第50話 山の上の星空と、スローライフの答え
その夜、最後のお客さまを見送り、カフェの看板を「本日閉店」に裏返した。
「今日も満席でしたね、店長」
「お疲れっす。……片付けはこれからですけど」
マリアとノエルくんが、慣れた手つきで食器を片づけていく。
暖炉の前では、子どもたちが毛布にくるまれて、こっくりこっくり舟をこいでいた。
「ほら、そろそろ寝る時間ですよ。みんな、おうちまで送ってもらいましょうね」
「はーい……。ねえ、明日のスープは?」
「明日は、雪かきを頑張る人向けの根菜スープです。楽しみにしていてください」
そう答えていると、扉の鈴が控えめに鳴った。
「今日は閉店ですよー……って、ディルク様」
冷気と一緒に入ってきたのは、見慣れた黒いマント。
いつもより厚手のコートに、私のものと思しき防寒具を抱えている。
「区切りはついたか」
「ええ。あとはみんなに任せれば大丈夫ですけれど……何かありました?」
問いかけると、彼はわずかに口元を緩めた。
「約束を果たそう」
短い一言に、胸の奥で雪祭りの音楽がよみがえる。
広場の端で星を見上げた夜、「今度、もっときれいな星空を見せる」と告げられた、あの約束。
「……まさか、星空の続きですか?」
「あれからだいぶ待たせた。今夜は雲も少ない」
そう言って視線をそらす耳が、ほんのり赤い。
「もちろん、お供させていただきます」
そう答えた途端、マリアがぱん、と手を打った。
「でしたらこちらはお任せください。ノエル、片付けと子どもたちの送り届け、いいですね?」
「了解っす。行ってきてくださいよ、店長。明日、詳細な報告を」
「ノエルくん、そういうのはこっそり聞くものです」
「どっちにしろ聞く気なのですね……」
思わず頬が熱くなる。
暖炉の前の小さな頭が、ぱちりとこちらを向いた。
「お母さま、どこ行くの?」
「ちょっとお散歩ね。すぐ戻りますから、いい子にしていてください」
「うん。行ってらっしゃい」
小さな手がひらひらと振られる。
その温度を胸に抱いたまま、私はディルク様の後ろ姿を追った。
◇
北門を抜けると、街の喧騒はすぐに遠ざかる。
雪の上を踏むたびに、きゅっ、きゅっと音がした。空気は痛いほど冷たいのに、不思議と心地いい。
「足元に気をつけろ」
「はい」
並んで山道を登りながら、私はそっと《生活鑑定》を起動した。
《生活鑑定》
対象:ディルク・ノルドハイム
体温:ちょうどよい
疲労:小
心配:小
幸福感:大
(幸福感「大」……ふふ)
思わず笑みがこぼれ、慌てて鑑定を切る。
「何かおかしいか」
「いえ。健康状態が良好で安心しました」
「お前はすぐ俺の体調を見たがるな」
「前世でも今でも、上司の健康管理は生存戦略の基本ですから」
私が肩をすくめると、彼は小さく息を吐いた。
「お前の方こそ、昼からずっと立ちっぱなしだったろう」
「ちゃんと《生活鑑定》で自分の疲労も見ていますから、大丈夫です」
「鑑定で安心する前に、たまには早く寝ろ」
心配性な言い方が懐かしくて、胸が温かくなった。
雪が深くなるにつれて、街の灯りが遠ざかり、代わりに星の光が近づいてくる。
「……最初に辺境へ来た時も、こんな景色でしたね」
馬車の窓から見た真っ白な世界を思い出す。
婚約破棄され、断罪され、「はいはい追放ルートね」と心の中で自分にツッコんでいた頃の私。
「何もない場所だと思っていました」
「実際、あの頃はほとんど何もなかった」
ディルク様が、少しだけ肩をすくめる。
「雪と魔物と、ぎりぎりの食料と、少しの火。そこに、お前が来た」
「今は、カフェと穀物コーヒーと、パンケーキと、騒がしい常連さんと、子どもたちまで増えましたね」
「どれも、もう欠けると困る」
不器用な言葉に、胸がきゅっとなる。
あの時「何もない」と思った場所は、気づけば、大事なものでいっぱいになっていた。
◇
やがて、木々の切れ目が現れた。
開けた斜面の上、雪を踏み固めた見晴らし台のような場所。簡素な木のベンチが一つ置かれている。
「ここは……」
「昔、父上が見張り台にしていた場所だ。今は誰も使っていない」
彼はベンチの雪を払い、私を促した。
「座れ。風よけになる」
腰を下ろして、空を見上げる。
次の瞬間、息が止まった。
視界いっぱいの星、星、星。
王都の庭園から見上げた夜空とは比べものにならない。黒い天幕に、無数の光が縫いとめられているみたいだ。
「……きれい」
思わずこぼれた声が、白い息になって夜に溶ける。
その星空の上には、薄く揺れる帯のような光。緑とも青ともつかない、淡い光のカーテンがかかっていた。
「オーロラ、みたいですね」
「厳冬の晴れた夜に、たまに見える。見せるなら、この景色だと思っていた」
ディルク様が、ポットから穀物コーヒーを注いでくれる。
湯気ごしの横顔は、雪祭りの夜と同じ位置なのに、距離だけがあの頃よりずっと近い。
「そういえば、あの時もこんなふうに並んで空を見ていましたね」
「あの時は、まだお前をどう扱えばいいか分からなかった」
「今は?」
「今は……一緒に未来を見ている人、だな」
その言葉が、穀物コーヒーよりも先に胸を温めた。
「ねえ、ディルク様」
「なんだ」
「もし、あの日。私が王都に残ることを選んでいたら、どうなっていたと思います?」
自分でも少し意地悪な問いだと思う。
けれど、ずっと胸のどこかに引っかかっていた「もしも」だった。
「王都に残って、名誉挽回して、公爵家の顔を守って……そんなルートも理屈の上ではあったはずで」
「お前は働きすぎて倒れていた」
「否定できませんね」
即答されて、思わず笑ってしまう。
「俺は、『断罪された悪役令嬢が復権した』とか、『カフェ聖女と呼ばれる妙な女がいる』とか、遠くから噂を聞くだけだっただろう」
「妙な女、ですか」
「妙だ」
迷いのない返事に、また笑いがこみ上げる。
「だが、その噂の相手を、この手で抱きしめることはなかった」
穀物コーヒーのカップが、かすかに震えた。
彼はゆっくりとこちらを向き、灰色の瞳で真っすぐに見つめる。
「お前が王都を選んでいたら、俺は一度も『よかった』と思わなかっただろう」
「……私も、きっとそうです」
王都に残っていたら、クラリス様とも殿下とも、まともに話せないままだったかもしれない。
雪崩の日、泣きながら「置いていかないで」と縋ることも、未来の話をしようと笑い合うことも、きっとなかった。
「辺境を選んだおかげで、私はここでカフェを開いて、皆さんと出会って、あなたと夫婦になって」
「厄介な人生だな」
「ええ、とっても。でも」
私はカップを両手で包み込み、あたたかさを確かめる。
「それでも、この人生でよかったと、今は胸を張って言えます」
ディルク様の手が、そっと私の指を包んだ。
「なら、俺も全力で守るだけだ。お前が選んだ場所を、これからもずっと」
「頼もしいですね、私の『スローライフを守る盾』様」
星空の下、二人で小さく笑い合う。
頭上では、オーロラの帯がゆっくり形を変えながら、静かに揺れていた。
前世の私は、「未来の話」といえば昇進や契約更新くらいのものだった。
今は違う。明日のスープ、来年の雪祭り、子どもたちが大きくなった時のカフェ、隣町に増えていく看板。
思い浮かべる「これから」が増えるたびに、胸の中の不安は少しずつ小さくなっていく。
「ディルク様」
「なんだ」
「何度考えても、やっぱり私は、ここでよかったと思います」
星空を見上げたまま、私はゆっくりと目を閉じた。
——やっぱり、あの日、辺境を選んでよかった。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
悪役令嬢の辺境スローライフに、少しでも「続きが読みたい」「この先どうなるの?」と思っていただけていたら、とても嬉しいです。
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