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自ら「囮」となって逃げ出したのに、妻である私を「待つこと」と溺愛されました  作者: ましろゆきな


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第1話 身代わりの囮

「はぁ、はぁ、っ……!」


 肺が焼けるように熱い。足の感覚はもうない。

 それでも私は、泥だらけになったシルクのドレスの裾を握りしめて、夜の森を走り続けた。


 月明かりに照らされたドレスの刺繍が、皮肉なほど美しく輝く。

 これは、大公ゼノン様があつらえてくださった最高級の品だ。

 半年前、ボロ布を纏っていた私には想像もできないほど、今の私は健康で、満ち足りていて――そして、大罪人だった。


 懐には、冷たく重い金属の感触。

『大公印』。

 この国の権力の象徴であり、私がゼノン様を裏切って盗み出した証拠。


(ごめんなさい、ゼノン様。あんなに優しくしてくださったのに)


 涙が滲んで視界が歪む。

 でも、立ち止まるわけにはいかない。

 私がこの印を持って逃げれば逃げるほど、継母である伯爵夫人の血走った目は私だけに向けられる。

 そうすれば、人質になっている弟のレオだけは、監視の目から外れるはずだ。


『逃がすものか!』


 遠くから、蹄の音が聞こえた気がした。

 追手だ。

 あの冷徹と恐れられる「氷の処刑人」、ゼノン様の騎士団に見つかれば、待っているのは極刑だろう。


(……何とかして、追手を巻かないと)


 心臓は早鐘を打ち、足も悲鳴を上げている。

 このまま走り続けるだけでは、遅かれ早かれ、追いつかれてしまう。


 その時、シエラの耳に水音が聞こえてきた。


(近くに川がある!)


 最後の力を振り絞って、音の方向に向かう。

 月明かりに照らされた小川が視界に入った。

 躊躇せずその中に足を踏み入れた。


 パシャパシャ――


 大きな音を立てないように、冷たい水流に逆らって横切る。


(これで、足跡と匂いで後を辿ってこれないはずだわ)


 川を渡り切ったところで、私はポケットから「匂い消しのハーブ」を取り出し、濡れた肌やドレスに必死に揉み込んだ。

 独特の苦い香りが立ち込め、私の体臭と、わずかな魔力の残滓さえも覆い隠していく。


「ふぅ、これで『氷の処刑人』の追手の鼻も誤魔化せたはず……」


 緊張の糸が少しだけ緩むと、途端に寒気が襲ってきた。

 川の水で濡れたドレスが、冷たい夜風に吹かれて体温を奪っていく。


 ポツリ。


 頬に冷たいものが当たった。

 見上げれば、厚い雲が月を隠し、雨が降り始めている。

 私の惨めな逃避行を嘲笑うかのような、冷たい雨だ。


「……休まないと。どこか、雨を凌げる場所を」


 ふらつく足で森の奥へと進むと、運良く根本が大きく裂けた古木を見つけた。

 大人が一人、うずくまれば隠れられそうなうろがある。

 私は泥だらけのまま、その洞へと滑り込んだ。


 ザーザーと強まる雨音が、森の静寂を塗りつぶしていく。

 暗くて、狭くて、寒い。

 まるで、半年前まで私が閉じ込められていた、伯爵家の地下室のようだ。


 震える手で、懐から盗み出した『大公印』を取り出し、重厚な黄金の輝きを見つめる。

 そしてもう一つ。

 肌身離さず持っていた、小さな『カフスボタン』も取り出し、並べて握りしめた。


 アストレ大公家の紋章が刻まれた、青い宝石のカフス。

 これは半年前に私が拾った、私の命の恩人の落とし物であり――私が、この運命に巻き込まれるきっかけとなった品だ。


「……どうして、こうなってしまったのかしら」


 洞の中で膝を抱え、私はぼんやりと滲む視界の先で、あの日々を思い返す。

 まだ私が、ただの虐げられた「妾腹の令嬢」だった、あの地獄のような日々のことを。


 ◇


 幼い頃は、王都の下町で母と私、そして弟のレオの三人で生活をしていた。


 決して裕福ではなかったけれど、温かくて、笑顔が絶えない毎日だった。

 母は街の薬屋で働きながら、私に薬草の知識を教えてくれた。小さな家にはいつもハーブの優しい香りが漂っていて、私たちはそれで十分幸せだったのだ。


 しかし、そんなささやかな生活は一転する。


 母が流行り病であっけなく亡くなり、幼い私と弟が取り残された、その数日後のことだった。

 ある日突然、見知らぬ男たちが家に押し入り、自分たちは伯爵の使いだと言い放ったのだ。


「お前たちは伯爵様の血を引いている。屋敷へ来い」


 否応なく、私たち二人は馬車に押し込まれた。

 涙を流して抵抗する間もなく連れて行かれたのは、王都の一等地にある豪奢な貴族の邸宅。


 訳もわからないまま、薄暗い部屋に放り出された私たち姉弟の前に、一人の女性が立ちはだかった。

 きらびやかなドレスを纏った、美しいけれど氷のように冷たい目の女性。父の正妻である、伯爵夫人だ。


「まったく、汚らしい子供たちだこと。あの人の手癖の悪さにも呆れ果てるわ」


 高圧的な台詞とともに、突き刺さるような冷たい視線が私たちを射抜く。

 彼女にとって私たちは、夫の不貞の証拠であり、憎むべき異物でしかなかったのだ。


「地下室に放り込んでおきなさい。どうせ、主人は気が付かないでしょうから」


 使用人たちが無慈悲に私たちの腕を掴む。

 冷たく言い放たれたその言葉が、私たちの悪夢のような生活の始まりだった。


 日も差さない地下室の一角が、私たち姉弟に与えられた唯一の寝床だった。

 湿っぽく、カビの臭いがするその場所で、私たちは身を寄せ合って震えた。


 食事は一日一回、残飯のような粗末なものだけ。

 夫人の機嫌が悪ければ、それさえもなくなる日もあった。


 与えられたのは教育ではなく、下働きの仕事だ。

 掃除、洗濯、洗い物。幼い弟のレオさえも例外ではなく、私たちは朝から晩まで休みなく働かされた。

 夏の蒸し暑い中も、冬の凍えるような寒さの中でも、何一つ変わらない地獄のような毎日が過ぎていく。


 私たちが伯爵家へ連れてこられた理由は一つ。

 伯爵と夫人の間に、子供が出来なかったからだ。


 建前上、弟レオは伯爵令息、私は伯爵令嬢、ということになっていた。

 世間体のためだけの、見せかけの家族。


 時折、開かれる夜会に連れて行かれる時だけは、貴族らしい装いをさせられた。

 けれど、それは人形としての役割でしかなかった。誰かと話す機会など与えられるはずもなく、ただ夫人の後ろで俯いていることしか許されない。


「出来の悪い息子と娘でございますの。恥ずかしい限りですわ」


 伯爵夫人の甲高い嘲笑だけが、私たちの精神をじりじりとすり減らしていった。


 永遠にこの地獄が続くのだと諦め始めた頃、私は突然、伯爵に呼び出された。


 また夫人に難癖をつけられ、折檻されるのではないかと怯えながら執務室を訪れると、父である伯爵は私に一通の書状を見せつけた。


「シエラ、お前の結婚が決まった」


 それは、まさに青天の霹靂だった。

 告げられた結婚相手の名は、『氷の処刑人』ゼノン・フォン・アストレ大公。王弟殿下。

 冷徹な略奪者として名を馳せた、屋敷の外に出られない私でさえも名前を知っている英雄だった。


「そんな……どうして、私なんかが……」


「お前に、やってもらいたいことがある」


 私の問いには答えず、伯爵の冷たい瞳が、ぎらりと嫌な光を帯びて私を見下ろした。


「大公の持つ『紋章印』を盗み出してこい」


 耳を疑った。

 それは、国家反逆罪にも等しい犯罪行為だ。


「初夜に隙を見て盗み出せばいい。そうすれば、我々は大公家に対して優位に立てる」


「そ、そんな恐ろしいこと……」


 私が震える声で拒絶しようとしたその時、背後から甘ったるい香水の匂いが漂ってきた。


「おや、嫌だとは言わせませんよ?」


 振り返ると、そこには伯爵夫人が立っていた。彼女の手には、怪しげな紫色の液体が入った小瓶が握られている。


「これは特製の媚薬です。これを使いなさい」


 夫人は愉悦に歪んだ笑みを浮かべ、その小瓶を私の胸元に押し付けた。


「輿入れは一週間後です。もし失敗すれば……可愛いレオがどうなるか、わかっていますね?」


「ッ……!」


 弟の名前を出されては、私に拒否権などなかった。

 私は媚薬の瓶を握りしめ、絶望に打ちひしがれながら部屋を追い出された。


 ◇


「……どうしよう、レオ」


 重い足取りで、地下室へと続く暗い庭の小道を歩く。

 一週間後には、あの恐ろしい大公の元へ行き、犯罪に手を染めなければならない。さもなくば弟が殺される。

 逃げ道など、どこにもなかった。


 その時だった。


「……うぐっ……」


 茂みの奥から、誰かが苦しむような低い声が聞こえてきた。

 私はびくりと足を止める。

 空耳かと思ったが、枯れ葉が擦れる音と共に、再び苦悶のうめき声が響く。


(誰か、いる……?)


 恐怖よりも、助けを求めるようなその声に足が勝手に動いた。

 慌てて茂みをかき分けると、そこには立派な体躯の男性が倒れていた。

 豪奢な衣服を纏い、腰には剣を帯びている。屋敷の人間ではない。


「どうかなさったのですか?」


 恐る恐る声をかけるが、返答はない。

 月明かりの下、男性の顔色は土気色で、口からは白い泡を吹いている。

 意識が朦朧としているようだ。


「……く、苦しい……」


 私はとっさに、母から教わった薬師としての目で彼を観察した。

 呼吸は浅く、脈は乱れている。

 そして、革手袋の隙間からどす黒い血が滲んでいるのが見えた。


(――毒だわ)


 手袋を少しめくると、針で刺されたような小さな傷口があった。

 そこから即効性の猛毒が体内に入ったに違いない。

 この症状……神経を麻痺させ、心臓を止めるタイプの毒だ。


 放っておけば、遠からずこの人は死んでしまう。

 それに、こんな場所で見つかれば、伯爵家に侵入した罪で捕らえられるだろう。


(このまま、放っておけない――)


 私は意を決した。

 地下室になら、私が隠し持っている解毒用の薬草がある。


「あの、聞こえますか? ここにいては危険です」


 私は男性の肩を揺さぶった。

 男性はうっすらと目を開け、私を視認したようだったが、すぐに瞼を落とす。


「しっかりしてください! 立って!」


 私は彼の腕を自分の小さな肩に回し、全力で体を引き上げた。

 ずしりと重い。まるで岩のようだ。

 私のような小柄な女が運べる重さではない。


 けれど、男性も生きようとする本能が働いたのか、あるいは騎士としての意地なのか、私の声に応えて微かに足を踏ん張ってくれた。


「はぁ、はぁ……っ、もう少しです!」


 私は歯を食いしばり、半ば引きずるようにして、彼を支えながら地下室への階段を目指した。


「ここの階段から降りますね」


 そう言うと、朦朧とした意識のまま騎士は頷いたものの、もう限界のようだった。

 足の力が抜け、半ば引きずるように、半ば滑り落ちるようにして地下室へと運び込んだ。

 冷たい石床の上に彼を横たえ、私は私たちの粗末な寝床へと彼を導く。


「解毒薬を準備します。もう少し、頑張ってくださいね」


 もう頷く力はないようだった。浅い息を繰り返すだけ。

 命の灯火が消えかけている。


 私は急いで部屋の隅にある小さな棚に向かった。

 そこには、日々の虐待で傷ついたレオや自分のために、庭でこっそり採取して乾燥させておいた薬草が隠してある。


「ええと、麻痺を解くのはこれ……それに、毒を中和するには……」


 何種類かの薬草を取り出し、小さな鍋に放り込む。

 水瓶の水を注ぎ、かまどの残り火をかき集めて急いで煎じ始めた。

 あの場所に倒れていたのなら、恐らく、夫人の持つ毒のはずだった。


 震える手で出来上がった薬湯を彼の口に含ませる。

 薬草の知識だけでは足りない気がして、私は無意識に祈りを込めた。

 母さんが教えてくれた、おまじない。

 ――痛いの痛いの、飛んでいけ。

 私の小さな掌から、温かい何かが流れ込んでいくような感覚があった。


 その夜、私は一睡もせずに彼の看病を続けた。

 そして翌朝、私がまどろみから目を覚ました時、彼の姿はどこにもなかった。

 残されていたのは、寝床の横に置かれた、この青い宝石のカフスボタンだけ。


 ◇


 それから半年。

 あの騎士が誰だったのかを知る由もなく、私は大公家へ嫁いだ。


「君を抱くつもりはない」


 初夜にそう告げられた時、私は安堵した。

 けれど、大公家での生活は、予想に反して穏やかで、温かかった。

 誰も私を殴らない。罵らない。

 ゼノン様は不器用だけれど、いつも私を気遣い、美味しい食事と清潔なドレスを与えてくれた。


 レオを人質に取られていなければ、私はこの幸せに溺れていただろう。


(……でも、終わってしまった)


 洞の外で響く雷鳴に、私は体を震わせた。

 昨日届いた、夫人からの最後通牒。

『次の満月までに印を盗め。さもなくば、弟の首を贈る』


 だから私は、盗んだ。

 ゼノン様の信頼を、裏切った。


「うぅ……っ」


 膝に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

 あの優しい日々に、二度と戻れないことが何よりも辛かった。


 今はただ、遠くへ。

 私が「憎き泥棒」として逃げ回ることで、夫人の興味が私に向き続ける限り、レオは生き延びられるはずだから。

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