2.Maculaの少年
闇に包まれた手は、あまり好きじゃなかった。触れれば小さな花は散り、羽虫は転がる。葉の上を歩く露は濁り、土は黒く沈む。壊そうとしたわけではない。ただ、そこに触れただけで、命の気配が静かに遠ざかっていく。
けれど不思議と、その禍々しい手は、意志を持って何かを掴むことも、勝手に壊そうとすることもなかった。衝動も欲も、何もない。
少年には何もなかった。
怒りも、悲しみも、喜びも。胸の奥にあるものは、長い時間の中で摩耗してしまったのか、はたまた忘れ去られてしまったのか。何も思い出せず、ただ沈黙だけが残っている。
どれほど生きてきたのか、分からない。月が何度満ち、欠けたのかも、何もかも覚えていない。季節の巡りも、年という概念も、少年の中では意味を持たなかった。
ただ独りという現実だけが隣にあった。
「寄るな化け物っ…!!」
自分を見て叫び逃げ、勇気あるものは石を投げる。
怒りや憎しみが人をおそうように、魔は人を襲う。そして人は魔を忌む。
それがこの世界だった。
けれど、自分には魔のように在ることができなかった。衝動も、欲も、理由も、何もない。ただ、在るだけ。闇を纏い、穢れたモノ。どこにも属さない存在。
理解していた。自分は、忌むべきものなのだと。
区別なんてない。魔は、魔である。
だから虚無を、孤独を、受け入れていた。
誰かと関わる理由もなければ、関わる資格もない。触れれば壊す。近づけば恐れられる。それなら、最初から何も求めない方がいい。
――触れないで。
きっと痛いから。
誰が?自分が?それとも相手?
分からない。
深い闇。抑えきれず溢れる影。自分の輪郭さえ曖昧にしてしまう黒が滲み出る。
もはや自分が何者なのかさえ分からない。
暗闇の中で独り、歩みを諦めた迷子だった。
その夜、月は満ちていた。
雲ひとつない空に浮かぶ白い円は、世界を淡く照らしている。冷たいはずの光は、不思議と柔らかく、すべてを拒まず包み込むようだった。
月明かりの中、少女がこちらへ歩いてくる。
淡い光を纏った、綺麗な存在。
彼女が伸ばした手を見て、少年はわずかに身を引いた。
触れれば、壊してしまう。
触れれば、傷つけてしまう。
己の内側で蠢く闇が、彼女の光すら、穢してしまう気がした。
それなのに。
少女は、止まらなかった。
拒まれても、怯えた様子もなく、その手を、そっと重ねる。
――やめて。
そう言いたかった。けれど、声を出す勇気はなかった。いや、勇気と呼ばれるものさえ持ち合わせてはいない。どこかに忘れてきてしまっていた。
代わりに、少女が微笑んだ。
「……ほら、大丈夫」
その言葉は、祈りのように静かだった。疑いのない瞳が、真っ黒な少年を映している。
一度は他の魔と同じように祓おうとしていたのに、どうしてそれをやめたのだろう。どうして、手を差し伸べるのだろう。
闇に覆われた指先に、初めて、何かが触れた気がした。
温かかった。
けれど、それが何であるか、少年には分からない。感情のない心は何も教えてくれない。
「ね?」
少女の声も微笑みも、全てが柔らかい。
少年は光を見た。
それは強く照らす光ではなく、静かに隣に在り続ける月明かりだった。
――となりに居たい。
分からない。だけど、その光を失いたくないと思った。それが消えたら、また何もなくなると思ってしまった。
……どうしてだろう。
闇に差し込む月明かりが、少年の輪郭をわずかに照らす。それだけで、十分だった。
少女の手のひらに、闇は染み込まない。綺麗なまま、ただ隣にいてくれる。
それは初めて見る光景だった。
自分が、拒絶されない世界。
それがどれだけ優しいかを、知ってしまった。
もう、独りはきっと寂しい。
だから今日、長すぎた孤独に静かに別れを告げる。
手を取り、少年は立ち上がった。
自分よりも少し背の高い少女を見上げる。月光を宿す瞳と、闇に覆われた自分のそれが、静かに向かい合った。
少年の瞳は闇に沈んでいる。それでも、その奥は真っ直ぐだった。
忽然と黒い瞳は横へ流れた。
少年は一歩前に出る。闇に覆われていない右手を、ルナを庇うかのように広げた。
ルナが不思議そうに瞬きをした、その刹那。
町の方から飛んできた鋭い衝撃が、少年の右肩を貫いた。
視界が揺れる。次の瞬間には槍によって木へと縫い止められていた。
「……っ」
わずかな呻きが、喉から漏れる。
「!!」
ルナは少年に手を伸ばすが、粟立つ背筋がそれを静止した。
魔に染まった重い足音がゆっくりと近づいてくる。ギシギシと響く金属音に寒気を感じた。振り返る先にいたのは、鎧も身体もすでに崩れかけた騎士だった。




