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3.はじまりの手をとって

 その顔は歪み、濁りきっている。目は血走り、呼吸は荒く、今にも破裂しそうなほどだった。

 かつて人を守るために剣を取ったはずの男は、今や理性の輪郭を失い、衝動に操られている。


「……月の……巫女よ……」


 掠れた声が、夜気を震わせた。


 その響きは人のもののはずなのに、どこか空洞で、底の見えない井戸の奥から響いてくるような重い音だった。


 ルナの肩がわずかに震える。


 口角が不自然に吊り上がった騎士の手元で、剣が鈍く光る。


「月の石を……渡して、もらおう」


 月の石。


 それは、月の女神によって造られたとされる聖なる石。淡い光を放ち、魔を祓う力を宿した宝玉。


 人の域を超えた力を持つがゆえに、幾度も争いを生んできた石。それを何者からも守らなければならない。得体の知れない者の手に渡れば、いや、渡らずとも血が流れるのだ。

 守り抜くことは使命であり、約束でもある。


 騎士は一歩、また一歩と近づく。

 重い足取り。鎧の隙間から覗く皮膚は黒ずみ、脈打つように蠢いている。何かが内側から這い出そうとしているかのようだった。

 剣先が、ルナの首元へ向けられる。睨みながらも不気味な笑みを浮かべた騎士は、目の前の目的を果たせる悦びを感じていた。

 華奢な首から下がる石へ、ゆっくりと手を伸ばす。


 だが――


 その指先が触れることはなかった。


 質量を持った影が瞬時に伸びる。夜の闇そのものが意志を持ったかのように蠢き、騎士の身体を瞬時に突き飛ばした。

 鎧が軋む音と共に、騎士の身体は宙を舞い、遠い地面に叩きつけられる。


 影の主は、少年だった。


 肩を貫いていた槍を、まるで邪魔な枝でも抜くように引き抜く。傷があろうと、血が流れようと、少年の表情は一切変わらない。

 静かに地へと降り立つと、裸足の足音が、獲物をゆっくり追い詰めるように、ひたひたと近づいていく。


「化け、物…め……っ!!」

 

 血を吐きながらも騎士は勢いよく剣を振るう。しかしその刃は影によっていとも容易く止められてしまった。

 黒い影が刃に絡みつき、力を吸い取るように締め上げる。やがて耐えきれずに、剣は乾いた音を立てて粉々に砕け散った。


 金属片が月光を反射し、冷たい光の粒となって地面へ降る。


 怯え切った騎士と、何も映さない少年の瞳。


 少年は、闇を纏った左手を伸ばす。

 躊躇いなく、影は騎士の胸を貫いた。


 ルナは、僅かに目を見開く。


「ぐああああああっ!!」


 苦しみ悶える叫び声が夜を引き裂く。

 少年が手を引き抜くと、騎士はその場に崩れ落ちた。


「……騎士様っ!!」


 隠れて様子を見ていた医務官と思しき人物は、震える足で駆け寄る。闇に満ちた少年への怯えの視線を向けながらも、騎士の身体を必死に担ぎ上げると、やがて足早に運び去っていった。


 少年はそれを黙って見送る。

 追うことも、止めることもない。


 左手に残ったものへ視線を落とす。

 闇の塊。蠢き脈打つそれは、人の心から生まれた穢れ。憎しみ、欲望、絶望――行き場を失った感情は心を蝕んでいく。


 ――穢れの種。


 抵抗するように暴れるそれを、躊躇なく握り潰す。飛び散った闇が、造り物のように透き通った頬を汚した。

 闇は、音もなく少年の左腕に吸い込まれ、霧散するように消えていく。


 その場に残ったのは、静寂。

 風すら息を潜めたような夜だった。


 ルナは言葉を失っていた。


 彼は確かに人を傷つけた。魔であれば当たり前の行為だ。胸を貫いた瞬間の光景は、瞼の裏に焼き付いてはならない。

 しかし殺意とは違う。奪うための行為でもない。

 まるで、絡みついていたものを引き剥がしたかのようで。

 ルナには、騎士の心の穢れを祓ったかのようにさえ見えた。


 ルナは少年を見る。


 闇を纏う左手。人ならざる力。纏う魔と呼ばれるものの気配が確かにあった。

 それなのに

 

 彼自身からは、穢れを感じない。


 ただ、静かにそこに立ち、月を見つめているだけ。責めることも、誇ることもなく。善とも悪とも定めない瞳で。


 無のままに在る彼を見つめていると、少年はわずかに瞬きをした。ルナの存在を確かめるように、じっと見つめている。

 それだけだった。


 ルナの胸に、言いようのない感情が広がる。

 恐怖なのか、憐れみなのか、分からない。


 魔なのに、魔じゃない。

 人を傷つけたのに、救ったようにさえ見えた。


 月の石では祓うことができない、闇。彼が取り除いたのは人の心に芽生えた穢れの種だった。


「……」


 表現できない言葉を口にするより先に、少年はふっと視線を逸らした。それは拒絶ではなく、どこか迷子のような仕草だった。自分でも分からないのだと言うように。


 ただの迷子のようでいて、明確な目的を持って魔を撃ち倒す。正体も素性も、何もかもが計り知れない。

 問いは宙に浮いたまま、まだ名前のない存在だけがそこにあった。


――――


 穢れの騎士を迎え討ち、動ける者はルナと少年だけになった。彼女をここへ連れてきた兵たちは、無力感に囚われたまま地に座り込み、もはや立ち上がる気力すら残されていない。


 魔は祓われ、少女を縛る騎士たちも動けない。


 月の巫女は自由の身になった。

 きっとどこまでも飛んでいける翼を授かったのだ。


 ルナは再び手を差し伸べる。背後から降り注ぐ月光は少年を照らした。


「行こう」


 少年は差し出された手に戸惑った。表情は微塵も変わらないのに、自分から触れに行くことに恐怖心があるかのようだった。


「……おれ、」


 その先はなかった。魔を纏わない右手は宙で止まり、やがて地に落ちた。


「大丈夫。貴方は私を助けてくれた」


「……」


「だから私は、決して貴方を独りにしないわ」


 彼女の隣は温かい。綺麗な手も髪も、瞳も。可憐なのに強さを秘めている。だからこそ、穢してしまうかもしれないことを恐れた。


 ――恐れる?どうして?

 ――心なんてないくせに。


 俯く視界に、光の束が差し込むかのように。ルナの長い髪が降りる。少年の顔を覗き込む瞳はどこまでも優しかった。


「私はルナ。貴方は?」

「……わからない」


「なら、一緒に探しましょう」


 ――どうして穢れを赦すの。

 ――どうして、おれを赦すの。


 ――醜い穢れなのに。


 知りたかったのかもしれない。気づけば彼女の手に触れていた。握り返してきた手は優しく、決して振り解かないほどに強かった。

 

 ルナは少年を連れ、赴くままに歩き出す。それは明確な目的のない、逃避行のようなものだった。


 月明かりの下、二つの影が並ぶ。


 ひとつは光に導かれ、

 ひとつは闇を抱えたまま。


 それでも、歩幅は不思議と揃っていた。

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