第26話 王都視点 壊れかけの聖女と揺れる王太子
大教会の最奥は、薄い墨を流したみたいな瘴気で満ちていた。
魔法陣の中心ににじむ黒を、わたくしはひざまずいて祈りで押さえ込む。
(あと少し……)
胸の奥で灯る光が、削り取られていく感覚がする。汗が頬を伝い、組んだ指先の感覚が遠のく。
「聖女クラリス様!」
支えられて、視界がぐらりと揺れた。
「まだ、できます……わたくし、まだ」
「これ以上は危険ですぞ」
老大神官の声は固い。
「瘴気の核は十分弱まりました。あとは封印術で持たせましょう。あなたが倒れてしまっては、浄化そのものが途絶えます」
分かっている。けれど、唇からこぼれたのは別の言葉だった。
「でも……殿下がお困りに……」
「殿下は、あなたの命と引き換えの平穏など望まれますまい」
本当にそうかしら、と胸の奥で誰かが笑う。
ふらつきながら立ち上がり、神官に肩を貸されて聖堂を後にした。
◇
少しだけ休んだ後、王城での会議に呼び出された。
大きな机の上には王国全図。そこに、瘴気発生地点を示す黒い駒がいくつも刺さっている。
「北東の村にも汚染が広がっている。放置すれば街道が死ぬぞ」
「追加の討伐隊を出すには予算が……」
「それは財務卿の責任だろう!」
飛び交うのは数字と責任の押し付け合い。
北の村で震えていた子どもの泣き声の方が、よほど生々しいのに。
「クラリス」
名前を呼ばれ、背筋が伸びた。地図の向こうで、アルバート殿下が眉根を寄せている。
「先ほどの浄化はどうだ。大教会は、まだ持つか」
「……はい。瘴気の核は弱まりました。ただ、増える速さが以前より早くて……浄化の頻度を上げる必要があるかと存じます」
「そうか」
殿下はこめかみに指を当て、短く息を吐いた。
「聖女の負担は理解している。だが国中で瘴気が暴れれば、被害はそれどころでは済まない。……何とかしてくれ」
祈りとも命令ともつかない一言が、胸に刺さる。
(殿下は、わたくしを信じて頼ってくださっている。そうよね)
言い聞かせないと、不安が膨らんでしまう。
会議は再び、数字と被害報告の応酬へと戻っていった。
◇
自室に戻り、鏡台の前に座る。
映った自分は、頬が少しこけ、目の下に影を落としていた。
「……ひどい顔」
聖女として、もっと凛としていたいのに。
(国の役に立ちたい。みんなを守りたい。けれど――)
胸の底に、もっと我儘な願いが沈んでいる。
(わたくしは、殿下に愛されたいだけなのかもしれない)
たくさんの人を癒やして、称えられて。その先で、殿下だけが特別な笑顔をくれたら、と。
「なのに、現実はいつも『国』と『聖女』のお話ばかりですわね……」
クラリスという一人の女の子のことなど、誰も深く尋ねない。
視線が、ふと過去をなぞる。
――婚約破棄の夜。涙ながらに、わたくしは訴えた。
リリアナ様が酷いことをした、と。
怠けていたわたくしを叱っただけの言葉を、わざと悪意あるものとして並べ立てて。
「本当に、あれでよかったのかしら」
鏡の中の自分は答えない。ただ、少しだけ罪悪感をにじませていた。
◇
夕刻、再び王城へ呼び出される。
今度の部屋には、殿下と数名の高位神官だけ。机の上には封蝋付きの書状が幾つも積まれていた。
「教会本部からの報告だ。辺境ノルドハイムに関するものらしい」
殿下が一通を手に取り、封を切る。神官の一人が説明した。
「北の辺境にて、瘴気による重傷者が、祈りなしで急速に回復したとの報告が。ある“カフェ”と名乗る店の料理を口にした兵士が、一夜で歩けるまでに癒えたそうです」
「食事で……瘴気が?」
思わず声が漏れる。神官はうなずいた。
「現地では、その店主を『カフェ聖女』と呼んでいるとか」
ざわ、と空気が揺れた。
「……聖女?」
殿下が報告書を奪うように取り上げ、目を走らせる。
次の瞬間、その手がぴたりと止まった。
「リリアナ・フォン・グランツ」
低く落とされた名に、部屋の空気が凍る。
「殿下……?」
問いかけるわたくしに、殿下は苦い表情のまま告げた。
「辺境ノルドハイムにて、元公爵令嬢リリアナ・フォン・グランツがカフェ店主として領民を癒やしている、とある」
(リリアナ様が……人を癒やしている? あの、わたくしが“悪役”に仕立てた人が)
罪悪感が、胸をぎゅっと掴んだ。
「情報部に命じる。辺境ノルドハイムへ密偵を送れ」
殿下の声はよく通るが、その奥に焦りが混じっている。
「この『カフェ聖女』とやらの正体を確かめろ。リリアナが本当に人を救っているのなら……いや、ともかく、国にとって有用かどうかを判断する必要がある」
謝罪でも後悔でもなく、「有用かどうか」という言葉。
その残酷さが、なぜか他人事に思えなかった。
神官たちが部屋を出てゆき、残されたのは殿下とわたくしだけになる。
「殿下」
呼びかけると、殿下は一瞬だけ目を伏せた。
「クラリス。お前にばかり負担をかけているのは分かっている。だが今、この国は聖女の力なしでは立っていられない」
「……はい」
「もし辺境に、同じような力を持つ者がいるのなら――」
言葉はそこで途切れた。握りしめた拳が、白くなる。
「俺は、あの日の選択が正しかったのかどうか、確かめねばならないのかもしれん」
あの日。
リリアナ様を悪役に仕立てて、殿下とわたくしの物語を守ろうとした、あの夜。
「殿下。わたくしは、殿下のお役に立ちたいのです。たとえ、少しぐらい壊れそうでも」
本音が混ざった一言に、殿下は目を見開く。
「……無茶はするな。お前が倒れれば、国が持たない」
やっぱり、最後に出てくるのは「国」。
「はい。頑張りすぎないように、頑張ってみますわ」
自嘲気味な言葉に、殿下はかすかに笑った。
その笑みを見るたび、わたくしはまた限界ぎりぎりまで祈ってしまうのだろう。
遠い雪の街で、「カフェ聖女」と呼ばれる誰かが穏やかな灯りをともしているとも知らずに。
(もし本当に、同じ力を持つ人が辺境にいるのなら……)
誰にも聞こえないよう、小さく祈る。
「いつか、会えますように」
ここまでお読みいただきありがとうございます!
王都側でも少しずつ「歪み」が見え始め、クラリスもアルバートも揺れ始めました。
辺境のカフェ聖女=リリアナの噂が、二人をどう動かすのか…ときめきとざまあ(予定)を楽しみにしていただけたら嬉しいです。
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