第18話 王都からの手紙と、疲弊する聖女の影
雪祭りの翌朝、店の中にはまだパンケーキの甘い匂いが漂っていた。
「リリアナお姉ちゃん、またあのふわふわ焼かないの?」
カウンターにあごを乗せたミアが、夢見るような目を向けてくる。
「パンケーキは特別な日だけです。小麦姫をぜいたく使いするお姫さまメニューですから」
「こむぎひめ……高そう」
「ええ、とても」
横でノエルが笑った。
「聞いたな、ミア。小麦姫は高貴なんだってさ」
「じゃあ、つぎのお祭りまでガマン?」
「その代わり、今日は雪国クッキーを焼きましょう。小麦姫には節約モードで働いてもらいます」
そんな会話をしていたとき、扉がこんこんと叩かれた。まだ《準備中》の札が出ている時間だ。
顔を出したのは、領主館の兵士だった。
「リリアナ殿。閣下がお呼びです。至急、領主館へ」
「……分かりました」
胸の奥がきゅっと縮む。魔物、瘴気、王都。嫌な単語がいくつも頭をよぎる。
「マリア、店をお願いします」
「承知しました。ノエル君、仕込みは任せましたよ」
私はコートを羽織り、雪を踏みしめて領主館へ向かった。
◇
書斎には、紙とインクの落ち着いた匂いが満ちている。
ディルク様は机の前に立ち、一通の封書を差し出した。
「王都からだ。お前宛てだが、正式な文書なのでここで開けてもらう」
「……グランツ公爵家の封蝋ですね」
見慣れた紋章なのに、指先が少し震えた。ここへ来てから、初めての実家からの手紙だ。
封を切ると、きっちりと整った父の字が並んでいた。
『婚約破棄の手続きは、王家および教会にて正式に完了した』
『辺境での生活に必要な支援は、ノルドハイム辺境伯に一任する』
『体調には留意せよ』
それだけ。感情を削いだ、事務的な文面だ。
(……お父様らしい)
最後まで読み終えて息をついたとき、紙の端の小さなインクの滲みに気づいた。
そのすぐそばに、短い追伸が添えられている。
『追って聞いたところ、聖女クラリス殿の任務が過重になっているとの噂がある』
『しばしば倒れかけているとも聞く。お前は決して無理をするな』
文字を追った瞬間、背中を冷たいものが走った。
(来た……)
前世でプレイした乙女ゲームの後半シナリオ。瘴気が濃くなり、魔物が増え、聖女が一人で浄化に駆り出されて、やがて限界を迎えるパートだ。
「良くない話も混じっていたようだな」
沈黙が長引いたのを見て、ディルク様が低く問いかける。
私は手紙を少し持ち上げ、要点だけ伝えた。
「婚約破棄の手続き完了と、辺境のことはお任せします、ということでした」
「ふむ」
「それと、追伸で。王都での聖女クラリス様の任務が過酷になっていて、倒れかけている、という噂があるそうです」
ディルク様の眉がわずかに動く。
「ありそうな話だ。あれほどの力があれば、王都は使えるだけ使おうとする」
「……前世のゲームでも、そんな扱いでした」
つい、ぽろっと本音が漏れる。
「このままだと、王都は」
「壊れるかもしれん、か」
続いた言葉に、私は目を瞬かせた。
ディルク様は窓の外、遠い空を睨むように見つめている。
「瘴気の流れは繋がっている。王都で渦が大きくなれば、いずれここにも影響が来る」
「馬車の中から見えた、あの黒い霧みたいなものですね」
(クラリスも、ほぼ社畜コースでは……?)
「ディルク様」
「何だ」
「王都は……大丈夫なのでしょうか」
問いながら、自分がどこまでを心配しているのか分からなかった。王都という街か、クラリスという少女か、それとも“物語”そのものか。
ディルク様は小さく息を吐き、こちらを見る。
「正直に言えば分からん。だが」
「だが?」
「俺たちにできるのは、この領を守ることだけだ」
端的な言葉。けれど、その中に重さがある。
「北を抜けさせなければ、王都に瘴気が押し寄せるのを遅らせられる。お前の聖女仲間とやらを守ることにも繋がる」
「仲間というか……同じブラック職場の同僚というか」
「どうりょう?」
「何でもありません」
変な単語を飲み込むと、胸の締めつけが少しゆるんだ。
「私にできるのは、ここで皆さんの体と心を温めることだけです」
私は手紙を握りしめて続ける。
「王都で何があっても、この街まで凍らせないこと。いつか誰かが逃げてきたとき、『ここはあったかい』って言ってもらえる場所にすること」
「それでいい」
即答に、思わず顔を上げた。
「この領と、この店を守ると決めたなら、俺はそれを支える。お前の火を消させはしない」
「……はい。カフェオーナーとして、ちゃんと守ります」
そう告げると、ディルク様の口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
◇
その夜、私は自室のベッドの上で、もう一度手紙を広げていた。
ランプの光が、父の筆跡と、小さなインクの滲みを照らす。
あれが涙なのか、ただの汚れなのかは分からない。
「クラリス……」
追伸の中の名前を、そっと指先でなぞる。
あの日、大広間で泣いていた聖女様。
私を悪役に押しやって、自分は守られようとした弱い女の子。
(それでも、あの子も駒にされているだけなんだよね)
「ごめんね」
誰にともなく呟く。
王都に戻って助けることはきっとできない。
「ここをちゃんと回すから。いつか、この街があなたの逃げ場所になれるくらい、あったかくしておくから」
独り言は、静かな部屋に溶けていく。
窓の外では風が鳴り、雪雲が厚く重なっていた。
私は手紙を丁寧に畳み、小さな箱にしまう。
その上からそっと手を置き、深呼吸した。
「よし。明日は体の芯から温まる、新しいスープでも考えよう」
ここで生きると決めた。
だから私はまず、この街のために鍋に火を入れるのだ。
その温もりがいつか、遠い誰かにも届きますようにと、少しだけ願いながら。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
王都からの正式な手紙で「過去」ときっちり決別したリリアナと、見えないところで疲弊していく聖女クラリス。二人の距離は離れていても、「いつか逃げて来られる場所にする」というリリアナの決意が、この街の温もりを少し強くしました。
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