日本脱出編 第九話:連絡交換
静まり返った店内で,たった一人残された僕はイリーナが出してくれたカクテルを口にする。味は相変わらず美味しい柑橘の香りがふわりと口に広がり,鼻から抜ける。そのあとにアルコールがじんわりと腹を温める。
だが,イリーナも,ボリスさんもいなくなったこのバーで飲むカクテルはまるで,空っぽになった自分を少しの足しにしかならない酒で満たすような心持ちにさせた。
二人が奥に入ってからしばらく経っている。
誕生日プレゼントを渡した直後の沈黙——
そしてボリスの『このグローブ、どこで買った?』という問いかけ——
その流れのまま、二人は何も言わず奥へ消えていった。
僕はグラスの縁を指でなぞりながら、何とも言えない不安を覚える。
イリーナの表情がほんの一瞬だけ変わったのを、見逃したわけじゃない。何かを考えているような。何かに戸惑っているような。
——僕、何か変なこと言ったかな?
そう考えていたそのとき。
「待たせたなぁ!」
唐突に響いた明るい声に、思わず肩が跳ねた。
奥の扉が勢いよく開く。
「ははは! 坊主、お前やるじゃねぇか!!」
——なぜか、ボリスさんとイリーナが揃って誕生日帽子をかぶって出てきた。
「…………」
僕は一瞬、言葉を失う。
「なんだよ、驚いてるじゃねぇか! 逆ドッキリ成功ってわけだな!」
ボリスが豪快に笑いながら、帽子の角度を直す。なにこの光景。
僕の知ってるボリスは、こんなパーティー感満載な姿じゃない。
イリーナに至っては、帽子をかぶりながらも不機嫌そうに腕を組んでいる。
「……えっと、これ……?」
「決まってんだろ、サプライズさ!」
ボリスが大げさに腕を広げる。
「俺とイリーナでな、坊主が来るかどうか賭けてたんだよ!」
「え?」
「俺は『絶対来る』、イリーナは『来るわけがない』ってな!」
「…………」
イリーナはじっと僕を見つめている。
その視線には、どこか測るような鋭さがあった。
「でな、俺が勝ったんでよ!」
ボリスが満面の笑みを浮かべる。
「イリーナが罰ゲームってことで、この帽子をかぶることになったわけだ!」
「…………」
僕は思わず、イリーナの頭に乗った帽子を見つめる。
「…………」
イリーナは無言で視線を逸らした。
「ま、そんなわけで!」
ボリスが僕の肩をバシッと叩く。
「今日はイリーナの誕生日だしよ、せっかくだから飲め! 飲め!」
「あ、えっと……」
混乱したまま、僕はグラスを持ち上げた。
——何かおかしい。
確かにこれは、ボリスらしいノリだ。
でも、イリーナの様子が違う。
誕生日の話を出したときの、あの微妙な表情。
そして、この突然の誕生日サプライズ。
何かを誤魔化している。
でも、それが何なのかは——まだわからない。
「じゃ、坊主! 今日はパーッと楽しもうぜ!」
ボリスが豪快に酒を煽る。
僕は曖昧に笑いながらも、イリーナの視線を感じていた。
「じゃあ……乾杯。」
ボリスに続いて、僕もグラスを持ち上げた。
イリーナも無言でグラスを手に取り、カツンと軽くぶつける。
「どうした、坊主? 乗ってねぇな?」
「えっ、いや……」
「せっかくのイリーナの誕生日だぜ?」
「いえ、ただ……なんか変な感じで……」
「ほう? 変、とな?」
ボリスがグラスを置き、身体をこちらに向けた。
誕生日の話題から、違和感が引っかかる。
いや——思えば、変だと感じることはここ数日ずっとだ。
僕はこのところ抱えている得体の知れない感覚を思い出す。
何かが変わったようで、でも変わっていないような感覚。
まるで世界がわずかにずれているような違和感。
「なんというか……ずっと変なんですよ、ここ最近。」
「どういうことだ?」
「ちょっとおかしいと思われるかもしれませんけど……イリーナさんと出会ってしばらくしてから、ずっと何か違和感みたいなのを感じるんです。」
言葉を探しながら、僕は続ける。
「周りは何かが違っていて、でも遠くを見渡せば、世界は何も変わっていないように見えて……。それがずっと続いていて。で、今日ここに来て、二人が裏から出てきたときから——
ここも何か変になった…。」
ボリスは軽く顎に手を当てながら、考えるように言った。
「そりゃお前ぇ、イリーナに恋をしたからじゃねぇか?」
「ふぇっ⁉ そ、そんなこと⁉」
「はははっ! まぁそういうことじゃねぇか? 恋は人を盲目にするって言うしよ。」
「うーん……」
ボリスは愉快そうに笑うが、僕は納得しきれなかった。確かに、イリーナに惹かれているのは認める。
でも——違和感の正体がそれだけだとは思えない。
「坊主。」
「……なんですか?」
「違和感があるなら、その正体を知るのが怖いのか?」
「え……?」
思わずボリスを見上げた。
「お前ぇの言う“違和感”ってのは、きっとただの気のせいじゃねぇ。 だったら、それが何か確かめるしかねぇだろ?」
「……確かめる……」
「そうだ。恋愛でもそうだが——曖昧なままでいたら、いずれそれに飲み込まれちまうぜ?」
「…………」
飲み込まれる、か。
確かに、今の僕は違和感を抱えながら、どうすることもできずにいる。
まるで霧の中にいるみたいに——
「ほらイリーナ、今度坊主と一緒にパフェでも食いに行ってみたらどうだ? 坊主、お前ぇもイリーナともっと親睦を深めりゃ、違和感もなくなるかもしれねぇぞ!」
「で、でも……」
「構わん。」
「へっ?」
イリーナが短くそう言うと、すっと手を伸ばし、紙片をカウンターに置く。
「アリストテレスと言ったか? 喫茶店は。」
その紙には、電話番号が書かれていた。
「私の電話番号だ。」
「あっ……ありがとうございます!」
「お前も」
「ん?」
「お前も住所と電話番号を教えろ。時間が出来たら…迎えに行く。」
「はっはい!」
急いでカウンターに置いてある注文メモに,備え付けられてあるペンで住所を書き,それをイリーナに渡す。
イリーナは片手で僕が書いたのをまじまじと見つめていると、ボリスが笑いながら僕の背中をバシッと叩いた。
「よかったな、坊主! 楽しんでこいよ!」
「はい! ボリスさんもありがとうございます。」
違和感は消えない。でも、知るのが怖いわけじゃない。
もしそれが何かを意味するなら——いずれ、自分で確かめるしかない。
「じゃあ、改めて——乾杯といくか!」
ボリスがグラスを掲げる。
イリーナは無言のまま、それに倣った。
僕は一度息を吸い込み、そして——
「……乾杯!」
グラスを再び,今度は純粋な喜びとともに掲げた。
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