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1.祈りのlunam

 水面に映る月の影が、ゆらりと揺れる。


 風はほとんどない。森は息を潜めたように静まり返り、泉が夜の光を受け止めていた。淡く揺れる銀色の輪郭は、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。


「巫女様」


 呼ばれた少女はゆっくりと瞬きをした。


 森の泉の傍らで、彼女は素足を水に浸していた。冷たさが足先から静かに這い上がり、現実へと引き戻してくる。指先に止まっていた小鳥が声に気づき、羽ばたいて闇の向こうへ消えていった。


 自由だ、と彼女は思う。


 行き先を決められることもなく、呼ばれることもなく、ただ夜の空へ溶けていく小さな命。その後ろ姿を目で追いながら、胸の奥に淡い羨望が滲む。


 だが、その感情は長く続かない。


 少女は手を膝へ下ろし、声の主の方へ振り返った。


「こんなところにおいででしたか。まだ魔が蔓延っています」


 鎧の擦れる音。規律正しい足取り。

 彼はこの森の付近の町が厄災に見舞われていると知り、兵と共に訪れた騎士の一人だった。


 呼ばれた理由が、自分の身を案じるものではないことくらい、分かっている。


 隙を見て手に入れた、わずかな自由の時間は、こうして呆気なく終わりを告げるのだ。


「さあ、お力添え願います」


 そこに敬意はない。あるのは、役割を果たさせるための確認だけ。


 ルナは立ち上がり、濡れた足を拭うこともなく靴を履いた。


 人を救えるなら、救いたい。

 それは偽りのない願いだった。


 けれど、言いなりになるのは好きではなかった。


 少なくとも、この兵士や自分を鳥籠に閉じ込めてしまった利己的な人間に良い印象を抱くことはない。彼の視線はいつも、彼女ではなく“力”を見ている。


 相反する感情が胸の内で静かに混ざり合い、自分という輪郭が曖昧になる。どこまでが使命で、どこまでが自分の意志なのか、時々分からなくなる。


 その境界を見失いかけながら、少女は歩き出した。


 ――――


 逃げ惑う人々の叫びが、夜の町を裂いていた。


 悲鳴。嗚咽。石畳を踏み鳴らす足音。

 それらすべてを覆い隠すように、濃い闇が町に降りている。


 崩れかけた家々の間を、一人の少女が歩いていた。


 淡い月光色とライトシアンの髪が夜風に揺れる。星空のような瞳は真っ直ぐに前を見つめ、透かしたような白の衣装は微塵の汚れもなく、細い肩に纏う光は、まるで月そのものが人の形を取ったかのように静かに輝いていた。


 少女――ルナは、眼前に蠢く魔を見つめ、静かに祈りを捧げる。


 怒りも恐怖もない。

 そこにあるのは、憐れみだけだった。


 同時に、闇は音もなくほどけていく。


 黒煙のようだったそれは、月光に溶けるように消え、天へと昇っていく。襲われていた男はその場に崩れ落ち、震える手で地面を掴んだ。


「……巫女様……!」


 震える声が、あちこちから上がる。

 人々は助けを求めるように少女の名を呼び、縋るような視線を向けた。


 答えるように、ルナは微笑む。


 その笑顔を見た瞬間、人々は救われたように安堵し、彼女を崇めた。


「もう、大丈夫です」


 柔らかな声。

 だが、その笑顔の影にある心は、誰にも見えない。


 騎士や兵士たちは、月の巫女の力によって弱まった魔を制圧していく。彼らにとって、彼女の力は戦を有利に進めるための“道具”でしかなかった。


 月の巫女――それが、少女に与えられた役割。


 ルナはその光景を見つめながら、わずかに視線を伏せた。


 自分で救った命がある。

 誰かにとって、それは何ものにも代えがたい尊いもの。


 救えることが嬉しい。

 それは確かに本心だった。


 それでも胸の奥に、小さな痛みが残る。


 彼女には自由がなかった。


 魔に対抗しうる力として扱われ、閉ざされた部屋へ戻れば、権力者や金持ちたちの聞きたくもない汚い声が壁越しに漏れてくる。


 祈りを求める声。

 祝福を求める声。

 時には、力を独占しようとする囁き。


 それでも――


 魔を祓うために外へ出る、この瞬間だけは違った。


 夜の空気は冷たく、月は変わらずそこにある。

 誰にも触れられず、縛られない光。


 ルナは祈り、唄う。


 月の巫女の子守唄は、たちまち魔を祓い清めた。炎と黒煙が昇る地獄のような惨状など、まるでなかったかのように、そこだけが月明かりに照らされて眩い光を放っていた。


 その時だった。


「がっ……!」


 騎士の苦悶の声が、背後から響いた。


 振り返った少女の視界に映ったのは、形を持たない揺らめく影。


 周りにいた兵士たちは次々と地に伏す。

 息はまだあるが、まるで力だけを抜き取られたように、誰ひとり立ち上がれていない。


 ――魔がいる。


 反射的に、月光が少女の指先に集まる。


 だが、その瞬間。


 違和感が、胸の奥を静かに掠めた。


 倒れている騎士や兵士たちから、いつも感じるはずの濁りがない。


 恐怖。憎悪。自己保身。

 人の心に巣食う歪みが、そこだけ綺麗に削ぎ落とされたかのように、澄んでいる。


 (おかしい。)


 いつもあるはずの“穢れ”がない。


 揺らめく影は、森の奥へと流れるように動いた。誘うように、あるいは導くように。


 ルナは一瞬だけ迷い、それでも足を踏み出した。


 木々の影が濃く沈む場所で、彼はうずくまっていた。


 膝を抱え、身を縮めた少年。

 隠れていたのか、それとも倒される一歩手前で形を残したのか、分からない。


 人の形をしている。

 だが、人間ではない。


 その周囲には濃い闇がまとわりつき、確かに“魔”の気配を漂わせている。


 ルナは、祓うために手を掲げた。


 けれど――何も感じ取れなかった。


 魔を祓うとき、彼女の内側には必ず触れるものがある。歪んだ感情の核。叫び。濁り。

 月の巫女が祓うのは、そういった感情の"穢れ"。


 だが、この少年の内側には、それがない。

 怒りも、憎しみも、絶望も。

 魔でありながら、穢れを知らないかのような。


 ただの空洞のみが、そこに広がっている。

 虚ろな、深い夜のような静けさだけを包んで。


「……どうして」


 祓えない。

 目の前の魔の少年には、祓うべき“穢れ”が存在しない。


 少年はゆっくりと顔を上げた。

 闇のような瞳が、まっすぐルナを捉える。


 敵意はない。逃げる気配もない。

 ただ、そこにいる。


 月光が、ふたりを包む。

 その瞳の奥に、一瞬だけ澄んだ青が揺れた気がした。


 魔であるはずなのに、痛みを感じない。

 触れれば消えてしまいそうなほど、脆く静かな存在。


 (感情が、……ないの?)


 ルナは、ゆっくりと手を下ろした。


 祓えないからではない。

 祓ってはならないとさえ、月が告げた気がした。


 (魔ではないというの?)


「……あなたは、?」


 少年は答えない。

 ただ、静かに見つめ返す。


 その視線にあったのは、理由のない孤独だけだった。


 月は変わらず、森を照らしている。


 誰にでも等しく降り注ぐその光が、今はただ、祈るように、ひとりの魔を包み込んでいた。

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