第2話 逃亡先は、無自覚な聖女の隠れ里
気がつくと、私は知らない天井を見上げていた。
木の節が目立つ、古ぼけた天井だ。
鼻をくすぐるのは、土と、乾燥した草の香り。そして、どこか懐かしいスープの匂い。
(私、どうなったんだっけ……)
重い体を起こそうとすると、頭の奥がズキリと痛んだ。
「おや、気がついたかい?」
声の方を向くと、人の好さそうな老婆が、湯気の立つお椀を持って立っていた。
「あ、あの……ここは……」
「ここは北の山間にある、ルル村だよ。あんた、村外れの森で行き倒れていたんだ。ずいぶんと立派な服を着ていたから、どこかの貴族様かと思ったけど……泥だらけで酷い有様だったよ」
記憶が、濁流のように蘇る。
大公印を盗み、夜の森を走り、雨に打たれながら洞で震えていたこと。
そして、高熱を出して意識が遠のいていったこと。
「……助けて、いただいたんですね。ありがとうございます」
「礼なんていいさ。困った時はお互い様だよ。さあ、まずはこのスープをお飲み。精がつくよ」
差し出されたスープを一口飲むと、野菜の甘みが体に染み渡り、不覚にも涙がこぼれそうになった。
温かい。
大公邸で食べた豪華な食事とは違うけれど、この素朴な温かさが、今の私には何よりもありがたかった。
「……名前は、なんていうんだい?」
老婆の問いに、私は一瞬言葉を詰まらせた。
本名を名乗れば、追手に見つかるかもしれない。
けれど、命の恩人に嘘をつくのは心苦しい。
「……シエラ、です」
「シエラかい。いい名だね。私はマーサだ」
マーサさんは、私の事情を深くは聞こうとしなかった。
ただ、「行くとこがないなら、体が治るまでここにいなよ」と、空いている部屋を貸してくれたのだ。
◇
それから数日が過ぎた。
私は、この村でひっそりと暮らしていた。
もちろん、ただの居候でいるつもりはない。
私は森で採取した薬草を使って、村の人々のちょっとした怪我や病気を診るようになった。
「シエラちゃん、腰が痛くてのぅ」
「それなら、このハーブを煎じた湿布を貼ってみてください」
「シエラ姉ちゃん、擦りむいた!」
「痛かったね。すぐに痛みが引く軟膏を塗ってあげる」
私の薬は、なぜか驚くほどよく効いた。
湿布を貼った老人は翌日には畑を走り回り、擦り傷を作った子供は塗った瞬間に傷が塞がったと大騒ぎした。
(……母さんの教えてくれた調合、やっぱり凄いのね)
私は自分の腕が良いのではなく、母直伝のレシピが優秀なのだと信じて疑わなかった。
まさか、無意識に私の魔力が混ざり込み、最高級のポーション以上の効果を発揮しているとは露知らず。
いつしか私は、村人たちから「森の賢者様」「若き聖女様」などと呼ばれ、拝まれるようになっていた。
「違います! 私はただの薬師です!」
必死に否定しても、玄関の前には毎日、感謝の印として野菜や卵、時には猪肉までもが山積みになっていく。
目立ちたくないのに、これでは逆効果だ。
そんなある日のこと。
村長の孫であるトビーという男の子が、高熱を出して倒れた。
「シエラ様! どうかトビーを助けてくだせぇ!」
血相を変えた村長が、私の元へ駆け込んできた。
トビーは「黒斑熱」という、子供がかかると命に関わる流行り病にかかっていた。
高熱にうなされ、肌には黒い斑点が浮かんでいる。
「医者を呼ぶには、山を降りて三日はかかります……それまで保ちそうにねぇ!」
村人たちが絶望的な顔で私を見つめる。
私の知識にある薬草だけでは、この病を治す特効薬は作れない。
でも、目の前で苦しむ小さな命を、見捨てることなんてできなかった。
(……やるしかない)
私はトビーの額に手を当てた。
薬草の知識ではなく、母さんが教えてくれた「おまじない」――祈りを込める。
レオが病気になった時、いつもこうしていたように。
(お願い、熱よ下がって。痛みよ消えて)
私の中の何かが、熱を持って流れ出していく感覚。
掌がカッと熱くなり、淡い金色の光が溢れ出した。
「なっ……!?」
「ひ、光った!?」
村人たちのどよめきの中、トビーの呼吸が穏やかになり、黒い斑点がみるみるうちに消えていく。
私は眩暈を覚えながらも、最後まで祈り続けた。
翌朝。
トビーはケロリとした顔で起き上がり、村中が歓喜に包まれた。
「シエラ様は、伝説の聖女様の生まれ変わりじゃあ!」
「ありがたや、ありがたや!」
村長を筆頭に、村人たちが涙を流して私を拝み倒す。
私はもう、「違います」と言う気力もなく、ただ引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
(……どうしよう。完全に目立ってしまったわ)
こんな噂が広がれば、間違いなく大公家の耳に入る。
私は青ざめながら、逃げる準備をしなければと考え始めた。
◇
――その頃、王都の大公邸。
「……北の山間にあるルル村で、『光る手を持つ薬師』の噂が広まっています」
執務室で、騎士団副団長アルヴィスが報告書を読み上げた。
重厚な執務机の向こうで、大公ゼノンが書類にサインを走らせていた手を止める。
その表情は冷徹そのものだが、アルヴィスには分かっていた。
主の耳が、ぴくりと反応していることを。
「光る手、か。……間違いないな」
「はい。シエラ様です。……というか、閣下が派遣した隠密商人からの報告によれば、村人がシエラ様を崇拝しすぎて、彼女の家の周りに勝手に柵を作って警備しているそうです」
ゼノンは深い溜息をつき、眉間を押さえた。
「あの子は……どうしてこう、無自覚に人を救っては大事にするんだ」
「それがシエラ様の美徳でしょう。しかし、どうしますか? 噂が広がれば、伯爵家の耳にも入るかもしれません」
「伯爵家ごとき、私が叩き潰す準備はできているが……シエラに余計な不安を与えたくはないな」
ゼノンは立ち上がり、マントを翻した。
「アルヴィス、迎えに行くぞ」
「はっ。……しかし閣下、少しはお顔を緩めてください。その顔で村に行けば、殲滅戦かと勘違いされます」
「……善処する」
ゼノンは懐から、一つの小瓶を取り出した。
それは、シエラが逃げる前に「睡眠薬」として置いていった、安眠効果のあるハーブが入った瓶だ。
彼はそれを愛おしそうに指でなぞり、わずかに口元を綻ばせた。
「待っていろ、シエラ。……今度は逃がさない」
その瞳に宿るのは、獲物を狙う狩人の鋭さと、底なしの愛執だった。




