傾げる。
「魔なのに、穢れがないの。祓おうとしたけれど、触れるものが何もなくて……ただ、空っぽで」
自分の言葉を確かめるように、そっと繰り返す。
「空洞みたいな子だった。
目を離せないほど、深い、空洞。」
青年は目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。
何かを知っているような、そんな沈黙だった。
けれど、ルナは気づかないふりをした。問いただすことが、彼を遠ざけてしまう気がしたから。
やがて青年は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべる。
「……その少年をどうしたい?」
「どうしたい、って……」
考えたことのなかった問いに、ルナは戸惑う。
助けたいのか。救いたいのか。守りたいのか。
どれもそう。だけど。
胸の奥から浮かび上がったのは、もっと単純な想いだった。
「彼を、知りたいと思う?」
青年の言葉は、まるで答えを導くように静かだった。
ルナは顔を上げる。
「……うん」
迷いはなかった。
理由なんて分からない。けれど、知りたいと思った。
どうして空っぽなのか。どうして穢れがないのか。どうして、あんなに孤独な目をしているのか。
青年は、小さく頷いた。
「それでいい」
風が、ふたりの間を通り抜ける。
「人を知るのは得意だろう?」
穏やかな声が続く。
「君はきっと、また選ぶ。かつての君が、彼と出逢ったときのように」
「……え?」
聞き返そうとした瞬間、青年の輪郭が揺らいだ。
光に溶けるように、境界が曖昧になっていく。ぼやけていく視界の中で、青年の瞳だけが、はっきりと残った。
夜の底で光る、月明かりを宿したような澄んだ青。
――誰かに、似ている。
――誰に?
そう気づく前に、夢は途切れた。
――――
まぶたを開くと、夜の気配がそこにあった。
焚き火の残り火が小さく揺れ、森の闇が静かに広がっている。
少年は心配そうに覗き込んでいた。闇に沈んだ瞳が、月明かりを受けてわずかに揺れた。
ほっとしたように、少年が息をつく。
夢の中で見た光景と、重なる。覗き込む影。差し込む光。見つめる瞳。
違うのに、どこか似ている気がした。
「ごめんなさい、少し眠ってしまったみたい」
身体を起こしながら、ルナは微笑む。
少年は何も言わず、ただそこにいた。離れようとも、近づこうともせず、一定の距離を保ったまま。踏み込んではいけない境界を測るように座っていた。
まるで、自分がどこに立てばいいのか分からない迷子のように。どこか、申し訳ないような顔をしていた。
夜の帳が下り、空気はすっかり冷え込んでしまった。火を起こしたけれど、夕餉の食材となるものは何も持ち合わせていない。
(食事は摂るのかな…)
膝を抱え、ぼぅっとした目で、火を挟んで向かい側にいる少年を見る。
少年は炎を見つめていた。揺れる光がその瞳に映っても、何も宿らない。ただ、そこに在るだけの静かな目だった。
薪がパチパチと弾く音だけが、夜の深さを知らせている。
「……寒くない?」
問いかけると、少年は少し遅れてこちらを見る。
「……わからない」
自分の手を見下ろす仕草は、寒さという感覚を探しているようだった。
ルナは火に手をかざす。指先がじんわりと温まる。少年は黙ったまま火へ視線を戻した。やがて、ほんの少しだけ火に近づく。
ルナは、そっと口を開いた。
少年の視線が、ゆっくりと上がる。
「名前を、つけてもいい?」
その問いに、少年は固まった。
名前。
考えたこともなかった。呼ばれたこともない。必要だと思ったこともない。自分は、ただ在るだけの存在だったから。
けれど。
しばらくの沈黙のあと、少年はわずかに迷うように視線を彷徨わせ、そして小さく頷いた。
ルナは、胸の前で手を重ね、少しだけ考えるように目を閉じて、浮かんだ言葉をそっと口にした。
「オルビス」
少年の瞳が、わずかに揺れる。
音は、静かに夜へと溶けていく。
少年は、何も言わなかった。
けれど、その名は胸の奥へ沈み、消えずに残った。心などないはずなのに、そこに確かな重みがある。
彼を知る。それが旅の目的となるだろう。
ルナは嬉しそうに微笑む。その笑顔は、月明かりよりも眩しかった。




