第40話 辺境の日々は変わらず美味しい
北の街ノルドハイムに、今日も白い息がゆっくり立ちのぼる。
王都では兵士食堂がどうとか、聖女クラリスの新しい仕事ぶりがどうとか、行商人ラウルさん経由で賑やかな噂が届いているけれど……。
「はい、現場はこちら。スコーン生地と格闘中の、のんびりカフェでーす」
私は粉まみれの手を見下ろし、小さくため息をついた。
作業台の上には、小麦と雑穀を半々にした生地の山。刻んだドライフルーツと砕いたナッツがたっぷり混ざっている。
「リリアナ様、『春待ちスコーン』って名前でしたっけ?」
「はい。雪が溶ける前から、気持ちだけでも先に春を迎えたい作戦です」
オーブンの前で温度を確認しているマリアが、くすっと笑った。
「名前からして、もう温かい感じがいたしますね」
「味もそうなるといいんですけど……」
私は《生活鑑定》を起動し、捏ね上がった生地にそっと視線を落とす。
《生活鑑定》
対象:春待ちスコーン(焼成前)
体温 +2
満腹感 +2
幸福感 +2
(よし、数値上は合格。あとは、オーブンさえご機嫌なら……)
そう、問題はそこだ。
カフェ開店からずっと頑張ってくれている据え置きオーブンは、最近どうにも気難しい。温度が上がりきらなかったり、逆に一部分だけ焦げたり。
「マリア、予熱はどうですか?」
「温度自体は上がっているのですが……」
彼女が扉を少し開けた瞬間、もわっと熱と一緒に、かすかに焦げくさい匂いが漏れてきた。
「……さっきの残り火、少し強すぎたかもしれません」
「え、それはとても嫌な予感がするんですけど」
慌てて中を覗き込むと、昨夜から焼き直していた鉄板の端が、真っ黒になっている。
「オーブンさん、朝から全力出さなくていいですから!」
叫んでみても、もちろん返事はない。
私はすぐに鉄板を引き出し、焦げた部分を外しながら、頭の中で今日のスケジュールを組み直した。
「ノエル君が来るまでに、予備の小さいオーブンも温めておきましょう。大きい方は温度、少しずつ様子見で」
「はいっ」
マリアがきびきびと動き出した、そのとき。
「おはよーございます! ……って、うわ、焦げてる匂いがするんですけど」
噂をすれば、だ。勝手口から、ノエルが袋をぶら下げて入ってきた。
「いいところに。ノエル君、パン屋さんのところで、オーブン職人さんに連絡取れないか聞いてもらえますか?」
「朝イチから重い仕事振ってくるなあ、このカフェ聖女」
口では文句を言いつつも、ノエルは器用に袋をカウンターに置く。
「とりあえず、今日の仕入れ報告から。牛乳、確保。バター、ちょいお高めだったけど、話つけて少し負けてもらいました」
「さすがです。そのバターは春待ちスコーンと、新しいハーブブレンド用ですね」
私は、奥でふつふつと煮出している鍋を振り返る。
そこには、カモミールとミント、それにほんの少しのシナモン。
《生活鑑定》
対象:春待ちハーブブレンド(試作)
体温 +1
緊張 −2
安眠 +3
(王都の偉い方々が頑張っている間くらい、こっちはぐっすり眠れる飲み物を増やしておきましょう)
そんなことを考えているうちに、開店時間が近づいてくる。
焦げ臭さもようやく引いてきて、私は看板をくるりとひっくり返した。
「本日ものんびりカフェ、通常営業です」
◇
朝一番に来るのは、今日も変わらず兵士たちだ。
冷え切った鎧を外しながら、彼らはカウンターに腰を下ろす。
「戦士の一杯、いつもの」
「今日は新作もありますよ。春待ちハーブブレンドと、春待ちスコーンです」
「名前からして優しそうだな……いや、まずはいつものやつで頼む」
笑いながら注文してくる顔ぶれは、もうすっかり見慣れたものだ。
私はスープ鍋をかき混ぜながら、ノエルに合図を送る。
「ノエル君、カウンターの兵士さんに戦士の一杯が3つ。奥のテーブルの猟師さんたちには、パンとスープのセットを」
「了解っす。戦士の一杯が4つと、パンセットですね!」
「3つと1つです! どこで1つ増えましたか!」
思わずツッコミを入れると、兵士たちがどっと笑い声を上げた。
「ノエル、落ち着け。お前、さっきからニヤニヤしてるぞ」
「だ、誰が!」
ノエルの耳まで真っ赤だ。《生活鑑定》をのぞくと、「幸福感+3」がぴょこんと跳ね上がっている。
(王都がどう変わっても、こういう顔が見られるなら、それで十分なんだけどな)
そんなことを思いながら、私はせっせと皿を並べていく。
やがて、マリアの第一陣・春待ちスコーンも焼き上がった。
「わ、いい匂いだな」
「外、さくさくで中ふわふわです……!」
かじった瞬間、兵士の一人が目を丸くし、マリアがほっと胸に手を当てる。
オーブンの機嫌も、どうにか今日は持ってくれそうだ。
◇
日が傾き、夕方のお客様も帰っていき、カフェの中に、穀物コーヒーの香りだけが残る。
片付けを終えたマリアとノエルが「お疲れさまでした」と帰っていき、扉の鍵を閉めたところで。
「リリアナ」
奥の特等席から、低い声が私を呼んだ。
いつの間にか、ディルク様がいつもの席に座っている。カウンター越しに見慣れた横顔があるだけで、一日の終わり感がいっそう増すのだから不思議だ。
「お疲れさまです、ディルク様。今日も穀物コーヒーでよろしいですか?」
「ああ。いつもののでいい」
私はカップを温め、ノルドハイムブレンドを注ぐ。
湯気越しに見る彼の顔は、昼間より少し柔らかい。
「王都からの報告、ラウルさんが持ってきていましたね」
「ああ。兵士食堂と市民食堂が整い始めたそうだ」
「少しでも、温かいごはんにありつける人が増えているなら、よかったです」
私がそう言うと、ディルク様は小さく頷き、カップに口をつけた。
静かな沈黙が落ちる。けれど、それは居心地の悪いものではなくて。
やがて、彼はふと思い出したように顔を上げた。
「結婚式だが」
「は、はい?」
突然の単語に、私は手に持っていた布巾を危うく落としそうになる。
「ここでやろうと思う」
「……ここで、ですか?」
反射的にカフェの中を見回してしまう。
カウンターとテーブル席、奥の暖炉。小さな店だけれど、私にとっては世界の中心みたいな場所。
「教会で式を挙げるのも必要だが、皆と祝うのは、ここがいい」
ディルク様は、当たり前のことを告げるみたいに淡々と言った。
「お前が作った場所だ。お前が『居場所だ』と言った場所で、区切りをつけたい」
心臓が、どくん、と音を立てる。
さっきまで穏やかに流れていた時間が、急に色を変えていく。
「そ、それは……そんな、床も狭いですし、兵士さんたちも皆来たらぎゅうぎゅうですし……」
「構わん。詰め込めばいい」
即答だった。迷いがなさすぎて、思わず笑ってしまう。
「本当にもう……ディルク様は、時々大胆なんですから」
「今さらだろう」
短いやりとりのあと、彼は少しだけ視線を落とした。
「嫌か」
「……嫌なわけ、ないじゃないですか」
自分でも驚くほど、すっとその言葉が出てきた。
恥ずかしさをごまかすように、私はカウンター越しにカップを差し出す。
「じゃあ、そのときも、今日と同じ味を用意しておかないといけませんね」
「ああ。楽しみにしている」
彼の返事は相変わらず短いのに、胸の奥にじんわりと広がっていく。
◇
ディルク様を見送って、ひとりになったカフェの中で、私は焙煎器をそっと撫でた。
王都の空がどう変わっていっても、食堂がどれだけ立派になっても。
「ここで出す一杯と一皿は、きっと変わらない」
穀物コーヒーの香りに包まれながら、私は小さく息を吐く。
「王都がどうなっても、この店の味は変わらない。……ここが、私の選んだ居場所だから」
そう胸の内で呟き、私は明日用の豆を、いつも通りの加減で炒り始めた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
辺境の小さなカフェで、ふたりの未来が少しずつ形になってきました。
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これからもリリアナとディルクの物語を一緒に見守っていただけたら嬉しいです!




