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日本脱出編 第八話:誕生日

今日はいよいよイリーナの誕生日だ。前に、彼女の知り合い,アレクセイからこっそり教えてもらった日。

すでに何度も通った道なのに、今日は妙に緊張する。

彼女の微笑み。

初めてこの店を訪れたときに見せてくれた、あの一瞬の笑み——

あれをもう一度見られるかもしれないと思うと、胸の奥がざわついた。

視界の先に、馴染みのある看板が見えてくる。

レンガ造りの建物。その前にはシャッターが下ろされていた。

敷地には新しいタイヤの跡。

今日、彼女は車でどこかに出かけたのだろうか——

ゆっくりとドアに近づく。

一歩、また一歩。

ついに扉の前に立ち、深呼吸してからドアノブを回す。

静かに力を込めて押し開けると、店内の空気が緩やかに流れ込んできた。

カウンター越しにイリーナの姿が見えた。

今日の彼女は、初めてここに来たときと同じく黒で統一された装いだった。

黒のシャツ、その上に黒のレザージャケット。

横目に視線を移すと、ボリスが座っている。

おそらく彼も、イリーナの誕生日を祝いに来たのだろう。

「よう! 坊主! 待ってたぞ!」

料理を作らせたらしいな。」

イリーナが話したのだろうか。

それとも、ボリスが話させたのか——

横目でイリーナを見る。

けれど、彼女の動きには何の変化もない。

ただ静かに煙を味わっている。

「……はい。美味しかったです。とても……」

素直に答えると、ボリスが満足そうに頷いた。

「そうかそうか! 美味しかったか! 良かったな、イリーナ。」

イリーナがじろりとボリスを睨む。

だが、ボリスは意に介さずグラスを傾けた。

そしてイリーナも、ため息をつくように煙を吐き出し、僕に何を飲むか聞いてきた。

「何にする?」

「……いつものように甘いのをお願いします。」

その言葉に、イリーナは無言でカクテルグラスを取り、手慣れた動作で酒をシェイクし始めた。

シャカシャカと氷の音が心地よく響く。

僕はずっと、胸の奥がどくんどくんと脈打っているのを感じていた。

変なことを口走らないように。

変な顔をしないように。

表情を保とう努める。

「おいおい、坊主。なんだかさっきから様子が変だぞ。」

ボリスが、からかうように言う。

「今更イリーナなんかに緊張することあるか?」

イリーナは黙ったまま、カクテルを作り続けている。

「いえ……」

カウンターに置いた手を組んで、指をもじもじといじる。

ボリスが、それをじっと見つめながらグラスを傾ける。

しばらくすると、イリーナがカクテルを完成させ、カウンターの上に静かに置いた。

「あの!」

言葉もタイミングも選ぶ暇もなく、思わず声を張ってしまった。イリーナの視線が僕に向く。

「これ、どうぞ!」

誕生日プレゼント——グローブを差し出す。

頭を下げ、両手でしっかりと包み込むように差し出した。

だが——

イリーナは、すぐには受け取らなかった。

感謝の言葉を口にするでもなく、ただ沈黙が流れる。

そのまま、数秒——いや、もっと長く感じたかもしれない。一瞬時間さえと止まったのではないのかと軽く錯覚してしてしまう。

ふっと手が軽くなった。イリーナが、グローブを取ってくれたのだ。

顔を上げると、彼女の表情は普段と変わらない。

ただ——

ほんのりと頬がピンク色に染まっていた。静かな目が、じっとグローブを見つめる。

まるで、それがどんな意味を持つのかを確かめるように——

「やるじゃねぇか! 坊主! 見上げたぞ!」

先ほどまで黙っていたボリスが、大きな声を上げた。そんなボリスの声を気にも留めないでグローブをつけて,指を伸ばしたりぎゅっと握ったりした。

「…ありがとう」

グローブを見つめたまま短く放たれた感謝の言葉。顔色はほんのりと色づいている。

ボリスがニヤニヤと笑いながらグラスを揺らす。

「お前が素直に贈り物を受け取るなんて珍しいなぁ?」

その言葉にイリーナがようやく顔を上げる。

「そうか?」

「おう,俺が何かを贈ってもいつもいらないって言うだろ?」

「そんなことない。」

即答する。

「いーや,絶対あるね。」

「ふん」

顔をそらすイリーナ。イリーナとボリスのやり取りを見るとまるでドラマで見る思春期の娘とお父さんみたいなやり取りに見えてしまう。その光景がなんだかほほえましく思えた。

「…で?坊主は何用のプレゼントなんだ?プロポーズにグローブとは珍しいな。」

「いや,そんな……!今日はイリーナさんの誕生日だって聞いたので…」

「ほう,誕生日か。」

ボリスが面白そうに眉を上げた。

「………誕生日?」

イリーナの指がぴたりと止まる。グローブで手を握ったまま,じっと僕を見つめてくる。その視線にはさっきまでの穏やかさが無いように思えた。

「どこでそれを聞いた?」

ほんの少し低い声で聞くイリーナ。

「その…前に店を出たときに会ったイリーナの元同僚から…」

「あん?」

ボリスが眉をひそめる。

「どこの誰だ?」

あの日話した内容を思い出す。

「えっと…アレクセイさん,という人だったかな?」

そう答えた瞬間——場の空気が変わった気がした。

イリーナが動きを止めて指先も微動だにしない。ボリスもまたいつもの調子が嘘のように静かになった。先ほどまでの和気あいあいとした雰囲気が一気に変わる。

「……アレクセイ?」

イリーナの声が、妙に冷たく響いた。

「……あ、はい。その方が……」

言い終わらないうちに、イリーナはグラスを静かに置いた。

——カツン。

氷の溶けた酒が、わずかに揺れる。

「アレクセイが、私の誕生日を?」

「え、ええ……何かの話の流れで……その……」

「……いつ?」

「えっ?」

「いつ、その話を聞いた?」

イリーナの瞳が、鋭く僕を射抜く。

「えっと……確か、3日前,店を出た時だったと思います……」

僕がそう答えると、イリーナは目を伏せ、静かに息を吸った。

「……ボリス。」

「……ああ。」

ボリスもまた、軽く唇を噛む。何が起きているのか、僕には分からなかった。

だが——何か、とんでもなくまずいことを言ってしまった気がした。

ボリスが静かに息を吐き、グラスを置いた。

さっきまでの軽快な態度は消え、まるで違う男のように低い声で問う。

「坊主……そのグローブは、そのアレクセイって男がくれたのか?」

「え?」

「お前に、そいつがこれを買えって言ったのか?」

ボリスの目が細められる。

普段の冗談混じりの雰囲気は完全に消え去っていた。

「い、いえ……違います。これは、中野で買いました。」

僕は慌てて答えた。

「前にイリーナさんが、手袋をよくしているのを見て、誕生日に何か贈れたらと思って……それで、自分で探して……」

そう説明すると、ボリスはしばらく無言のまま僕を見つめていた。

「中野、ね……」

彼は低く呟き、カウンターに肘をつく。

「なら、まあ……」

「……?」

なんとなく安堵の色が滲んだようにも見えたが、それでも完全に警戒を解いたわけではないらしい。

イリーナは無言のまま、グローブを見つめ続けていた。

その手は、どこか強張っているようにも見える。

僕は戸惑いながら、ふと別のことを思い出した。

——クラッカーのことだ。

「あ……」

思わず小さく声が漏れた。

イリーナとボリスが、同時にこちらを向く。

「どうした?」

ボリスが低い声で聞いた。

「いや……その……」

僕は言葉を探しながら、ポケットに手を突っ込んだ。

あった。

取り出したのは、小さなクラッカー。

「それは?」

イリーナの声が、僅かに警戒を孕んでいた。

「アレクセイさんにこれを渡されて…これと一緒に贈り物をでもすればとおすすめされました。」

「貸せ。」

イリーナが手を差し出した。その手には、微かに力が込められている。イリーナはそれをじっと見つめ、一瞬、表情を読ませない顔をする。

「坊主,クラッカーはどうして使わなかったんだ?」

ボリスが指でイリーナが手にしているクラッカーを指さして聞いてくる。

「えーっと,昔からクラッカーの大きな音が苦手でして…それでプレゼントだけを渡そうとかなって。」

「…そうか。ならいいんだ。」

——一体,ボリスさんは何に安堵しているんだろう?

「ボリス。」

短く名を呼ぶと、ボリスは無言で頷いた。

「坊主、ちょっと待ってろ。」

そう言い残し、イリーナとボリスはクラッカーを手に持ったまま、店の奥へと消えていった。

扉が閉まる直前、イリーナの目が僕を一瞥した。その瞳には、いつもの冷静さよりも、鋭い緊張が滲んでいるように見えた。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


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ではでは、次回もよろしくお願いします!

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