第4話 溺愛の檻と、健康優良児の弟
ガタゴトと、馬車が揺れる。
それは、私が逃亡生活を送っていたボロ馬車とは比べ物にならない、滑るような乗り心地の最高級馬車だった。
座席にはふかふかのクッション。車内にはほのかに柑橘系の香りが漂っている。
けれど、私の心はちっとも落ち着かなかった。
(……これは、夢? それとも処刑場への護送?)
私は小さく身を縮めながら、隣に座る人物を盗み見た。
アストレ大公ゼノン様。
彼はいつものように彫刻のような美しい横顔で、窓の外を流れる景色を見ている――と思いきや、ガッチリと私の右手を握りしめて離さない。
「ゼ、ゼノン様……?」
「なんだ?」
「あの、手が……」
「寒いか? もっと温めよう」
ゼノン様は私の手を、さらに自身の大きな両手で包み込んだ。
温かい。いや、熱い。
冷え切っていた私の指先が、じんわりと解凍されていくようだ。
(処刑前の囚人に、こんなに優しくするなんて……これが『最後の慈悲』というやつなの?)
私が青ざめていると、対面の席に座っていた副団長アルヴィス様が、やれやれと溜息をついた。
「シエラ様、顔色が真っ青ですよ。……閣下、あまり力強く握りすぎると、シエラ様が『手錠をかけられている』と錯覚されます」
「手錠? 馬鹿な。私はただ、彼女が二度とどこかへ消えてしまわないように、存在を確かめているだけだ」
ゼノン様は心外だと言わんばかりに眉を寄せたが、その瞳はどこか楽しげに輝いている。
普段の「絶対零度」の無表情を知っている人間からすれば、今の彼は「春の陽気」そのものらしい。私には全く分からないけれど。
「シエラ」
「は、はいっ!」
「……戻ったら、何が食べたい? 料理長が、君の好物を用意して待っている」
「えっ……こ、好物……?」
(最後の晩餐!?)
私の思考は、どうしてもネガティブな方向へと全力疾走してしまう。
だって、私は国を裏切った泥棒(未遂)なのだから。
「じゃ、じゃあ……甘いものが、食べたいです……」
「分かった。山ほど用意させよう」
ゼノン様は満足げに頷き、さらに強く私の手を握りしめた。
◇
馬車は大公邸の門をくぐり、玄関前に到着した。
「お帰りなさいませ!!」
扉が開いた瞬間、待ち構えていた使用人たちが一斉に頭を下げた。
執事長、メイド長、庭師のおじいさんまで。
みんな、私が「白い結婚」の半年間で、少しずつ言葉を交わすようになった人たちだ。
「シエラ様! ご無事で何よりです!」
「ああっ、こんなにお痩せになって……!」
「すぐに温かいお風呂をご用意しますわ!」
メイドたちが涙ぐみながら駆け寄ってくる。
私は呆気にとられた。
てっきり、「泥棒猫」と罵られ、石を投げられると思っていたのに。
「……みんな、怒っていないの?」
私が恐る恐る尋ねると、メイド長がキョトンとして、すぐに優しい笑顔になった。
「怒る? 誰がですか? 私たちは皆、シエラ様が戻られるのを心待ちにしておりましたよ」
「でも、私は……」
「さあ、積もる話は後にして。まずは客間へ。……大切な方が、お待ちですよ」
ゼノン様に背中を押され、私は広間へと通された。
「大切な方」?
もしかして、尋問官だろうか。それとも、断罪を下す裁判官?
ガチャリ。
重厚な扉が開く。
そこは、陽の光が差し込む明るいサロンだった。
テーブルの上には、山のようなお菓子と、ティーセット。
そして、その中央でフォークを咥えていた小さな影が、私を見てパッと顔を輝かせた。
「あ! お姉ちゃん!!」
「……え?」
時が止まった気がした。
そこにいたのは、私の弟、レオだった。
でも、私の知っているレオとは少し違う。
ガリガリに痩せて、いつも怯えていた弟ではない。
頬はふっくらとして血色が良く、仕立ての良い服を着て、髪もツヤツヤしている。
そして何より、口の周りに真っ白なクリームをたっぷりつけて、屈託なく笑っていた。
「お姉ちゃん、お帰り! 見て見て、ここのケーキすっごく美味しいんだよ!」
「レ……レオ……?」
私はよろめくように一歩踏み出し、その場に膝から崩れ落ちた。
「レオ……! 生きて……っ、よかったぁぁぁ!」
「わっ、お姉ちゃん!?」
私はレオを抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。
温かい。柔らかい。
夢じゃない。レオは生きている。しかも、こんなに健康になって。
「うあぁぁぁん! よかったぁぁ! 拷問されてると思ってたぁぁ! 夫人に指とか詰められてると思ってたぁぁ!」
私の絶叫が、サロンに響き渡る。
「ご、拷問……?」
レオがキョトンとして、助けを求めるように視線を彷徨わせた。
その視線の先にいたゼノン様は、見たこともないほど狼狽していた。
「な、なぜ泣く? レオの頬が丸くなったのが不満か? 運動もさせているぞ? 勉強だって、王宮魔導師を家庭教師につけて……」
ゼノン様はオロオロと私の周りをうろつき、アルヴィス様に縋るような目を向けた。
「おい、どうすれば泣き止む? 鎮静剤か? それとも気絶させるか?」
「閣下……」
アルヴィス様は天井を仰ぎ、深く、深ーく溜息をついた。
「そこは『怖かったな、もう大丈夫だ』と言って抱きしめる場面です。鎮静剤はやめてください。あと気絶させたらシエラ様が起きた時、またパニックになります」
アルヴィス様の的確すぎる助言を受け、ゼノン様はハッとしたように膝をつき、私とレオをまとめて抱きしめた。
「……すまなかった、シエラ」
耳元で、低い声が響く。
「君を不安にさせたのは、私の不徳の致すところだ。……だが、もう大丈夫だ。伯爵夫人は二度と君たちに手出しできない」
「……え?」
私は涙に濡れた顔を上げた。
「夫人は……?」
「君が家出した翌日、私が騎士団を率いて伯爵邸を制圧した。レオへの虐待、大公家への不敬、そして……君への脅迫。すべての証拠を揃えて、断罪したよ」
ゼノン様は、まるで「散歩のついでにゴミを拾った」くらい何でもないことのように言った。
「だ、断罪……?」
「ああ。爵位は剥奪、財産は没収。夫人は北の修道院へ、伯爵は平民として追放だ。……君たちが恐れるものは、もう何もない」
私は、ポカンと口を開けたまま固まった。
私が森で泥だらけになって逃げ回っていたあの時、すでに全てが終わっていた?
じゃあ、私の決死の覚悟は? 囮作戦は?
「……あの、じゃあ、私が盗んだ印は……」
「ああ、あれか」
ゼノン様は懐から、本物の大公印を取り出して見せた。
私が持っていたものと瓜二つの、けれど魔力の輝きが違う本物。
「君が持っていったのは、私が夫人のために用意した『追跡魔法付きのダミー』だ。君がそれを持って動いてくれたおかげで、君の居場所も常に把握できていた」
「……ぜ、ぜんぶ……」
全部、お見通しだった。
私の覚悟も、行動も、全てゼノン様の掌の上だったのだ。
恥ずかしさと、安堵と、脱力感。
色々な感情が一気に押し寄せてきて、私の視界がグラリと揺れた。
「あ……」
「シエラ!」
意識が遠のく中、最後に見たのは、私を支えるゼノン様の焦った顔と、心配そうに覗き込むレオの顔。
そして、アルヴィス様の「だから言ったでしょう」という呆れ顔だった。
(……よかった。本当に、よかった……)
私は深い、深い安らぎの中に沈んでいった。




