第33話 夜更けの告白と、譲れないもの
その夜、私はなかなか眠れずにいた。
領主館の客間は暖かく、ベッドもふかふか。それでも天井を見つめるたびに、昼の光景がよみがえる。
「彼女は、この領の大切な人間だ」
皆の前で、ディルク様がそう言い切ってくれた。思い出すだけで胸の奥が熱くなり、嬉しさと照れくささで、ますます眠気が遠のいていく。
枕をぎゅっと抱きしめたところで、控えめなノックの音が響いた。
「リリアナ様、起きていらっしゃいますか?」
「ええ、どうぞ」
ドアが少し開き、気まずそうなマリアの肩越しに、小柄な人影が立っていた。薄い外套の裾には、溶けかけた雪。泣きはらしたように赤い目が、まっすぐこちらを見る。
「……クラリス様?」
思わず上半身を起こすと、聖女クラリスはぎゅっと裾を握り締め、深く頭を下げた。
「夜分に、失礼いたします……どうしても、リリアナ様とお話がしたくて……」
「マリア、お茶をお願い。それと、誰にも邪魔されないように見張っておいて」
「は、はいっ!」
マリアが慌ただしく下がり、私はクラリスを部屋の中へ招き入れた。
◇
簡易のテーブルに穀物コーヒーが二つ。香ばしい湯気が、こわばった空気を少しだけやわらげる。
「どうぞ。冷えていますから」
「ありがとうございます……」
クラリスは両手でカップを包み、小さく息を吐いた。その肩の震えに、《生活鑑定》をそっと重ねる。
──疲労:特大/不安:特大/罪悪感:特大。
(……相当追い詰められてるわね)
私は表示を消し、彼女が話し出すのを待った。
「……リリアナ様」
やがて、クラリスが顔を上げる。潤んだ瞳が、かすかに揺れた。
「私、あなたに謝らなければならないことが、たくさんあります」
胸の奥がきゅっと締めつけられる。「来たか」とも思った。いつか必要になる話だと、どこかで覚悟していたからだ。
「聞きましょう」
「……最初に、ちゃんと向き合えなくなってしまった日のことを、覚えていらっしゃいますか?」
「聖堂の廊下で、殿下のお仕事の話をしようとした時ですね」
白い石の廊下。ぎゅうぎゅうに詰め込まれたスケジュール表。私はあの時、クラリスの負担を減らすよう進言しようとしていた。
「でも、あの時の私は、怖くて」
クラリスの指が、カップの縁をぎゅっと握る。
「リリアナ様が、とても冷たい目で睨んでいるように見えました。『こんなに仕事をサボって』って責められるんだって、勝手に思い込んで……」
「睨んだつもりはありませんでしたわ」
「仕事を詰め込んだ殿下と、その段取りを組んだ官僚に、心の中で雷を落としていただけです」
「……ですよね」
クラリスはかすかに自嘲して、言葉を続けた。
「聖女って呼ばれて、皆が期待して、でも失敗したら全部私のせいで……。怖くて、周りが敵に見えていました。だから、本当のあなたを見る余裕なんて、どこにもなくて」
「そのあと、取り巻きの方々が言ってくださったんです。『かわいそうな聖女様』『悪役令嬢に虐げられている』って。最初は『そんなことはありません』って否定しました。でも、何度言っても誰も信じてくれなくて」
「『いじめられている可哀想な聖女』でいれば、守ってもらえる。殿下も、私を庇ってくださる。そう思ったら……黙って泣いている方が楽でした。いつの間にか、自分で選んだ役に縛られていて」
「本当は分かっていたんです。書類も日程も、私の見えないところで誰が整えてくださっていたのか。私が一番、あなたに守られていたってことも」
「でも、その事実を認めたら、『可哀想な私』でいられなくなるのが怖くて……殿下に振り向いてほしい一心で、それ以外が全部、見えなくなっていました」
◇
長い告白だった。言い訳も混じっているのかもしれない。でも、ここまで言葉にするのは、きっととても苦しかったはずだ。
「……話してくださって、ありがとうございます」
「謝罪は、受け取ります」
クラリスの肩がびくりと震えた。
「私も、あなたの弱さに気づかなかった。殿下や周囲の大人たちばかり見て、あなた自身を真正面から見ようとしなかった。それは、私の落ち度です」
「そ、そんな……」
「でも」
そこで言葉を切る。胸の内側に、すっと線を引く。
「だからといって、あの日、私が失ったものが戻るわけではありません」
王太子妃の座。王都での立場。かつての交友関係。そして、王都という街そのもの。
「私はここで、別の人生を選びました。この雪の街でカフェを開いて、たくさんの人と出会って、ようやく自分の居場所を見つけたんです」
「だから、過去をなかったことにはできませんし、『元通りに』なんて戻るつもりもありません」
「……はい。分かって、います」
かすれた声で、クラリスがうなずく。
「許してほしいなんて言えないことも。あなたが戻らないって決めていることも」
彼女は椅子から立ち上がり、ぎりぎり床に届きそうなほど深く頭を下げた。
「それでも、お願いいたします」
「顔をお上げください」
思わずそう言いかけたけれど、クラリスは震える声で続ける。
「どうか、この国を助けてください。聖女としてではなく、一人の人間として……私も、この国を救いたいんです」
「クラリス様……」
「もう、誰かを悪役にして守られるのは嫌です。私が選んだ弱さのせいで、たくさんの人が傷ついてしまったから。だからせめて今度は……あなたの力を借りてでも、立て直したい」
「あなたの作るごはんは、人を立ち上がらせる力があるって、何度も報告で目にしました。今日こちらに着いてから飲んだ一杯だけでも、体が楽になって……。あれが国中に広がったら、きっとって」
「私は、一人ではもう立っていられません。でも、逃げたくない。だから……どうか、力を貸していただけませんか」
《生活鑑定》が勝手に反応し、「不安:特大」の横に、「決意:小」という表示が灯る。
(ほんとうにもう、こういうところだけ仕事が早いわね)
そんなものを見せられてしまっては、心が揺れない方がおかしい。
私はゆっくりと立ち上がり、クラリスの前に歩み寄った。
「今ここで、『いいですよ』と軽々しくは言えません」
「……」
「あなたのためでも、この国のためだけでもなく。まずは、私自身と、私の大事な人たちのために、どうするのが一番いいのかを考えたいんです」
「明日、皆が揃った場で、改めて王都からのお願いを聞きましょう。そのうえで、こちらからも条件を出します」
「条件……」
「はい。こちらにも、譲れないものがありますから」
「それでも、まだ私に頼みたいと思うなら……その時は、もう一度頭を下げにいらしてください」
「……はい。明日、もう一度、お願いします」
この夜、私と聖女クラリスの間に横たわる過去は、決して消えはしない。
それでも、少しだけ形を変えて、明日へ続く道筋になり始めている──そんな気がした。
第33話まで読んでくださりありがとうございます!
リリアナとクラリスがようやく真正面から言葉を交わしました。過去は消えないけれど、それでも前に進もうとする二人の選択を書けて、私自身ぐっときています。
続きが気になる、応援したいと思っていただけましたら、ブックマークや評価、ひと言感想をいただけると、とても励みになります。次回、みんなが揃う「条件提示会議」をお楽しみに




