第20話 限界まで頑張る悪役令嬢と、本気で怒った辺境伯
寒波が街を包み込んでから、何日目だっただろう。
窓ガラスは一日中白く曇り、扉を開ければ、すぐ近くまで冬そのものが迫っているみたいな冷気が流れ込んでくる。
「お嬢様、次の鍋、そろそろ底が見えてきました」
「はい、すぐ足しますね。ノエル、薪は大丈夫?」
「大丈夫じゃねえから聞きに来たんだよ。裏の薪、このあと運び込んだらほんとにからっぽになるぞ」
ノエルの頬も、マリアの指先も赤く荒れている。みんな疲れているのに、誰も弱音を吐かない。
だからこそ、私も笑っていなきゃいけない気がして、今日もおたまを握る手に力をこめた。
昼は避難してきた子どもやお年寄りでぎゅうぎゅう、夜になれば仕事を終えた兵士たちが暖を取りにやって来る。
鍋の中を覗き込み、穀物コーヒーの香りを確かめ、またスープをすくってよそう。それを、朝からずっと繰り返していた。
「……お嬢様、少し座ってくださいませんか」
「あともう少しだけ。今来てくださっている方々が落ち着いたら、ちゃんと休みますから」
マリアの眉間のしわが、ますます深くなった。
前世の上司もよく同じ顔をしていた気がする。違うのは、あの時の私は嫌々働いていて、今は自分の意志で鍋の前に立っていることだ。
(大丈夫、大丈夫。社畜時代に比べたら、まだ残業数時間分くらいの感覚だし)
そう心の中で軽口を叩きながら、私はふと、自分自身に《生活鑑定》を向けてみた。
《生活鑑定》
リリアナ・フォン・グランツ
疲労 : 最大値付近
睡眠不足: ++
栄養不足: +
集中力 : −1
転倒リスク: 警告
「……真っ赤ですね、私」
思わず苦笑が漏れる。
警告表示なんて、前世の勤怠管理アプリ以来だ。
「お嬢様?」
「いえ、何でもありません。まだ動けますから」
《生活鑑定》のウィンドウをそっと閉じて、私はまた鍋に向き直る。
ここで手を止めたら、寒さに震える誰かのスープが遅れてしまう。そのことの方が、よっぽど怖かった。
◇
その夜。
避難してきた人たちもだいぶ引き上げて、店の中に残っているのは、遅番を終えた兵士数人と、奥のいつもの席に座るディルク様だけだった。
「リリアナさん、これ、最後のパンの耳です」
「ありがとう、ノエル。じゃあ、この分で今日のところは終わりにしましょう」
穀物コーヒーの香りと、煮込まれたスープの湯気が、まだ店内にたゆたっている。
《生活鑑定》でそっと店全体を覗けば、「不安」の色は薄れ、「安心」と「眠気」がじわじわと広がっていた。
(うん、今日もちゃんと温められた)
ほっと息をついた、その瞬間だった。
視界の端が、じわりと暗くなる。
カウンターの端が遠のき、手元のカップが妙に小さく見えた。
「……あれ?」
足から力が抜ける。ぐらり、と世界全体が傾いた。
おたまを置くつもりだった手は、空を切り、そのままカウンターの内側へと崩れ落ちていく。
「リリアナさん!?」
ノエルの叫び声が、やけに遠く聞こえた。
誰かが椅子を引く音、マリアの悲鳴、慌てふためく足音。全部が水の底から聞いているみたいにぼやけていく。
(あ、やっちゃった)
最後にそう思ったところで、意識は真っ黒に途切れた。
◇
次に目を覚ました時、見慣れない天井が視界に入った。
厚手の天蓋、壁際のランプ、しっかりした木の梁。ここは……領主館の客間だろうか。
「……起きたか」
低い声に視線を向けると、ベッドのすぐそばの椅子に、腕を組んだディルク様が座っていた。
眉間には、見たことがないくらい深いしわ。
「ディルク、様……?」
「医者はさっきまでいた。重い病ではないそうだ。……だがな」
そこで言葉が切れた。
静かな部屋の中で、薪のはぜる音だけが小さく響いている。
「お前、自分の状態がどうだったか、分かっているのか」
ゆっくりと告げられた言葉に、胸がきゅっと縮まる。
私は慌てて上体を起こそうとして、すぐに頭がくらりとした。
「だ、だいじょうぶです。少し立ちくらみをしただけで……」
「大丈夫なら、あんな倒れ方はしない」
珍しく、声が鋭くなった。
驚いて目を見開く私に、ディルク様は深く息を吐く。
「ヘルマン医師は言っていた。疲労も睡眠不足も栄養不足も限界ぎりぎりだったとな」
「それは、その……避難所営業もありましたし、皆さんが大変で……」
「皆のことは兵士たちに任せろと言ったはずだ」
きっぱりと遮られる。
その言葉は、叱責そのものなのに、不思議と突き放されている感じはしなかった。
「お前が鍋を振るってくれるのはありがたい。実際、お前のスープと穀物コーヒーにどれだけ救われているか分からん」
「なら……」
「だがな」
灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。
逃げ場のない視線に、思わず息を呑んだ。
「お前が倒れたら、この街が困る」
静かな声だった。怒鳴られているわけでもないのに、その一言は、胸の奥にずしんと落ちてくる。
「避難してくる者も、兵士たちも、マリアもノエルも……皆、お前のいるカフェだから安心して集まるんだ」
「……そんな、大げさですよ」
「大げさじゃない」
言い切られてしまう。
言葉を失った私の手を、ディルク様がそっと取った。大きくて、荒れた掌。けれど触れ方は驚くほど優しい。
「自分の体を、もっと大事にしろ。お前がいなくなったら困るのは……この街だけじゃない」
最後の一拍だけ、ほんの少しだけ声が揺れた。
その意味を考えた瞬間、顔に血が上るのが自分でも分かる。
(え、今のって、どういう……)
「……す、すみませんでした。無茶をしました」
「謝る相手は俺だけじゃないが、まずはそれでいい」
ぎこちなく頭を下げると、彼は小さくうなずいた。
「しばらくは店に立つのを禁止する。今日明日はここで休め。皆には俺から話しておく」
「えっ、で、でも……」
「反論は聞かん」
有無を言わせない口調に、思わず口をつぐむ。
こんなふうに強く言われるのは苦手なはずなのに、今はなぜか、心のどこかがほっとしていた。
(……ああ、そうか)
前世では、誰も私の心配なんてしてくれなかった。倒れるまで働いても、「悪いけど、もう少しだけ頼む」と言われるばかりだった。
だからきっと、私は今、怒られているのに安心している。
「ちゃんと、休みます。戻ったら、また皆さんに温かいものを出せるように」
「それでいい」
握られたままの手に、ほんの少しだけ力がこもる。
胸の奥が、穀物コーヒーみたいにじんわりと温かくなった。
◇
しばらく取り留めのない話をしてから、ディルク様は「少し外で用件を片付けてくる」と席を立った。
けれど、扉の前で一度だけ振り返る。
「……ちゃんと目を閉じていろ」
「はい。おやすみなさい、ディルク様」
「ああ」
扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。
私は再び布団に沈み込み、ゆっくりと瞼を下ろした。
どれくらい眠っていたのか分からない。
ふと、手の甲に暖かいものが触れている感覚で、半分だけ意識が浮かび上がる。
「……お嬢様、お熱は下がってきているようですね」
マリアの小さな声。
重たい瞼をほんの少しだけ持ち上げると、枕元の椅子に座ったディルク様が、俯いたまま私の手を握っていた。完全に寝落ちしている。
その姿を見下ろして、マリアが口元を押さえ、こっそりとため息をつく。
「……あーあ。もう完全に落ちていらっしゃいますね」
そのぼそりとした一言に、思わず笑いそうになって、慌てて布団に顔をうずめた。
心臓の鼓動が、寒波なんてどこかへ追いやるくらい、元気よく跳ねる。
(……もう少しだけ、甘えさせてもらってもいい、かな)
握られた手の温もりに身を任せながら、私は静かに目を閉じた。
カフェの鍋にまた火を入れられるその日まで、しっかりと休むことを胸に決めながら。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
限界まで踏ん張って倒れてしまったリリアナと、本気で怒ってくれるディルク様……書きながら「これが…過労カフェインラブ…!」と震えていました。
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